第3話 時代劇ごっこ
外は天気が良い。昇降口で靴を履き替えて校庭に出ると、さんさんと降り注ぐ昼の日光に胡桃は顔をしかめた。室内に缶詰になっている身には刺激が強すぎる。陸上部のかけ声とチア部のホイッスルの音をかいくぐるようにして胡桃は校庭の端を走り、さっき甲冑が歩いていたところまで来た。
——確か、この辺に。
胡桃はあたりを見渡す。校舎の2階から見えたのだから、あんなに目立つ格好をしていればすぐに分かるはずなのに、周囲には甲冑どころか人の気配すらない。
やっぱり、自分が作り出した幻覚だったのだろうか。
少々不安になりながら、胡桃は木々の間をくぐるようにして歩いた。校庭と裏山の境目のあたりは湿っぽい草の香りがする。気がつけばもう5月。虫が苦手な胡桃にとって、鬱蒼と茂る雑草はあんまり好きではない。顔に飛んでくる小虫を手で払い、足下を飛ぶバッタにビクビクしながら草むらを進むと、校庭の隅に建てられた剣道場にたどり着いた。
「わあ」
剣道場を見るのは初めてだった。道場、というよりは小屋と呼んだ方が良いような小さな木造の建物で、引き戸の入り口の上には『御月館』と行書で書かれた看板が掛けられている。建物のあちこちに生えているコケが、閑散とした印象を与えている。屋内の電気は消えているので、中には誰もいないようだった。
何かが動く音がした。
剣道場の裏側からだった。
胡桃の頭に、さっきのサムライの姿が浮かんだ。足音を立てないようにして歩き、剣道場の陰から音のする方をのぞき込む。
が、誰もいない。
「……あれ?」
剣道場の裏は石垣で行き止まりになっている。いや、そんなはずはない。間違いなく誰かがいる気配がしたのだ。そう思って、胡桃は一歩踏み出そうとして、
首元でカチャリと金属が擦れる音。
「何者だ」
背後から低い女性の声。
「動くな。さもなくば首が飛ぶぞ」
その言葉で、首筋に刀を突きつけられていることに胡桃は気づいた。
「……え、え?」
全身から血の気が引く。
——なな、なにこれ、
まさか本物の刀ではあるまい、と胡桃は震える脳の片隅で思うが、しかし突然の恐怖に体がすくんでしまって動けない。自分の首筋から3センチのところでぎらりと光る白い刃はまるで生き物のようで、今にも首にかぶりついてきそうな気がする。
「あああのあの、わわわ私、」
声が震えてうまく喋られない。
「何故こんな所にいる。生徒会の手のものか」
後ろの女性の顔は見えないが、敵意があるのは口調から分かる。
「ちち、違います。な、なんか変な格好をした人がいたから、気になって、」
「変な格好だと?」
「い、いえ、変っていうのは、その、学校の校庭にいるにはふさわしくない服装って言うか、——時代的にふさわしくない服装って言うか、えと、」
へたに刺激したら何をされるか分からない。失言を恐れて胡桃がもごもごとしていると、その声の主は「ふん」と鼻を鳴らして、
「まあいい。どんな理由であれ、この姿を見られてしまったからには帰すわけにはいかない。お前に悪意はないのかもしれないが、ここで命を終えてもらおう」
「ええ!? い、いや、ちょっと待って、」
「死にたくないか」
「し、死にたくないですっ!」
「命乞いをするわけか。なるほど、悪くはない。人間も生き物である以上、生に執着するのも当然のことだ。無様な姿をさらしてでも生きようとするのは決して非難されることではない。しかし、人間には恥を感じることができる。それが人類と他の動物との違いだ。潔く運命を受け入れて自分の生涯を誇り高く終えることができるのは人間だけだ」
「——う、運命ってなんですか!」
その声の主は刀を胡桃に突きつけたまま、胡桃の前方に回り込んで、
「貴様はどっちだ。自分の生涯に誇りを持ち続けることが出来る人間かどうか、——ん?」
鎧で身を包んだその女性は胡桃の顔を見ると、怪訝そうな顔をした。
「見たことのある顔だな」
全く同じことを胡桃も思った。
——というか、
「や、社城さん、ですか?」
胡桃はこのサムライ女を知っていた。かれこれもう二年もこの女子校に通っている胡桃である。いくら仰々しい鎧で身を包み、片目に眼帯を付けているという奇抜な格好だったとしても、二年も学校に通っていれば同じ文系クラスの生徒の顔くらいわかる。
彼女も米園英梨華と同様、文系クラスの成績優秀者として有名なのである。確か、社会がとても得意で、社会の成績だけはいつだって1位だとかなんとか。
