第3章 国語の家庭教師
第1話 新しい国語の家庭教師
胡桃と数美が旧校舎で勉強をしていた頃、米園英梨華は死に物狂いで自宅の庭を走っていた。
英梨華は走るのが嫌いだ。大っ嫌いだ。この世で3つ嫌いなものをあげろと言われれば、佐倉胡桃と、鼻水をすする音、そして走ること、――というほどに走ることが嫌いだ。21世紀にもなって、交通の便もこんなに普及して、それでいてどうして人間が走らなくてはならないのか。生き物に求められるものは時代によって変化する。現代に、走るという行為自体ふさわしくないのだ。
「――飯塚、今の時間は?」
「5時、10分です」
すぐ後ろをついてくる飯塚が答えた。
5時に、家庭教師がきてくれるとの約束だったのだ。こちらが無理いってこんな急に来てもらっているのに、自分が遅刻するなんて失礼にもほどがあると英梨華は思う。どうしてこんなことになってしまったのか――
問題があったのは、今日の放課後のことだ。家庭教師があるので、それまでに一応予習やら準備やらをしようと思って早めに帰るつもりでいたら、次期生徒会長である2年生の有村から突然呼び出されたのだ。
――か、会長! 校内に不審者がいるとの情報が入りました。
聞けば、武器をもった人物が校庭をうろうろしているのだという。まだそのときは家庭教師の時間まで余裕があった。
――わかりました。わたくしも行きますわ。
そう言ってしまったのが運の尽きだ。ちょっとだけ様子を見るだけのつもりだったのが、チア部と陸上部の不安そうな表情を放っておくこともできず、英梨華は他の生徒会役員たちと周囲をパトロールをすることになった。しばらく校内を探索していると、有村が言った。
――いました、会長っ!
有村が指さす方向をみると、確かに誰かがいた。周囲からののぞき見防止のために植えられた木の陰で、そいつは休息を取るかのように佇んでいた。
不審者、といえばまさにその通りだった。なぜなら、そいつは鎧を
――捕まえましょう!
それからずっと、サムライと生徒会との鬼ごっこだ。ごつい鎧を着ているくせに、そいつは逃げ足がとんでもなく速かった。体育館の裏、校庭、校舎内、――学校の敷地内を走り回り、いつしかかなりの時間が経っていた。
結局、そいつを捕まえることはできなかった。生徒会の面々はへとへとになっていた。汗を拭い、英梨華は腕時計を見た。
4時50分。
英梨華はため息をついた。そりゃ疲れるはずだと思った。かれこれ1時間以上学校の敷地内を走り回っていた。捕まえられない不審者に対してイライラし、一度仕切り直しで作戦会議を開こうと生徒会役員に声をかけようとして、
ふと、嫌な予感がした。
英梨華はもう一度腕時計を見た。
――4時50分。
胃の中に重石がズンと落ちるような感覚。学校から、どれだけ車を飛ばしても20分はかかる。家庭教師の授業は5時から始まる。
どう考えても遅刻だ。
英梨華は有村に全てを託し、その場を離れた。パチンと指を鳴らすと黒塗りのセダンが校門前に駐まり、英梨華は文字通り車に飛び乗った。
――家まで飛ばして下さい。早くっ。
キュキュキュ、とタイヤを鳴らし、セダンは英梨華の家へと発進した。
そして今、英梨華は自宅の玄関へと入り込んだところだ。6畳ほどもある玄関でローファーを脱ぎ、飯塚が用意したスリッパに大急ぎで履き替える。玄関の時計は5時をとっくに過ぎている。玄関横に置かれたアルコール消毒液を英梨華は手に振りかけ、
「――先生はどちらに?」
「お嬢様の勉強部屋に、」
走る。勉強部屋は3階にある。普段なら家の奥にあるエレベーターを使うのだが、今は階段を駆け上がった方が早い。正面右方向にあるらせん状の階段を2段飛ばしで駆け上がり、長い長い廊下を走る。何人かの使用人とすれ違い、彼女たちのあいさつに英梨華は掌で答えた。勉強部屋は一番奥の部屋だ。
部屋の前まで来ると、英梨華は胸に手を当てて深呼吸した。上がった息を整えていると、汗が額ににじみ出てくる。飯塚からハンカチを受け取り、顔を拭いた。
――よし。
コンコン。
「はいはーい」
部屋の中から明るい女性の声が返ってきた。怒ってはいないようだ。
「失礼いたします。米園英梨華と申します」
英梨華は部屋に入ると同時に、深く頭を下げた。
「こちらからお呼びしたにもかかわらず遅れてしまい、大変申し訳ございません!」
明るい声が関西弁で答えた。
「ええてそんなん! そんなことより、いま問題を思いついたから答え合わせして欲しいんやけど」
――答え合わせ?
「問題一、『部屋に入ると同時に、深く頭を下げた』とあるが、このときの米園英梨華の心情はどういったものか、簡潔に述べよ、――なんてどう?」
「――え?」
英梨華は思わず顔をあげた。
だだっ広い勉強部屋には英梨華がいつも使う大きな机があり、その脇には英梨華が休憩するときに使う3人掛けのソファが置いてある。その真ん中に、1人の女性が座っていた。長い髪の毛をポニーテールにし、誰からも好かれそうな明るい雰囲気をまとうその女は、顎に手を当ててニヤニヤと何か考えている。自分が出した問題に自分で答えるらしい。
「んー、どうやろ。まぁ見た感じ走ってきたみたいやし、『時間を確認し忘れて遅刻するという失態を犯したことに情けなさを感じ、客に迷惑をかけたことを申し訳なく思っている』みたいな感じか。どう? 合ってる?」
「……あの、」
「あるいは『時間の確認を怠ったという初歩的なミスをした自分を恥ずかしく思い、自らの立場を不利にしてしまったことを後悔している』とか?」
言葉を失った英梨華を見て、関西弁の女はハハハと愉快そうに笑った。そしてその女が立ちあがり、英梨華はそこで初めて気付いた。
御月女子高の制服を着ている。
襟には3年生であることを示す赤いリボン。
「どーもっ。国語を教えに来た3年C組の
関西弁でそう言って、国谷文嘉は人なつっこい笑みを浮かべた。
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