第4話 美しい数学
「数学者の人って、何のために数学を研究しているの?」
1時間ほどして、2人は休憩をすることにした。椅子に腰掛けると、そんな質問が胡桃の口から出てきた。
「やっぱり、世の中の役に立てたいとか?」
数美はしばらく黙った。考え込んでいるようだった。
「何のために、……どうでしょう、私には分かりません。これまで多くの数学者がいて、偉大な法則や定理を発見しましたが、それを考えている間、『何かのため』になるという明確な考えを持っていた人がいたのかどうか、私には分かりません」
そこで数美は言葉を切って、視線を床に移した。無表情にかわりはなかったが、胸の中にある想いを必死に言葉にしようとしているのが手に取るように分かった。
やがて、ぽつりと、つぶやくようにしてこう言った。
「でも、おそらく、数学が圧倒的に美しいからです」
数美の瞳の中で、炎がぐるりと踊った。
「確かに、世の中には数学が役に立っていることはたくさんあります。クレジットカードの暗号、パソコンの
「そうなの? じゃあ、どうして?」
「気になるからです。知りたいんです、数字に隠された秘密を。踊ることが好きだからダンサーになる。絵を描くことが好きだから画家になる。――それと同じで、数学の秘密を知りたいから、数学者になるんです。気になるから、それを調べる。世に存在する数学者たちを突き動かしたのは、その気持ちだけだと思います」
話しているうちに、言いたいことが定まってきたらしい。数美の口調は力強かった。
「その定理や公式がどのように社会に役立つのか。――それを考えるのは、技術者の仕事です。研究者は自分の好奇心にただまっすぐに突き進んでいるだけです」
へえ、と感心するような声が胡桃の口から出た。
「でも、数学が美しいって、なんでなの?」
「数学が完璧な論理性によって成り立っているからです」
「……完璧な論理性?」
なんだか難しい言葉がでてきた。
「数学は他の学問とは違い、揺らぐことのない、真の答えがあるんです」
胡桃は首をかしげた。
「なんで? 他の科目にも、正解や不正解はあると思うけど」
数美の眼鏡のレンズが、きらりと光る。
「いいえ、他の学問は本当に曖昧ですよ。たとえば、国語や英語。どちらも言語についての学問ですが、言語というのは生き物ですから、時代によって見た目や意味が大きく変化します。理科は自然界に寄り添っているので、昨日まで当たり前のように使われていた定理が突然覆されることもあります。社会も同様です。『いい国(1192)つくろう鎌倉幕府』が『いい箱(1185)つくろう鎌倉幕府』へと変わったのは記憶に新しいですよね」
そういえばそうだ、と胡桃は思った。歴史担当の猪原が、昔は『いい国作ろう』と教えていたのだと言っていた。
「だけど、数学だけは、絶対に揺らがないんです。前提条件の下に成り立っている学問だからです。『1足す1は2』になると、どこかの誰かが決めたんです。そして、その決まりを前提にして、全ての公式が成り立っているんです。一度決まったことは、もう覆されません。明日、地球がひっくり返ることがあったとしても、太陽が西から昇ることがあっても、数学の公式は変わりません。100年前に見つけられた公式は、今も変わらず存在しています。そして、100年後も存在します。数学の世界にあるのは、完全な論理の連なりなのです」
へー、と胡桃の口から出てきた。
「そっか。1足す1が3になっちゃったら、全部狂っちゃうもんね」
数美の話を聞いて、心が高ぶるのを胡桃は感じた。これほど何かについて深く他人と話すことはなかったのだ。当たり前だと思っていたことも、こうやって摘まみ上げて見てみるとそこには違った見方ができるのだった。
「その、論理って、具体的には何なの?」
「論理というのは、前提と前提を等式でつないで、ひとつの事象の成り立ちを説明することです。A=B、かつB=C。そのため、A=Cである、というように。――たとえば、」
数美はチョークを手に取り、黒板にこう書いた。
『風が吹けば桶屋が儲かる』
「これを読んで、胡桃さんはどう思いますか?」
どう思うって、
「なんで桶屋が儲かるんだろう? ――って思う」
「そうですよね。突然こんなことを言われても、誰にも理解することはできません。『風が吹くこと』と『桶屋が儲かること』に因果関係を見いだすことができないからです」
「……うん」
「このことわざは、こういう論理でつながっています」
カツカツとチョークの当たる音が、教室内に響く。
『風が強いと、砂埃が目に入って目が不自由になる人が増える』
『目が不自由な人は三味線を弾くことを生業にすることが多いため、三味線の需要が増える』
『三味線にはネコの皮を使うから、街の野良猫の数が減る』
『野良猫が減ると、街にいるネズミの数が増える』
『ネズミは桶を噛むから、きっと桶の需要が増える』
「だから、風が吹くと桶屋が儲かるんです」
「……いや、こじつけがすごいよ」
「確かに、このことわざは可能性の低い因果関係が連続しているので、現実的ではありません。けれど、納得できるかどうかはともかく、なぜ相手が『風が吹く』ことによって『桶屋が儲かる』と思ったのかは理解できますよね」
胡桃は数美の言っていることをゆっくりと咀嚼し、10秒ほどしてなんとか飲み込んだ。
「まあ、……繋がりはわかるけど」
「論理というのはいくつもの事象をつなぎ合わせて、ひとつの物事を説明することです。そして、可能性の高い因果関係を、等式に見立ててを積み重ねることで過不足なく説明ができたとき、それは論理的であると言えるんです」
ですが、と数美は続ける。
「世の中に、完璧な論理は一切ありません。現実のことは、すべて様々な現象が入り組んで成り立っているものであり、何かと何かを単純に等式で結ぶことはできないのです。今の話にしても、いまの価値観では『こじつけ』のように感じても、ある時代では論理的に思えるかもしれません。砂埃によって目が不自由になるという生活環境もあったのでしょう。因果というのは、時代や環境や価値観によって、全く変わってしまうのです」
なるほどなあ、と胡桃は思った。数美の言いたいことが分かったような気がした。
「だから、完全に等式で結ばれている数学は、絶対的な論理性を持ってるってことなんだね」
「はい」こくりと数美が頷いた。「数学には曖昧さはありません。嘘もごまかしもない。その日の気分も、時代や文化による価値観の違いだって関係ありません。それは赤子のように純粋で、数学の世界でしか、表現できない美しさなのです」
数美は黒板を見た。
「だから、私は数学が好きなんです」
数美は立ち上がり、黒板の文字を全て消した。そしておもむろにチョークを手に取り、黒板に数式を書き始めた。その内容や意味は胡桃には分からない。でも多分、数美が好きでやまない名門の証明なのだろう。カツカツと黒板とチョークが当たる音が教室に響き、胡桃はなんだか不思議な気分になった。旧校舎がまるまる別の世界へと転位してしまったような感覚。旧校舎の黒板は、緑色ではなく文字通り黒色で、その上に真っ白な数の物語が広がっている。
旧校舎の中には、数美と胡桃以外に誰もいない。校舎周辺にも人の気配はなく、掛け時計の秒針も動いていない。教室には、ひたすら数の世界が広がる音だけ。
多分その音は、数学の鼓動なのだと胡桃は思う。一つ一つ、数式たちが脈を打つ音が床や机を伝って体へと入り込んでくる。数美が、数の音を奏でている。それは、国境や時代を越えて紡がれてきた、たった一つの数の真理にたどり着こうとする、どこまでも純粋な音。
そしてそれを書いている数美の横顔も、どこまでも透き通る、子供のような好奇心で満ちていた。
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