名前を呼ばれたサムライ女は意外そうな表情をした。
「私のことを知っているのか?」
その返事が肯定であるものとみて、胡桃はわずかに安堵する。
「知ってるも何も、社城さん、学校じゃ有名だし。あの、私、A組の佐倉胡桃です。1年生のとき、体育の授業とかで一緒になったんだけど、覚えてませんか?」
「さくらくるみ?」
社城小町はしばらく考えて、
「ああ、なるほど。このあいだ掲示板で見た名前か。同級生というわけか。道理で見たことがあると思った」
そうかそうか、と小町は納得したような表情をした。少なくとも、さっきまでのぎらつくような敵意はなくなったように思う。——けれど、
「あの、よければ刀を下ろしてくれない?」
いくら同級生だと分かったとはいえ、刀の剣先が視界の中で光っていると気も休まらない。
「ああ、すまない」
小町が刀を腰のさやにもどした。
解放されて、ようやく胡桃は相手の姿をまじまじと見ることができる。鉄製の本格的な鎧。片目に眼帯を付けて、腰には刀を下げている。どうしてそんな格好をしているのかを聞くと、小町はさも当然のような口調で、
「サムライの気持ちを知りたかったからだ」
「——サムライの気持ち?」
「ああ。なりきるには形から入るのが一番手っ取り早いからな。歴史の勉強をしていたら、無性に鎧を着たいって気持ちになったりするだろう?」
「いやぁ、どうだろ……」
聞けば、小町は歴史の授業があったりすると放課後にこうしてこっそりと鎧を纏うらしい。
「その刀って本物?」
「ん? ——ああ、これか」
小町は再度刀をさやから取り出し、ぽんぽんと刃の剣先を触った。
「よくできているだろう。もちろんレプリカだ。本物の日本刀だったら良かったのだが」
小町はその刀を2、3度振り「軽い」と不満げに言った。
「なんだ……」
胡桃は腰が抜けたように地面に座り込んだ。どっと体中の緊張が緩む。そんな胡桃の顔を見て、小町は「すまない」と頭を下げた。サムライの気持ちを知ろう知ろうと思い続けているうちに、役に入り込んでしまったらしい。
「てっきり、生徒会のものが偵察に来たのかと勘違いしてしまった。ついこの間、追いかけ回されてしまってな」
「え? その格好でいたの?」
「ああ」
「刀持って?」
「もちろん」
「……そりゃ追いかけられるよ。だって、学校に刀持ってる人がいたら捕まえなきゃって思うでしょ、普通」
小町は少し考えて、「——そうか。そうかもしれない」と言った。
「それで、どうして私があそこにいたのに気づいたんだ? 一応隠れて歩いていたつもりだったんだが」
胡桃は自習室から校庭が一望できることを話した。校庭からは見えないところも、上から見たら筒抜けなのだ。
「なるほど、盲点だった」
「ビックリしたよ。自習室から校庭を眺めてたら、サムライが歩いてるんだもん。私もう、ついに勉強のしすぎで幻覚を見ちゃったって思っちゃった」
恐怖が去って少しハイになった胡桃がそう話すと、小町は体をのけぞるようにして笑った。
話してみたら見た目から想像も付かないほど気さくな人だった。
「小町ちゃんは歴史が好きなんだね」
「ああ、好きだ。——いや、『好き』という言葉で片付けられるものではないかもしれない。むしろ、今という時代ができるまでにどんなことがあったのか、その過程を知ることは、現代を生きる私たちの使命だとすら思っている」
刀を眺めながらそう話す小町の言葉に、嘘や誇張は一切ないように思えた。小町は心の底から歴史が好きなようだった。これはいい話を聞けるチャンスだと胡桃は思って、
「今、日本史の勉強してたんだけど、江戸時代のところの暗記が思うように進まないんだよね。名前がみんな似ててややこしいっていうか。小町ちゃんはいつも、どうやって暗記するの?」
「——暗記?」
さっきまで笑顔で話を聞いてくれていた小町が、一瞬で無表情になった。
「すまないが、私は歴史を『暗記する』と言われるのが、この世で一番嫌いなんだ」
「え? ああ、そうなの? ごめん」
「社会を『暗記科目』だなんてふざけたことを抜かすやつは、全員さらし首にしてやりたい」
「そこまで!?」
手をわなわなと震わせる小町を見て、胡桃は思わず言い訳してしまう。
「ご、ごめん、そんな怒らせるつもりはなかったんだけど。でも社会って、だいたい暗記科目って言われない? 覚えることもたくさんあるし」
