第8章 現代のサムライ

第1話 姉の声

 降りしきる雨の音が、部屋の中にも聞こえてくる。


 胡桃はベッドの上、寝転んだまま天井をぼうっと見つめている。枕元の目覚まし時計は午前9時半を指していて、いつもならとっくに自習室で勉強をしている時間なのだが今日はそんな気にならない。


 もう、勉強なんてしたくない。


 ——136位。


 うー、と小さく唸って、胡桃は寝返りを打った。掛け布団をぎゅうと抱きしめ、意味もなく息を止める。


 1位になれるのではないか、なんて考えていたこれまでの自分が恥ずかしい。


「——っぷはぁ」


 あんなに頑張ったのに。

 あんなに頑張ったのに、半分にも届かなかった。一日たりとも休まずに勉強したのに、もうこれ以上頑張ることなんて無理なのだ。


 勝負なんて、引き受けなければ良かった。学力試験の点数なんて運だけで取ったもので、学力は米園英梨華の足下にも及びませんと、はっきり言えば良かった。


 そうすれば、自分の出来の悪さに気づかないでいられたのに。


 調子に乗って自習室なんかに籠もって、やりたいことを我慢して、ひたすら勉強をしたつもりになって、


 それで、136位。


 まるで滑稽だ。

 とんだピエロだ。


 胡桃は枕に顔を押しつけ、熱くなる目頭を堪えた。


 ノックの音。


「くるみー、生きてるー?」


 姉だった。5月上旬の連休は予定が詰まっていて実家に帰ってこなかったので、その代わりにこの土日に下宿先から帰省していたのだ。 


 返事する間もなく部屋に入ってきて、


「うわ、暗っ。あんたカーテンくらい開けなよ」


 いつもと全く変わらない突っ慳貪な口調だが、そうした口ぶりに却って姉の気遣いを感じる。心配してくれているのだろう、と思う。


 正直なところ、あんまり話をしたくなかったのだが、胡桃はのっそりと布団から上半身を起こした。


「お姉ちゃん、おはよう。何か用事?」


 姉は部屋のカーテンを開けながら、


「私、これから新幹線で下宿先に戻るから、別れを言いに来たの。せっかく実家に帰ってきたのに、あんた学校から帰ってずっと部屋にこもりっきりなんだもん。なにも話が出来なかったじゃない」

「ごめん」


 胡桃は俯いた。


「いや、別に責めてるわけじゃないんだけどね」


 姉は困惑しているようだった。当然だ。これほど落ち込む姿を、姉に見せたことがなかったのだから。いや、そもそもこんなに落ち込むことが胡桃にはなかった。この17年間、胡桃は落ち込まないようにして生きてきた。何事にも熱くならず、失敗をしないように、全てが何となくで進むようにして生きてきた。誰からも失望されないように、なにより胡桃自身が自分に過度の期待をしないように。


 姉は胡桃の部屋を見渡して、机の上の数学の問題集を手に取った。それはもともと姉が使っていたものだった。


「あー、これ、懐かしいわね」


 ぺらぺらと参考書をめくって、


「うわー、難しい。よく私こんなのしてたわ」

「お姉ちゃん、今でも試験問題とか解ける?」

「無理。もうほとんど忘れちゃったわ」

「またやりたいと思う?」

「受験を? 絶対いや。もう二度とやりたくない」


 姉がそう断言した。そのさっぱりとした口調が姉らしいと胡桃は思った。


 姉は胡桃の机の上の参考書を何冊か手にとって、中を読んだりしていた。胡桃は自分の成績が見られるんじゃないかと思ってひやひやしていたが、さすがにカバンの中まで見ようとはしなかった。


「うわー、やっぱり日本史って漢字だらけで訳分かんないわね。世界史にして正解だわ。こんなの覚えられる気がしない」


 顔をしかめて、おどけるような仕草を姉はした。きっと、笑わそうとしているのだろう。胡桃はその態度に答えるように「ふふ、」と笑った。それは全くの嘘の感情だったが、笑顔を作るとちょっとだけ気持ちが楽になったような気がした。


 姉も胡桃が笑ったことに少し安心したような様子だった。


 しばらく、姉ととりとめない話をした。まるで、この帰省中会話をしなかった分を取り返すかのように、姉は話をした。普段は胡桃も話をするのだが、今日は姉の話に相づちをうっているくらいが丁度良かった。試験のことを忘れ、ちょっとだけ気持ちが晴れてきだしたとき、姉がふと思い出したように言った。


