第4話 過去からのラブレター

 御月歴史博物館は、バス停「寺尾道てらおみち」から徒歩5分ほどのところにある。


 まるで江戸時代の武家ぶけ屋敷やしきのような外観の博物館を目の前にして、小町が振り返った。


「歴史館に来たことはあるか?」


 ない。歴史館や博物館、美術館などにはあまり興味がなかった。こんなところに博物館があるということすら知らなかった。


 来慣きなれた様子の小町について、胡桃は歴史館の自動ドアをくぐった。すぐ横の受付で会計を済まし、エントランスへと入る。


 平日の朝っぱらから歴史館に来る客はほとんどおらず、館内はがらんとしている。


 小町によると、ここは幕末から明治維新にかけての遺品いひん史料しりょうを扱っているらしい。それほど巨大な博物館というわけではなかったが、2階建てのその中には、江戸時代の塾で使われていた教科書や幕末に向けての手紙、偉人の暗殺時に用いられた刀など、さまざまな歴史的史料が展示されていた。


「私は、悩み事があるとよく歴史的な場所に訪れるんだ」


 展示物を眺めていると、小町がそう言った。


「例えば、こういった博物館とか、お城や古墳こふんのような跡地とか。こうやって歴史的な史料を見ていると、なんだかほっとするんだ。時代も境遇も、背負っているものも何もかも違うのに、なんだか自分と同じだと感じるときがある。他人事のようには思えないんだ」

「こんなに時代が違っても?」

「ああ、時代が違っても、そこにいたのは、私たちと同じように、それぞれが悩みを持った人間であることに、変わりないないからな」


 まるで長年連れ添った友人を見つめるような優しい目で、小町は展示物を見つめていた。


 しばらく進むと、幕末から明治維新までの出来事を時系列にまとめたパネルがあった。


 胡桃はそれを黙って読んだ。黒船くろふね来航らいこう、寺子屋事件、日米和親条約——。排他的はいたてきな江戸時代から、西洋の文化が流れ込んできた明治時代までの激動の歴史が書かれていた。


 ——これ、あのときの、


 胡桃は『黒船来航』の説明をじっと見つめた。


 徳川家慶いえよし。なんだかとてつも懐かしい響きに感じる。ひと月ほど前、剣道場で小町と寸劇のようなことをしたのだ。あのときは小町がペリー提督、胡桃が徳川家慶を演じた。


 パネルの横には、実際に来港した黒船の白黒写真が掲載されていた。


 これを、徳川家慶は実際に見たのか。


 突然現れた黒船を見て、どんな思いだったのだろう。ペリーと対面したとき、どんな思いだったのだろう。おそらく、とても勇気がいったに違いない。


「……あれ?」


 しかし、よくよくその説明文を読むと、黒船が来航した際、徳川家慶は病気で床についていた、と書かれている。


 胡桃は小町の姿を探した。小町は胡桃のちょっと後ろの方で、展示された史料をじっと見つめていた。


「ねえ、小町ちゃん」


 小町は顔をあげ、胡桃の元へとやってきた。


「どうした?」

「この説明文に、徳川家慶は病気だったって書いてあるけど、」


 ああ、と小町は言った。


「そうだ。ペリーが江戸に来たとき、徳川家慶は病気で床についていたんだ」

「でも、この間剣道場で……」


 胡桃はあのとき、堂々とした態度でペリーに対峙したのだった。突然やってきた敵に、弱い姿を見せるわけにはいかないと家慶は思ったに違いない——と、胡桃は思ったのだ。自分は家慶のことを理解していたつもりだったのに。


「……知ってたなら、言ってくれたら良かったのに」


 いじけたような声が出る。

 徳川家慶の肖像画を見つめたまま、小町は言った。


「あのときは胡桃に想像して欲しかったんだ。そこにいた人物が、どんなことを考えていたのか、どう感じたのだろうか、と。正しいとか、間違っているとか、そんなのは抜きにして、胡桃が当時の状況を考えて、こうなのではないか、という一つの想像をしてほしかった。興味をもつ第一歩にして欲しかったんだ」


 小町は胡桃を見た。


「歴史学というのは、当時の社会を想像することによって成り立っている学問だ」

「——想像?」

「ああ。当然だが、100年前や1000年前の時代を実際に目の当たりにすることはできない。手元にある史料から、当時はどうだったのか、想像を膨らませて一番説得力のある流れが、今の歴史になっている」

「まあ、そうだね」

「あのとき、胡桃が一つの想像をしていたから、今こうやって新しい発見があった。徳川家慶に対する考えが違った。それに気づけたら、より深く歴史に対して興味を持てるだろう? 想像するときは別に間違っていてもいい。図書館や博物館に行けばいくらでも情報は転がっている。そうやって興味を持って手に入れた情報が、生きた知識なんだと私は思う」

「そっか」


 胡桃は呟いた。


「もしかして、それを教えてくれるためにここに連れてきてくれたの?」


 ふふ、と小町は笑った。


「いいや。胡桃がどうして勉強するのか気になっているようだったから、その起源を知ろうと思って。現状の社会の仕組みに疑問を感じたら、その成り立ちを知るのが解決への一番の近道だからな」


