第3話 心情把握問題
米園家の地下にはピアノ室なる部屋がある。
6畳ほどの小さい部屋で、きちんと吸音壁を敷き詰めており、その真ん中に立派なグランドピアノが置いてある。
英梨華は悩み事があると、この場所で延々とピアノを弾き続ける。
昨日から英梨華はこの部屋に閉じこもって、ひたすらピアノを弾き続けていた。ショパン、チャイコフスキー、ベートーヴェン、ドヴォルザーク、——ジャンルも何も関係なく弾き、レパートリーがなくなれば、あとは適当に自分の心情に会わせたコード進行をひたすら弾き続けた。ピアノ室には時計がないため、英梨華はどのくらいの時間ピアノを弾いているのかは分からない。
どんどん、と扉がたたかれていることに英梨華は気づいた。
英梨華は演奏をやめ、立ち上がった。座りっぱなしで硬くなった体を伸ばし、厚くて重たい扉を開いた。
文嘉が顔をしかめて立っていた。
「気づくの遅いわ。どんだけ呼んだと思ってんねん」
「申しわけありません。悩み事をしていたので、気がつきませんでした」
「ピアノ弾いてて聞こえへんかったんやろ」
そう言って、文嘉がピアノ室に入ってきた。親とピアノの講師以外の人がこの部屋に入ることはまずないので、部屋に文嘉がいることがとても不思議な気がした。
「もう授業の時間だったのですね。申しわけありません、すぐに準備いたしますわ」
英梨華がピアノの鍵盤の蓋を閉めようとすると、文嘉が脇に置いてあった丸椅子に腰掛けた。
「まあ、そんなに焦らへんでもええやん。試験も終わったことやし。1位やったんやろ? 良かったやん。何を悩むことがあんねん」
英梨華は鍵盤に視線を落とした。
「——分からないのですわ」
「分からない?」
「ええ、どうしてわたくしが悩んでいるのか、そもそもの原因が分からないのです」
「どういうこと? それっていつからなん?」
「いつから……、昨日からですわ。正確には帰りのホームルームで試験の結果を受けとって、そして、」
そして、佐倉胡桃に屋上で勝ったと伝えて、
——米園さん、1位、おめでとう。
そうだ。あのときの佐倉胡桃の言葉が、表情が、ずっと引っかかっているのだ。
英梨華は昨日の屋上での出来事を話した。文嘉は黙って聞いていた。
「どうしてこんなにわたくしが気をもまなくてはいけないのか理解に苦しむのです。あの女がどんな点数を取ろうとも、順位がいくらでも、そんなの私には関係のないことです。私は1位。あの女と勝負して私が勝った。だったら、もっと清々しい気持ちになるはずではありませんか。ですのに、」
英梨華は唇を噛み締める。
このモヤモヤした気持ちは一体何なのだろう。理解できない感情が自分の中にあることに、英梨華は納得がいかなかった。
「そんなん簡単やん」
文嘉があっさりと言った。
「え? 文嘉さんには理由が分かるんですの?」
「うん。要するに、胡桃が点を取れんで落ち込んでるのが悲しいんやろ?」
あまりにさらりと言うものだから、文嘉の話していることが理解できなかった。何度か文嘉の言葉を頭の中で繰り返して、そしてふと我に返ったように英梨華は首を横に激しく振った。
「——そんなことありえませんわ。どうしてわたくしがあの女の落ち込んでいる様子を悲しまなくてはいけないのですか。わたくしはあの女が大嫌いですのに。むしろ精々するはずではありませんか」
すると文嘉は、平然とした口調でとんでもないことを言い切った。
「だから、米園は胡桃のことが好きなんやろ」
「——はあ!?」
「なにアホみたいな顔してんねん。今の話を聞けば誰かてわかるわ。嫌い嫌いって言うてるけど、ほんまは好きで好きでしょうがないんやん。そうやろ?」
「——な、何を言っているのですか! そんなことありませんわ! 嫌いです! 大嫌いです! 四月に同じクラスになって、一目見た瞬間からずっと嫌いだったのです。ちらりと視界に入ってくるだけでその日一日が不快になるくらい、わたくしはあの女のことが嫌いなのです」
文嘉が不思議そうな顔をした。
「何がそんなに嫌いなん? なんで?」
「ご存じないのでしょう。彼女、一人のときは筆記用具に話しかけたりするんですのよ。しかも廊下をわざわざスキップで進んだり、箒で床を掃くときなんて小さな声で『サッサッ』みたいなことを言ったり。休憩時間にわざわざトイレまでカバンを持っていって成績表を見たり。それなのに、教室ではおとなしくしてて。わたくしと目が合ったら気まずそうに目をそらすんです。もう全てが鬱陶しいのです! 気に入らないのです。あの女のことを好きだなんて——気持ちの悪いことを言わないで下さい」
文嘉が唖然とした表情をしている。パチパチ、と瞬きを2つ。
「いや、ちょっと待って。どんだけ胡桃のこと見てんねん。よっぽど注意してないと分からんやろ」
「そんなもの、同じクラスにいれば自然に目に入りますわ」
「でも、1人のときにやってんのやろ? トイレん中って、——逆になんで分かるの?」
