第2話 やまない雨
雨は月曜日になっても止まなかった。
今日ほど学校に行きたくないと思ったことはない。もしも今日の朝、眠気が少しでもあれば体調不良を理由にして休むつもりだったが、土日ずっと寝たきりだった胡桃の目は当然のように冴え渡っていて、仕方なく家を出た。
傘を差して通学路をとぼとぼ歩きながら、胡桃は小さくため息を吐く。
——警報でも出て休校になればいいのに。
学校に着くと、学校前にバスが到着したらしく昇降口は生徒でごった返していた。もみくちゃにされながら靴を履き替え、胡桃は濡れた制服をハンカチでふきながらA組へと向かう。憂鬱な気持ちでA組の教室の扉をくぐろうとして、
「——あ、」
入り口で英梨華と鉢合わせした。気まずい感情が思いっきり顔に出てしまった。英梨華も英梨華で、驚いたような困惑したような顔をしていた。それが胡桃には耐えられなかった。
胡桃は英梨華から目線を逸らし、肩にかけたスクールバッグをぎゅっと握って、逃げるようにして自分の席に着いた。
英梨華が自分を見ている。
しかし、もう目を合わせることはできない。胡桃は英梨華の視線に気づかないふりをしてカバンの中身を机の中に移し、そのまま机に突っ伏した。
——何してるんだろう、私。
胡桃は鼻をすする。こんな惨めな気持ちになるのも、全て勉強のせいだと思った。
チャイムが鳴り「ホームルームを始めます」という担任の声を、胡桃は机に突っ伏したまま聞いた。
ポケットの携帯電話が震えた。
「——ぅあ!」
席に突っ伏していた胡桃は、突然のことに驚いて思わず声を上げた。急いでスカートの上から携帯電話の電源ボタンを押してバイブレーションを止め、安堵の息をついて顔を上げると生物担当の大森と目が合った。
「授業中だぞ」
クラスメイトからの視線が突き刺さる。
「……ごめんなさい」
胡桃はもごもごと謝った。教室にかけられた時計はもう午前10時になろうかとしていて、いつのまにか1限目も終盤になっていた。
大森のカラフルな板書をぼんやりと見つめながら、胡桃は授業中に居眠りをするなんていつぶりだろうかを考えた。少なくとも、3年になってからは初めてだ。
胡桃は大森の目を盗んで、携帯電話に届いたメールを開いた。
合力真理からだった。
『ウニが手に入りました! 明日の放課後、午後4時半に旧校舎の理科室で待ってます』
胡桃はそのメールを3秒ほど見つめた。
そうだった。3週間ほど前に真理とそんな約束をしていたのだ。いろんなことがありすぎて、あの旧校舎で話をしたのが遙か昔のことに思える。確か、ウニの生殖実験をしようと話していた。
胡桃は携帯電話のディスプレイを切った。小さくため息をついて、黒板に目を戻す。
真理は、実験をしたら理科の楽しみが分かると言っていた。けれど、今はもう、興味がまったく持てなくなっていた。
SRY遺伝子、明治維新、微分積分——必死になって覚えた知識がいったい自分の人生にどんな意味をもたらすというのか。ごく一部の、そういう専門の職に就く人だけが勝手に考えればいいだけの話ではないのか。
移り変わる黒板をぼんやりと眺め続け、気がつけば放課後になっていた。
騒々しくなる教室で、胡桃はしばらく机に座ったままぼうっとしていたが、やがてゆっくりと帰宅する仕度を始めた。
教科書を胡桃がカバンに詰めていると、誰かが転げるようにして教室に入ってきた。
「せ、生徒会長、お忙しいところすみません!」
生徒会の役員だった。
どこかで見たことがあると思ったら、次期生徒会の会長になる予定の女生徒だった。数ヶ月前の生徒会選挙の演説で、小柄ながらもはきはきと話す姿がとても印象的だった。
入り口で息を切らすその2年生は、教室をぐるりと見渡し、教室後方にいた米園英梨華を見つけると、そちらへと一目散にかけていった。
「会長、すみません。生徒会の仕事でちょっと分からないところがあって、——その、会長に教えて欲しいことがあるのですが」
英梨華は他の生徒に授業の内容を教えているところだった。ややこしい授業の後には、クラスメイトは英梨華に質問をしに行くのだ。
「有村さん。引き継ぎ要項の書類に書いてありませんでしたか?」
クラスメイトのノートから視線をあげ、事務的な口調で英梨華が聞いた。
「書いてあります。ただ、どうしても理解できないところがあって、」
申し訳なさそうに問題事項を述べる2年生を英梨華が制して、
「わかりましたわ。ちょっと生徒会室に寄りましょう」
「あ、ありがとうございます」
そんな英梨華と2年生とのやりとりを、胡桃は帰り支度をしながら聞いていた。
英梨華が教室を出て行く際、胡桃は振り返って英梨華の後ろ姿を目で追った。横に小柄な2年生がいるからなのか、それとも自分の心境がそうさせているのかは分からないが、胡桃には英梨華の背中がとても大きく見えた。
勉強ができて、後輩から頼られる生徒会長。
自分とはやはり、人としての出来が違うのだと思った。勝負を挑んでくれたあの放課後が、もうはるか昔のように感じる。
「——はあ」
バカみたいだ。
1位になって喜んでいた自分も、こうして落ち込んでいる今の自分も。
胡桃は家に帰り、制服のままベッドに倒れ込んで、気絶するように眠った。
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