「覚えること……? なんだ、胡桃。お前にとって、江戸時代の将軍たちの名前は英語の単語と同じなのか。私たちの今の時代に多大な影響を与えた出来事の数々は、あんな無機質なアルファベットの羅列と同等だと言うのか。知っておくべきことだとは思わないのか」
「……、そうなのかもしれないけど、」
小町は顔をしかめた。眉間を摘まんで、やれやれという仕草をして、
「私は悲しい。とりわけ、学年トップがそんなことを言うなんて、明智光秀に裏切られた織田信長はきっとこんな気持ちだったのだろう」
「……ごめんなさい」
胡桃の頭に真理の顔が浮かぶ。つい最近、「暗記」という発言をとがめられたばっかりだった。
「やれやれ。——まあ仕方がない。暗記と言われるのは嫌いだが、それでも暗記するのが嫌だと言って歴史を知らずにいるよりもマシだ。歴史をきちんと頭に入れるのに、一番良い方法を教えよう」
小町は気持ちの切り替えがとても早い人らしい。ぱっと顔を上げ、まるで歴史の先生のように丁寧な口調で、
「歴史は英語の単語とは違う。歴史というのは、血の通ったドラマの連続なんだ。当時の社会背景が想像できたら、あっという間に頭に入る」
「はあ」
「とっておきの方法を教えてやる。登場人物を演じればいいんだ」
「演じる?」
「そうだ。映画を見ていて、主人公に感情移入するだろう。そうしたらストーリーも忘れない。人間、興味がないことを記憶するのは辛いが、興味のあることは簡単に覚えられる。そこでだ、一番手っ取り早く興味を持つには、胡桃がその登場人物になればいい」
はあ、なるほど、と胡桃は思った。実際に鎧を身にまとい、腰に刀を携え、眼帯まで用意している小町に言われると、確かにそうなのかもしれないと思わざるを得ない。
「そうと決まれば早速はじめよう」と小町が言った。
なにを? と胡桃が言う前に、小町は胡桃の手を引き、半ば強引に剣道場へと連れ込んだ。つんのめるようにして胡桃は更衣室へと入る。そして剣道場の更衣室とは思えない部屋の様子に、胡桃は目を見はった。
更衣室は、歴史に関する衣装で埋め尽くされていた。時代劇でよく見る武士の服装だったり、十二単だったり、あるいは西洋の軍服のようなものまで多種多様だ。
「——ここ、剣道場だよね」
そうだ、と小町が言うが、胡桃には信じられない。大河ドラマの衣装室だと言われるほうがよっぽど納得できる。
「授業では幕末から明治維新のところをやっているから、開国のあたりをするか」
小町はハンガーラックから幕府の武士の式服を取った。教科書に載っている徳川家康の肖像画のような、黒くて厳格そうな服装である。
「私がペリー提督をするから、胡桃は江戸幕府の徳川家慶をやってくれ」
「徳川家慶?」
「そうだ。誰かは知っているよな。黒船が来航したときの征夷大将軍だ」
じゃあこれを、と小町はその武士の礼服を胡桃に渡した。
「え? 私も着替えるの?」
「当然だ。江戸時代の日本に、そんな海兵みたいな服を着た将軍がいるわけないだろう」
——そりゃそうだけど、
「ほら、早く着替えるんだ。なんだ、それとも着替えさせて欲しいのか?」
「え? いやそれは、」
「はやく脱ぐんだっ!」
「ちょっとーっ!!」
最初こそ迫り来る小町の手から逃れていたが、実際に身につけようと思うと複雑な仕組みになっていることに気付いて、結局小町に手ほどきを受けながらの着替えとなった。着替え終わると、小町は胡桃の姿を見つめ、「うん、なかなか似合っている」と言った。
大きな鏡に映る自分の姿を胡桃は見つめながら、「そうかなあ」と呟いた。普段着ることがないので、荘厳な服装を着ている自分の姿に違和感を覚える。子供が背伸びをして大人の衣装を着ているようだった。
一方の小町は西洋の軍服をとても上手に着こなしていた。腰にピストルを携えている姿は、先ほどまでの鎧を着ている人とは別人のような気がした。
「よし、では準備が整ったところで、始めるとしようか。胡桃はそこに座ってくれ」
言われるがまま、胡桃は練習場の上座にしかれた座布団に座る。
「よし、では開始だ」
そう言い残して、小町は一旦剣道場から出て行った。何をしているんだろう、と思いながら小町が出ていった扉を胡桃は見つめていたら、がらりと扉が開いて小町が再び剣道場へと入ってきた。顔には厳格な表情が浮かんでいる。
「アメリカから来たペリーだ! 日本に開国を求める!」
剣道場に響き渡る声で小町が言った。
――ええっ!?