 小町は「明治維新の流れ」のパネルの一部を見つめた。


「黒船来航は日本の歴史的にみて大きな出来事だ。ここから明治維新は始まった。これまでざしていた独自の文化の中に、西洋の文化が流れ込んできた。日本のありかたは一変した。はんは廃止されて現在の都道府県となり政治的な統一が成された。そして、フランスの学校制度にならった統一的な学制が公布された。私たちがいま学んでいる、教育の始まりだ」


 小町はパネルの一部を指さした。


 そこには「学制がくせい」と書かれている。


「あれが、義務教育の始まりなの?」

「まだ義務ではなかったが、あれが現代の教育の基礎だと言ってもいい。明治維新として、国を強く、そして豊かな国にするために教育の推奨をはかったんだ。当時はまだ無償ではなかったから、学制はすぐに取り消され、そのあと教育令というのが出されたのだがな」

「江戸時代には、義務教育はなかったの?」

「ああ。とはいえ、江戸時代にも教育機関はあった。授業でも習ったと思うが、藩校はんこう私塾しじゅくのようなものもあって、それぞれが学をおさめた。日本人はとても勤勉だった。江戸時代の終期、日本の識字率が世界有数の高さだったという記録もあるしな」

「識字率……、当時の人口のうち、どれだけの人が字が読めるかどうかだよね」

「そうだ」小町はうなずいた。「江戸時代の日本の識字率はとても高かったと言われている。たぶん、島国であることが一つの要因だったんだと思う。鎖国して、自国の文化をのびのびと考えることができたから、教育も受けやすい環境だったのだろう。そして、それがのちの明治維新につながった」

「——どういうこと?」


 小町は、パネルを見上げた。


「明治維新は、さっきも言ったように閉じられたこの国に西洋の文化がどどどっと流れ込んできた。生活は激変した。普通だったら、そんなこと対応できやしない。進んだ文化を持つ国に植民地にされるのが普通だ。けれど、私たちはそうはならなかった。それは、やっぱり日本人が読み書きに精通していて、国の方針をいち早く理解し、その方向性へと進むことができたからだろう」

「へえ」


 書き言葉が読める、というのは、現代では当たり前に感じるが、そうじゃなかった時代もあったということを今更実感した。まるで別の世界の話のように思っていた。


「勉強というのは嫌々やるものではないのだ。本来なら、自らそういう場所におもむいて、頭を地面にこすりつけてでもやりたいと思うべきものなんだ」


 小町の言っていることは理解できた。けれど、納得できないこともあった。人類の発展のために、国の成長のためにみんなが成長しようとした時代ならまだしも、今のようにすべてが整っていて、与えられる環境になっても、当時と同じような姿勢を見せるのは、難しいと思う。


「——まあ、確かに勉強はおもしろいことなのかもしれないし、本来なら能動的にやることなのかもしれない。でも、それを義務づけて強制的にやらせようとしたら、つまんないっておもっちゃうよ」

「何を言っているんだ」


 小町が眉をひそめた。


「私たちは勉強をすることを義務づけられているわけではない」

「え? でも、……義務なんでしょ? 国の発展のために、法令で子供に勉強させたんでしょ?」

「違う。いいか、義務教育というのは明治19年の『小学校令しょうがっこうれい』で生まれた。それは事実だ。国の発展には、若くて賢い人材が必要だったのも事実だ。けれど、その小学校令からずっと、今の今までずっと、子供は勉強をすることが義務だ、なんて書かれていない」

「え? そうなの?」

「ああ。義務教育っていうのは、私たち子供に向けたラブレターだ」

「……ラブレター? どういうこと?」

「明治維新がおきたころ、私たちは欧米の進んだ文化に追いつこうとしていた。他国との貿易をするために、輸出品を作り、お金を稼がなきゃいけなかった。だから、そこら中に工場が乱立した。労働力が必要だった。——けれど、今でこそ世界有数の経済大国になった私たちだが、当時はまだ貧しかった。みんながみんな、食っていけるわけではなかった。だから、貧しい家の親は子供を工場に送り込んだりした。子供は大人なんかよりもよっぽど扱いやすい。そういうふうに教え込ませさえしたら、子供は文句なんて言わないからだ」


 胡桃はうつむいた。そういう時代があったことは、たしかに授業で聞いた。


「しかし、工場で働いていた子供たちもいずれ労働力じゃなくなるときがくる。だが、彼らは教育を受けていない。文字が読めない、数が数えられない。そんな状態で社会に放り出されたらどうなるか。想像はつくだろう?」


 胡桃はおそるおそる頷いた。


「だから、この国が戦争に負けて、焼け野原になったこの日本を立て直そうとしたときに、この国は憲法で決めたんだ。この国に生まれた以上、全ての子供たちに、生きていくために必要な教育を受ける権利を与えよう、と。この国の親は、子供に必ず教育を受けさせなさい。労働力として子供を利用するのではなくて、生きていけるだけの学をつけさせなさい、と。それが、保護者の義務だと。——それが義務教育なんだ」

「義務教育って、——親の義務ってこと?」

「そうだ。子供が持っているのは、教育を受ける『権利』なんだ」

「……そっか」


 胡桃はつぶやいた。


「だからラブレターなんだね」

「ああ」

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