第2話 不思議な気持ち

 屋上の手すりにもたれて、ぼんやりと遠くの景色を眺めていると、後ろから声をかけられた。


「おーい、米園!」


 顔を見なくても分かった。文嘉だ。


 塔屋から駆け足で英梨華の元へと文嘉がやってきて、


「探したわあ。久しぶりやな。元気してんの?」

「ああ、どうも。お久しぶりです」


 英梨華は答えた。

 こうやって会話をするのは英梨華の家で喧嘩別れをして以来だった。多少後ろめたい気持ちが英梨華にはあったが、文嘉は全くそんなのを感じていないような様子だった。それが却って、文嘉の気づかいを感じさせた。


「どうしてここにいるのが分かったのですか?」

「いやあ、前も試験の成績が帰ってきたとき、米園ここに来たやろ? それで、もしかしたら今日もおるかなあって思って」

「前? ——ああ、中間試験のときですわね。ご存じだったのですか」

「そりゃ米園の声が学校中に響いてたからな」と文嘉が笑った。「試験、胡桃に勝負を挑まれたやろ? 胡桃に聞いたで」

「はい、挑まれましたわ」

「ほんで、どうやったん?」


 ぺらり、と英梨華は成績表を文嘉の方にかざし、


「2位ですわ」

「そっか。今回は胡桃の方に軍配が上がったんやな」

「ええ」


 文嘉は英梨華の顔を見て、


「でも、なんかスッキリした顔してんな」

「ええ」


 英梨華は頷いた。


「不思議なのです。これまでずっと、わたくしは一番を目指して生きてきました。私は1位でなくてはならなかったのです。1位であることで自分を保っていたのです。だから、負けたときには胸が張り裂けそうになるくらい悔しいと思っていました。——なのに、」


 英梨華は今日のホームルームのことを思い出す。


 ——じゃあ、いつものように出席番号順に取りに来てください。佐倉ちゃん。


 大貫に名前を呼ばれて、成績表を取りに行く胡桃の様子を、英梨華は目で追っていた。胡桃はすました表情をしていた。しかし、感情を顔に出さないようにしていても、肩に力が入っているのを英梨華は見逃さなかった。大貫から成績表を受け取るときも、どこか動作がギクシャクしていた。


 そして席まで戻る最中、胡桃は成績表を見た。

 英梨華はそのときに、自分の負けを知った。


 胡桃は決して大袈裟に態度に出すことはなかった。ガッツポーズをすることも、声を出すことも、英梨華に向かってVサインを作ることもなかった。成績表を見ながら、ほんの少し、安心したように顔を明るめただけだ。けれど、一輪の花が小さく咲いたような、喜びと安堵が入り交じった嬉しそうなその横顔は、成績表に「1位」と書かれていなくては出てこないものだった。


 その瞬間、英梨華は確かに「悔しい」と思った。しかしそれはこれまでのように胸を焼き尽くすような憎しみに満ちたものではなかった。どこか清々しくて、思わず「参りました」と拍手したくなるような、そんな気持ちだったのだ。


「——本当、不思議な気持ちですわ」


 英梨華は手すりにもたれ、鼻からゆっくりと息をはいた。


「わたくしの点数が悪かったわけではないのです。学力試験の中では、自己最高の得点なのですわ。それでも負けたということは、佐倉さんはもっと多くの点数を取ったのでしょう。やっぱり、得意科目を伸ばすだけではなく、苦手な科目も補わなくてはいけないようですわ」


 英梨華は成績表に目を通した。明らかに点数が低い科目が一つあった。

 文嘉はすぐに分かったようだった。


「なるほど、国語が足を引っ張ってんのやな」

「はい」英梨華は頷いた。「やっぱり、わたくし1人では点を伸ばすことは出来なかったようです」

「やったら、うちがまた国語教えるよ」


 文嘉がさらりと言った。


 けれど、英梨華は素直に頷けなかった。ピアノ室で文嘉に言った言葉を、英梨華はずっと覚えていた。


「わたくしはあのとき、文嘉さんに失礼なことをしました。ここでまたお願いするというのは、さすがに都合が良すぎますわ」

「そんなん気にせんでええねんって。うちも言い方悪かったし。あんなん怒るのも当然や」

「ですが、」

「ええねん」文嘉が英梨華の言葉を遮った。「実は、うちも米園に言わなあかんことがあんねん」


 その口調は、もしかしたら文嘉はまったく意識していないのかもしれないが、少し緊張しているように英梨華には聞こえた。


「なんですか?」

「あんな、うちも大学受験することにしたねん」


 少なからず英梨華は驚いた。


「何かあったのですか?」

「なんか、米園とか胡桃とか、自分の目標に向かって頑張ってる人を見てたら、うちも自分の夢を目指したいって気持ちが抑えられへんようになって」


 文嘉が手すりに背中を預け、恥ずかしそうに笑った。


「ほんまはな、うち、言葉についてもっと勉強したかったんや。言葉って面白いやろ。人と人とのコミュニケーションて、全部言葉で成り立ってるわけやんか。『言葉は生きている』っていうけど、ほんまにそうやなって思うんよ。時代によって言葉は変化するし、方言なんてまさにそうやん。うちな、人の人格形成に、言葉って大きな影響を与えると思うねん。そういうのをもっと勉強したいってずっと思ってたんや」


 英梨華は文嘉の顔を見つめ、


「文嘉さんらしいですわ」

「やろ?」


 文嘉が笑った。

 目尻を垂らし、白い歯を見せる文嘉の人なつっこい笑顔。自分には絶対にできない笑顔だと英梨華は思った。


「今から勉強をはじめて、受験までに間に合うのですか?」

「まあ、内申が下がらん程度には一応勉強はしてきたからな。ほら、うちこの学校に来るときに編入試験受けてるやろ。高校の編入試験って、結構難しいねんで。1、2年の範囲からまんべんなく問題出されるから」

「そういえばそうでしたわね」と英梨華は言った。「てっきり、国語以外はてんでダメなのかと思っていましたわ」

「失礼やな。でも、あながち間違ってもないんやけどな。ほとんど国語で合格したようなもんやし。——というか、そう、そうやねん、それで米園にいいたいことがあってここに来たんやった」


 文嘉がぽんと手を打った。


「なんですか?」

「あんな、うち、英語が苦手やねん」

「そうですか」

「仮定法とか、完了形とか、全然分からんねん。未来完了進行形とかいわれても、理解できへんねん。未来なのか終わってんのか続いてんのかはっきりしろや! って感じやん。でも米園、英語得意やろ?」

「はい」

「うち、国語得意やん? 国語は教えるから、米園はうちに英語教えて。もう家庭教師とかそんなんなしにして、友達として一緒に勉強しよ。切磋琢磨や、切磋琢磨。お互いに高め合って受験に向かって頑張ろ」

「友達として?」

「そう。友達として」


 その文嘉の言葉を、英梨華は噛みしめるように聞いた。


 そして英梨華はぽつりと呟いた。


「文嘉さんは羨ましいですわ」

「なんで?」

「『友達として勉強しよう』なんて言葉を、そんなに簡単に言うのですもの。わたくしには難しすぎます」


 文嘉はキョトンとした目で英梨華を見た。やがて、ははは、と腹を抱えて笑って、


「ほんなら、行こうか」

「どこへですの?」

「決まってるやん。その難しい言葉を言いに行くんや」

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