——なんでって、
「たまたま、トイレが一緒になっただけです。横の個室からカバンを空けてクリアファイルをめくる音が聞こえたんですわ。あの女の耳障りな笑い声も聞こえました。本当に耳障りなあの女の声。たった一回1位をとったくらいで、バカみたいに喜んで、それで——」
それで、
——私、あのとき声をかけてもらって嬉しかったです。
「たった一度失敗したくらいでこの世の終わりかというほど落ち込むんですのよ! ——ああもう! 思い出すだけでイライラしますわ」
「いや、だからどんだけ胡桃のこと見てんねんって。別に他の人やったら勝負をして欲しいなんて言わんかったんやろ? 胡桃やったから言いに行ったんやん。そうやろ?」
思わず英梨華は口を噤んだ。
そして、口を噤んだ自分にショックを受けた。全く気づかなかったが、思い当たる節が自分のどこかにあったのだろうか。
「わざわざ胡桃の情報を集めたりして、土日に何時から勉強してんのかを調べたりとか、そんなん米園やったらせえへんのと違う? 今の米園は、必死になって相手の注目を集めようとしているだけちゃう?」
「そ、そんなことはありません!」
「負けたことに対してムキになって悔しがって欲しいと思わんかった?」
思った。
その事実が悔しくて、英梨華の口調に力がこもる。
「思ってませんわ! わたくしはただあの女に勝っているという事実を突きつければそれで良かったのです!」
「でも、現にいま悲しんでるやん」
カッと頭に血が上った。
「悲しんでないって言っているでしょう! だいたい、偉そうになんなんですのあなた! いくら試験で筆者の気持ちを考えるのが得意でも、それをわたくしに当てはめるのはやめてください!」
「なんやねんそれ。ちゃうやん、うちは米園の素直な気持ちを、」
「何が『素直な気持ち』ですか。だいたい、わたくしは1位を取り返したのですから、あなたの仕事はもう終わったのです。もう家庭教師もお終いですわ」
「——え?」
文嘉がようやく
「いやちょっと待って。それとこれとは話が、」
その表情に付け入るように、英梨華の口から言葉が流れ出てくる。
「いいえ、わたくしは1位になるために弱点の国語を補強しようと思って家庭教師を招いたのです。ですが今、私は1位になりました。もうあなたの役割は終わったのです」
本当はそんなことを言うつもりはなかったのに、一度言い出したら止まらなかった。
「終わってへんって。この間は中間試験で点を取るためにヤマ張っただけやん」
「勉強法は分かりました。後はわたくしの力で何とかしますわ。小説は客観的に読まなくてはいけない、主観を持ち込んではいけない。——あなたのおっしゃったことはきちんと復習して自分の力にします。もうあなたは仕事を果たしたのです。ありがとうございます。もう二度と、この家に来ることもないでしょう」
「——ちょっと、」
「さあ、わたくしはこれから勝負に勝った喜びの気持ちをピアノで弾かなくてはいけませんので一人にしてください。出口はあちらですのでどうぞ」
「なあ、別に怒らそうと思ったんとちゃうねん。うちはただ、」
聞きたくない。
「飯塚。国谷さんはお帰りのようです。家まで送って差し上げて」
英梨華はパチンと手を叩いた。もう話は終わりだ。顔も見たくない。さっさと自分の前から去って欲しい。
「——飯塚?」
しかしこういうときに限って飯塚が姿を現さないのである。英梨華は心の中で舌打ちする。いつもは用がないときでも側にいるくせに、どうして必要なときに来てくれないのか。いつもお嬢様のことを想っております、という幼き頃の言葉は嘘だったのか。
ああ、もう。
こうなれば自分でなんとかするしかない。ごちゃごちゃと何か言っている文嘉の腕を英梨華はつかみ、ほとんど力尽くで音楽室の外へと押し出して、
「接待室でしばらくお待ちになっていてください。飯塚がすぐにあなたをお送りしますわ」
「——なあ、米園、ほんまにちょっと待ってって、」
問答無用で防音扉を閉める。
施錠。
扉の向こうでなにやら言っているが、その内容までは聞こえない。ふん、と英梨華は鼻を鳴らし、ピアノの椅子に腰掛け、即興で曲を弾き始めた。
一人になったところでいらいらが収まるわけではない。それどころか、一人になったからこそ、さっきの文嘉の言葉が壊れたレコードのように頭の中で反芻し始める。
——要するに、胡桃が点取れへんで落ち込んでるのが悲しいんやろ。
ふつふつと怒りが滾ってくる。鍵盤を叩く指に自ずと力がこもる。
——米園は胡桃のことが好きなんやろ。
そんなわけない。そんなわけないのだ。
——でも、現にいま悲しんでるやん。
この悶々とする感情への向き合い方が英梨華には分からない。多分、ピアノを丸一日ぶっ通しで弾き続けても消化できない。
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