これじゃあまるで、ごっこ遊びだ。が、小町の真剣な表情をみたらそんなこと言えるわけがない。胡桃はしぶしぶ、
「えっと、こ、こんにちは。私は徳川、」
「——違う!」
小町の鋭い声に制される。
「もっと本気で当時の人たちの気持ちになりきるんだ。考えてもみろ。当時、日本は鎖国中、200年近くも外国との交流を避けてきたのだ。外国人なんてほとんど会うこともなかった。そんなところに大砲をどっさり積んだ黒船が突然現れたらどうする。ピストルこさえた彫りの深い外国人がずらずら降りてきたらどう思う。そんなヘラヘラした顔で『こんにちは』なんて言えるわけがない」
——そんなこと言われても、
「お前は江戸幕府の征夷大将軍なんだ。日本の最高権力者だ。我が国の未来はお前にかかっているんだ。日本が鎖国を始めた理由を思い出せ。お前の先祖である徳川家3代目将軍、家光はどうして鎖国をしたんだ?」
胡桃は圧倒されながら、教科書の内容を思い出す。
「えっと、——キリスト教の布教をやめさせるため?」
「そうだ。キリスト教の『皆、平等』という考えは、徳川幕府の身分制度に反していたから、政権を守るためにはその教えを排除しなくてはいけなかった。だから海外との貿易を制限して、キリスト教が国内で広がらないようにしたんだよな。そしてその結果、徳川幕府は100年以上も政権を持ち続けたではないか」
「う、うん」
「それなのに、だ。制止する声を無視して黒船が江戸湾に乗り込んできたんだ。一体こいつらは何様のつもりだ。こいつらの狙いはなんなのだ。こいつらはキリスト教を日本に蔓延させるかもしれない。異国の思想により幕府に逆らう連中がでてくるかもしれない。判断を誤れば、政権も国もバラバラになってしまうぞ。さあ、胡桃はどうする。いったいどんな振る舞いをするべきなんだ」
熱く話す小町の様子に、胡桃は開いた口がふさがらなかった。なんなんだこの人は、と思った。
しかし、そう思ったと同時に、胡桃は小町のことが嫌いではないとも思った。好きなことについて熱く語る姿が、すこしだけかっこよかった。
——どうしたらいいのか。
胡桃は考える。
結果はもう知っている。なぜなら授業で習ったからだ。この後、徳川幕府はペリーの言うことをのみ、日本は開国してアメリカと「日米和親条約」を結ぶのだ。しかし、言葉としてそれらのことは知っていても、当時の状況などを考えたことはなかった。なぜペリーは開国を迫ったのか。黒船来航から、開国まで、一体どんな流れがあったのだろうか。
「歴史の教科書に載っている人物や出来事の名前は、暗記するだけの用語なんかではない。そこにあるのは実際に存在する人間たちの血の通った物語だ。それぞれが自分の信念をもち、命をかけて行動してきた軌跡だ。それに気づけたら、歴史を暗記科目と言うことはなくなるだろう。歴史の勉強も、楽になるんじゃないか」
にっ、と小町は笑った。サムライの笑顔だ、と胡桃は思った。
「さあ、もう一度行くぞ! 私がペリーだ!」
「私は——」
胡桃はしばらく考えた。そして、思いっきり力強い声で、はっきりと言った。
「私が、徳川家将軍、徳川家慶だ!」
小町が、満足そうに頷いた。
その後も、小町と胡桃はペリーと徳川家慶を演じ続けた。端から見たら、ごっこ遊びにしか見えないその光景は、夕日が沈む時間になるまで続いた。
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