第3話 姉の背中②
運命の日はあっという間にやってきた。
胡桃でさえそう感じたのだから、姉はもっと早く感じただろう。センター試験の日、御月市は記録的な豪雪に見舞われたが、姉はいつもと変わらず平然とした態度で家を出て行った。降りしきる雪を眺めながら、何をするにも手がつかない胡桃は1年前の姉の言葉を思い出していた。
――勉強なんて効率と熱意さえあればなんとでもなるのよ。
なるのだろうか。
自分も、今から死ぬ気でやれば、みんなに追いつけるだろうか。
なんとなく、机の上に置いてある数学の問題集を胡桃は開いた。ペラペラっと数ページ流し読みして、簡単そうな基本問題を2、3問解いてみることにした。シャーペンをノートに走らせながら、姉の背中が胡桃の頭に浮かんだ。あの背中と、今の自分の背中は同じように見えるだろうか。あの擦り切れそうな、それでいて決して屈しない執念を感じさせるあの背中に、自分もなることができるのだろうか。
合格発表の日。
合格発表は1人で見に行くと姉は言ったが、「一緒に行かせて」と胡桃は珍しく食い下がった。1秒でも早く姉の合否が知りたかった。
電車に2時間揺られ、駅から大学の校門まで姉と2人で歩いた。電車を降りてから、姉は何も話さなかった。胡桃も黙って姉の一歩後ろを付いて歩いた。トレンチコートにかかる姉の後ろ髪を見て、1年前よりもかなり伸びたな、なんて思った。まさかこうして姉と一緒に大学の合格発表を見に行くなんて、あのころは想像もしていなかった。
大学は人でごった返していた。校門に立てられた「合格者発表会場」の看板をみて、いよいよ胡桃にも震えが来た。姉は朝から無表情を貫いていたが、やっぱりどこか落ち着かないようだった。
「ここで待ってて」
校門で胡桃にそう言い残して、姉は人混みをかき分けて大学内へと入っていった。校内には、緊張で顔が強ばっている人、肩を落とした人、笑顔の人、いろんな顔があった。「万歳」の掛け声とともに誰かが胴上げされているのが、校門の外からでも見えた。
歴史を感じさせる校門の表札、貫録ある校舎、でっかく聳え立つ時計塔。すべてが日常とはかけ離れていて、まるで異世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。次から次へとやってくる受験生たちがものすごく大人に見えて、年がたった2つ違うだけなんて信じられなかった。2年後に自分も大学受験をすることが、嘘のようだった。
姉はなかなか帰ってこなかった。
胡桃は校門横の石垣に座って待つことにした。となりに座っていた学生服の男子は、携帯電話で不合格だったと誰かに連絡していて、その強ばった声が胡桃の胸をも締めつけた。
ふと気を緩めたら、感情がどっと溢れてきそうだった。
不安になる気持ちを必死に押し殺して、胡桃は地面を歩く蟻をじっと見つめていた。
じっと、じっと見つめていた。
「胡桃」
いつまでそうしていただろう。声をかけられて、胡桃は顔を上げた。
姉が立っていた。
――お姉ちゃん、
姉の顔を見た瞬間、結果はすぐに分かった。どうだったか聞かなくても、姉の表情で一目瞭然だった。だけど、胡桃はあえて、その質問をした。姉の口から、答えを聞きたかった。
「どうだった?」
にっ、と姉は笑った。
姉は1年間、ろくに日にも当たらず、ずっと部屋に閉じこもりっきりだった。肌は青白くなって、運動不足で顔は丸くなって、寝不足で目の下なんて真っ黒にして、
それなのに、
病人みたいな顔をしているくせに、
太陽みたいに眩しい笑顔で、姉は言ったのだ。
「合格したよ」
帰る途中、咲き乱れる桜の並木道で、静かに泣き出した姉の姿を、胡桃は一生忘れない。
空を舞う桜の花びらを眺めながら、胡桃は思った。
――私も、
私も、お姉ちゃんのようになりたい。
これまでは何もかもが中途半端だったけれど、何かに一生懸命に取りかかってみたい。
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