第6章 中間試験
第1話 中間試験①
朝から教室は騒々しい。
いくらまだ1学期だとはいえ、高3の定期試験となれば教室にはそれなりの緊張感が漂う。クラスメイトがそれぞれ問題を出し合っている中、胡桃は自分の席に座って、単語の取りこぼしがないか確認している。
昨夜も遅い時間まで勉強していた。その甲斐あって、試験範囲の内容はほぼ網羅できたと思う。が、試験の前にこれほど不安なのは初めてだった。あれだけ勉強したのに、どこかに取り残しがあるのではないかと思うと気も休まらない。
チャイムが鳴った。
担任の大貫が教室に入ってきて、五十音順に席を移動するよう指示した。
席を移動する際に英梨華と目が合ったが、言葉は交わさなかった。英梨華はさほど緊張しているように見えなかった。胡桃は引き攣った自分の顔がすこし恥ずかしかった。
「はい、では机の上に筆記用具と時計だけ出して、それ以外はカバンの中に入れて下さい」
参考書をカバンの中に入れると、途端に胡桃は心細くなった。あれほど勉強したのに、漠然とした不安が胡桃の体を包んだ。
——抜けがあったらどうしよう。
大貫が問題用紙を1人ずつ配る。1時間目は生物の試験。裏返しにされて机の上に置かれた問題用紙を、胡桃はじっと見つめる。
しんとした空気に、飲みこまれてしまいそう。
机の上の使い慣れたシャープペンシルと、消しゴムがとても頼りない。腕時計の中の秒針がとても速く動いているように思えた。
「始め」
大貫のその一言で、バサリと問題用紙をめくる音が教室中に響いた。
胡桃はすぐに試験に取りかかった。時間はたったの60分しかない。1秒たりとも無駄に出来ない。
大問1は実験についての文章を読んで設問に答える問題。
『問1。下線部に関連する記述として最も適切なものを以下の①~④のうちから一つ選べ』
胡桃は①~④の記述を読む。緊張しているからなのか、文章が中々頭に入ってこない。3度読み返して、なんとか内容を理解し、胡桃は解答用紙に解答をかく。
小さく震える息をはく。1問目からこんな調子では、1位を目指すどころの話ではない。落ち着かなければならない。
鼓動が高なるのを実感しながら、胡桃は問題を解き進めていった。問題は思いのほか難しかった。——いや、本当はなんてことない問題なのかもしれない。所詮高校の定期テストで、文系クラスにおける理系教科でそれほど難しい問題が出てくるとも思えない。自分の緊張が何倍も問題を複雑化しているだけで、冷静に見たらとてつもなく単純な問題なのかもしれない。
とにかく、難しいと思う問題はさて置いて、簡単な問題だけは絶対に落とさないようにしよう。用語を覚えることだけはしっかりとしてきた。これだけは誰にも負けないのだ。
問題を解き進めていくと、用語の問題にぶち当たった。
『問6。Y染色体に含まれる、雄性化に関わる遺伝子の名称を答えよ』
きた。
簡単だ。こういう問題を落としてはいけない。サービス問題だと思う。
人間は二つの染色体を持っていて、そのうち女性はX染色体が二つ、男性はX染色体とY染色体を持っている。そのY染色体にだけ含まれている遺伝子。その生き物が雄か雌かになるかの判断は、この遺伝子の有無によって決められるのだ。その遺伝子の名前は——
えっと、名前は——
胡桃のペンがぴたりと止まった。
——あれ?
なんだったっけ。
いや、忘れるはずがない、と胡桃は思う。旧校舎で真理と話をした、あの遺伝子のことだ。男性に乳首が付いているのは、女性の体にこの遺伝子が男性ホルモンを出させるから。
思い出せ。
もうすぐそこまで来ている。ぼんやりと文字が頭に浮かんでいる。確か英語の名前だったはずだ。頭文字は、確か、……「R」、だったような——
「……あれ?」
なんだっけ、
なんだっけなんだっけ、
胡桃は目をつむる。眉間に力がこもる。もうちょっと、すぐそこまで来ている。基本中の基本の問題だ。授業でも何度も聞いた。こんな問題が解けないはずがない。知識の問題だ。覚えさえすれば誰でも解ける。自分も何度も確認した。この単語が載っている教科書のページのレイアウトだって覚えてる。
——お願い、出てきて。
カツカツと、周囲から迷いのなく進むシャーペンの音が聞こえる。
負けてしまう。
こんな簡単な問題が解けないようじゃ、絶対に負けてしまう。
せっかく、——せっかく英梨華から勝負を挑んでもらったのに。英梨華と仲良くなれる二度とないチャンスなのに、これ以上ないと言うくらい勉強したのに、ここで結果が出せなかったら、もう二度と追いつけない。応用問題ならまだしも、こんな基本問題で躓いたらもう勝てるわけがない。
こんなに簡単な問題なのに、
——合格したよ。
合格発表の姉の笑顔。
あの姿になりたいと思っていたのに。あの日から約1年間、コツコツと勉強してきて、やっと、やっと自分が努力すべきことを見つけられたと思ったのに。
どんなことも中途半端にしかしなかった自分が、はじめて自分の居場所を見つけることができそうだったのに——
はっと、我に返った。
胡桃は机に立てかけた腕時計を見る。
——うわ、
手が止まってから、もう10分も経過していた。試験時間はたった1時間しかないのに、こんな基本問題に無駄な時間を割いてしまったら、後半の応用問題まで手が回らなくなってしまう。
胡桃は泣きそうになりながら、次の問題に取りかかる。焦ってはダメだと頭では分かってはいても、無意識のうちに時間を取り戻そうとして気持ちがはやる。全く問題に集中できない。どれだけ問題文を読んでも、目が滑って内容が頭に入ってこない。それがなおさら胡桃を焦らせる。
——しゅ、集中しなきゃ。
試験時間はもう半分を過ぎている。とにかく一つでも良いから大問を終わらせようと思って、胡桃は大門1を捨て、解けそうな問題を探した。
大問3は教科書の章末問題とほぼ同じだった。
さっさとこの問題に取りかかっていれば、と後悔している暇はない。とにかく胡桃はシャーペンを走らせる。緊張でペン先が震えるなんて、初めての経験だった。
大問3を終え、時計を確認すると、残り時間は10分を切っていた。
待って。
待って、本当に待って!
どれだけ願っても、腕時計の秒針は容赦なく進む。
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