第4話 国語と数学

 写したノートを参考にしながら勉強を教えてもらっていると、ふいに文嘉が顔を上げた。


「——ん?」


 食堂の入り口の方をじっと見つめる文嘉。どうしたのかと思い、胡桃も文嘉の視線の方を振り返る。


 が、何があるわけでもない。気がつけばかなり長い時間この食堂にいたようで、太陽はもうほとんど沈んでしまって廊下は薄暗い。節電の影響なのか、食堂の営業時間はまだ続くはずなのに、廊下の蛍光灯は切られていて人影も見えない。


「どうかしたの?」

「——いや、さっき誰かがこっち見ててん。うちと目が合った途端どっか行きよったけど」


 胡桃は半信半疑で目をこらす。しんとして暗い廊下に誰かがいるような気配はない。


「顔はよう見えんかったけど、眼鏡かけてたで」


 ——眼鏡?


 ふと、英梨華の秘書のことを胡桃は思い出した。飯塚という名の眼鏡をかけたスーツの女性。もしかしたら、英梨華と勝負をするということで、様子を見に来たのかもしれない。


「ちょっと待ってて」と文嘉に言い残して、胡桃は食堂を出た。


 そんなに遠くには行っていないだろう——そう思って胡桃が特別棟を出ようとしたら、その人物は食堂入り口横の観葉植物の影に隠れるようにして立っていた。驚いて飛び上がりそうになる。暗闇になれていない目で、その人物の顔を胡桃は見る。


「——あれ?」


 そこにいたのは、予想外の人物だった。


「数美ちゃん?」

「こんばんは、胡桃さん」


 淡々とした口調で、数美が言った。


「——こ、こんばんは。え? 数美ちゃんどうしたの? 塾は?」


 つい数時間前に別れを告げた同級生の顔を、胡桃は不思議そうに見つめる。


「塾は終わりました。今日は1時間だけなので」

「あー、そうなんだ。でも、どうしてここに? 学校に用事?」


 数美はしばらく黙っていた。どう言葉にしたらいいのか、頭の中で考えているようだった。


 やがて、ぽつりとこう言った。


「胡桃さんの計画が、気になっていたんです」


 話を聞けば、こういうことらしい。数美は胡桃と別れた後、相談が中途半端になってしまったことをずっと気にしていた。きちんと計画が立てられるだろうか、自分の言っていることがうまく伝わっただろうか——塾が終わってもその気持ちが収まらないので、気分転換だと自分に言い聞かせて学校へと寄り道してきた。本当に胡桃に会えるかどうかなんて分からなかったが、ダメ元で窓の外から学食をのぞき込むと胡桃がいるではないか。これは良かったと思い、学食に入ってみたはいいものの、胡桃の横に知らない人がいることに気づいた。数美は初対面の人と会話するのが苦手だ。どうしよう、話しかけても良いのだろうか、迷惑にならないだろうか、胡桃たちはなにか話をしている、そこに自分が入っていたら邪魔になるのではないか。


「それで入るのを躊躇っていると、あちらの方と目が合いまして」


 胡桃は店内を振り返る。文嘉は席に座って携帯電話を構っていた。こちらの話は聞こえていないようだ。


「迷惑でしたらすみません」

「迷惑だなんて、そんなわけないよ。来てくれてありがとう、ほら」


 胡桃は数美の手を引いて、学食へと戻る。


 テーブル席に戻ると、文嘉が携帯電話から顔を上げた。そして胡桃に手を引かれる数美を見つけて、ぱっと顔を輝かせた。


「おー、円数美さんやったんや、どうも」


 文嘉に数美のことを紹介しようと思っていた胡桃はおどろいた。


「文嘉ちゃん、数美ちゃんを知ってるの?」

「知ってる知ってる。理系の友達が『めっちゃ頭いい』ってよう言うてるの聞くし」


 胡桃は数美の顔を見る。親しみの表情を浮かべる文嘉とは対照的に、数美の顔には戸惑いの色がわずかに浮かんでいた。


「へえ、そうか胡桃と友達なんや。よろしく、うち国谷文嘉っていいます。C組。文系と理系じゃあんまり接点ないかもしらんけど、仲良くしてほしいな。数学とか教えてもらいたし」


 親しみげに差し出された手を、数美はおずおずと握った。


「転校されてきた方ですか?」

「そうやねん。この春から御月女子にきてん。まだこの学校のこと全然知らんくて。——あ、なんか食べる? 向こうでケーキとか売ってたけど」

「いえ、大丈夫です。家に夕食があるので」

「あ、ほんまに? でも喉渇かへん? ここの抹茶ミルクティめっちゃウマいで。お近づきのしるしにおごるし」

「——いえ」


 数美は遠慮しようとする仕草を見せた。しかしすぐに考え直して、


「では、お言葉に甘えさせてもらいます。——ありがとうございます」

「おっけー。あ、うちのことは文嘉って呼んで。結構気に入ってんねん、この名前」

「分かりました、文嘉さん」


 にっと文嘉は笑った。

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