「そういえば、あんた学年で1位になったらしいじゃない。さすがね、私の妹ってだけあるわ」


 胡桃はぎくりと体を固めた。


「うん、——まあね」


 玄関から、母が姉の名前を呼んだ。多分、車で姉を駅まで送るつもりなのだろう。荷物も多いし、外は雨が降っているので歩いて行くのも大変なのだ。


「はーい、今行く」と姉が玄関に向かって言った。胡桃の方を振り返って、

「ごめん、そろそろ行くわ。話ができて良かった。あんたも元気でね」


 一度手を振り、姉はきびすを返した。陸上部に入っていた高校時代は短かった姉の後ろ髪が、今は背中まで伸びている。


 ——勉強なんてやる気と効率さえあればなんとでもなるのよ。


 2年前の、姉の言葉がよみがえった。そして気がつけば、そんな姉の背中に向かって、こんな言葉をかけていた。


「——ねえお姉ちゃん。どうしてお姉ちゃんは勉強しようと思ったの?」


 姉が振り返った。


「どういうこと?」

「お姉ちゃん、あんなに勉強嫌いだったのに、突然勉強するって言って、受験勉強を始めたでしょ? 何かあったのかなって思って」

「……勉強、うまくいかないの?」

 

 どきっとして、胡桃は言葉を飲み込んだ。そんな様子をみて、姉が言った。


「ねえ胡桃、あんまり難しく考えたらダメよ。受験なんて、地味で単調な作業なんだから、淡々とやったらいいのよ。余計なことを考えたら、辛くなっちゃうわ」


 そんなことを言われても、胡桃には無理なのだった。頭でどれだけ考えるなと思っても、心の方がいろいろと思ってしまう。理屈と感情は、相容れないのだ。


「でも、もう私、勉強できないよ。あんなにがんばったのに、点が取れないんだもん」

「まだ始まったばかりじゃない。あきらめるのは早いと思うけど」

「……そうだけど」


 胡桃は俯いた。姉が心配そうに胡桃の顔をのぞき込んで、


「なんで? 本番まで時間があるじゃない。これから頑張る、じゃあだめなの?」

「……勝負してて」


 消え入りそうなほどか弱い口調で、胡桃は米園英梨華のことを話した。


「せっかく私なんかに勝負を挑んでくれたんだから、私も努力しなきゃ失礼だと思ってたんだけど、それも上手くいかなくて」

「あんたはその米園って子に勝つためにどんな努力をしたの?」


 ——どんなって、


「勉強するしかないよ。これまで以上に点が取れるように、いつもよりたくさん勉強するしかないよ」

「それは違うわよ、胡桃」と姉が言った。

「受験生がしなきゃいけないことって何だと思う? 試験で満点を取ること? 高校の勉強範囲を、100パーセント理解することかしら? 違うわよね。入試で大学に入れるだけの合格点を取ることよね。その合格点を取るために、あんたたち受験生は勉強しているわけでしょ。8割しか必要ないのに満点を取ろうと勉強したってそれは無駄。だったら苦手な科目に勉強時間を割いて、確実に目標点に届くように努力するのが賢いやり方よね」

「難しいよ、わかんないよ」


 湿った声が出てきた。


「賢いやり方って、なに。効率よくやれってこと? 学校で勉強しているのって、お姉ちゃんの言う『賢いやり方』を身に付けるためのものなの? 勉強の内容には意味がないって思うの?」

「難しく考えすぎよ、胡桃。どんなものでも、難しく考えれば終わりがないわ。それに、必死に努力したことに無駄なことなんてないわよ」

「……」

「1年間、死ぬ気で努力したってことは、私の中では絶対に消えないのよ。行きたい大学に合格するには、どの教科をどのくらい勉強しなきゃいけないのか、死にものぐるいで考えたこともね。そしてそれは、絶対に無駄じゃない。私の今後の人生に役に立つもの」


 玄関から再度、母の呼び声。


「はーい」と答えて、姉は胡桃の方を振り返った。


「ごめん、もう行かなきゃ。つまりね、あんたの今の状況もおんなじってこと。あんまり難しく捉えないで、シンプルに考えてみて。きっとあんたなら分かるはずよ。なんたって私の妹なんだから」


 そう言って、姉は部屋を出て行った。胡桃は閉まった扉をじっと見つめた。


 姉はへこたれない人だった。昔からそうだ。姉はいつも熱くて、一生懸命で、挑戦的だった。失敗もたくさんしていた。姉の悔し涙を、胡桃は何度も見てきたのだ。いろいろなところで衝突する姉を見て、胡桃は上手く生きようと心がけるようになった。できるだけ泣かなくても良い選択肢を選んでここまできた。


 姉と自分は、全然違うのだ。

 姉のまねをしようと思ったこと自体が、すでに間違っていたのだ。


 ——きっとあんたなら分かるはずよ。なんたって私の妹なんだから。


 胡桃はベッドに倒れ込み、布団に包まった。もう頭がパンクしそうだった。


「……わかんないよ」


 外は大雨らしい。窓に雨粒がたたきつけられ、車が道路に溜まった水を跳ねる音が聞こえる。ご飯も食べていないし、カーテンも開けっ放しだし、時間もお昼近いけれど、なにもかもを勉強のせいにして眠ることにした。

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