第2話 姉の背中①


 一日中机に向かって鉛筆を走らせる姉の背中が、胡桃にはものすごく格好よく見えた。


 2年前の4月。当時高校3年生の姉は、始業式の日の夕食で突然宣言したのである。


「私、葉桜大学に行くわ」


 また姉が面白くない冗談を言いだした、というのが当時高一だった胡桃の感想だった。葉桜大学といえば、全国的に名の知れた有名大学だ。当時、姉の試験の順位は下から数えた方が早かったはずだし、勉強する姿なんて定期テストの前日ですら見たことがなかった。


 御月女子高校はこのあたりでは一応進学校として名が通っているものの、部活動にもかなり力を注いでいて、受験組と部活組で極端に分かれる高校だった。


 そして姉は陸上部の長距離選手であり、間違いなく後者のタイプだった。勉強はからっきしダメだったが、陸上選手としては大会などで活躍もしていて校内ではそれなりに名が知れていた。つい先日入学式を終えた胡桃が、廊下ですれ違う上級生から「あれが佐倉の妹だ」と話題にされる程度には、姉は有名だった。


 そんな姉が、我が国有数の名門大学に行くというのだから、あのときの胡桃が「冗談だろう」と思ったのも当然といえば当然だった。


「バカね、勉強なんて効率と熱意さえあればなんとでもなるのよ。今からでも死ぬほど勉強すればすぐ追いつくわ」


 だから誰も邪魔しないでね、そう家族に念を押して姉は自室に戻っていった。3日も持てば良い方だろう――夕食のハンバーグを頬張りながらそう思ったのを胡桃は今でも覚えている。どこの大学を目指すかはともかく、勉強する気になってくれただけで良しとしよう、みたいなことを父と母は話していたと思う。


 しかし姉は本気だった。


 次の日、姉は参考書をどっさり抱えて家に帰ってきた。「部活やめたから」とことげに言い、言葉をなくす両親をリビングに残して部屋に閉じこもってしまった。パソコンでも弄っているのだろうと胡桃は思っていたが、そういった娯楽品は段ボールに放り込まれて倉庫にしまわれていた。こともあろうに、あれほど大切にしていた陸上シューズまでもが一緒に段ボールにしまわれていた。


「あの子、ケータイ解約したのよねぇ」


 翌日の母の言葉でいよいよ胡桃も言葉を失う。


 ――あのお姉ちゃんが、葉桜大学を?


 まさかそんなはずはないと胡桃は思う。だいたい姉は勉強が大の嫌いだったはずだ。10点のテストを持って帰ってきて、これが100メートルのタイムだったら世界新記録ね、と笑っていたのは2年の1学期の期末試験だったか。さすがにこれはまずいと思った親の「勉強しろ」に、「私の脳は筋肉でできているのよ」と言い返したときはちょっとだけかっこいいとすら思ったのに。


 どうせ一週間後には倉庫の段ボールと参考書の山が逆転していて、「だいたい私には勉強は合わないのよ」とか言って陸上シューズの靴ひもを結んでいるに違いない。そしてフルマラソン並みの距離を走って、汗をどっさりかいて帰ってきて「いやー、悪夢ってホント恐ろしいわ」などとしれっと言ってポカリをがぶ飲みするのだ。そうして勉強のことも、ここ数日間のことも、かいた汗と一緒にシャワーで流してきれいさっぱり忘れてしまうのだ。


 そうに違いない、と胡桃は思っていた。


 しかし、一週間経っても二週間経っても、さらには一カ月経ったって、姉の口からそんな言葉は出てこなかった。



 それ以降、胡桃は勉強している姉の背中しか見ていない。



 一度だけ、姉が学校の自習室で勉強しているところをこっそり覗いたことがある。


 あれは6月の半ばだった。1学期の中間試験はとうに終わり、期末試験の勉強をするのはまだ早い、そんな時期だった。


 胡桃は高校に入ったものの、やることも特になく、部活動にも入らずにのんびりとした学校生活を送っていた。もともとそれほど何かに熱中するような性格ではなく、流れに身を任せてこれまで生きてきた。この女子校に入学したのも、校舎が家から近く、それなりの進学校に推薦が取れたから、という消極的な理由だった。


 胡桃はとりわけて真面目ではなかったが、不真面目でもなかった。宿題が課せられたらそれなりに準備はしたし、試験前には一応勉強して平均点の上下を行ったり来たりしていた。


 しかしあの日、胡桃は珍しく宿題を忘れてしまったのだ。


 新生活の騒々しさに一段落がついて、少し気が抜けていたのかもしれない。ペナルティとして、胡桃は理科室の掃除が課せられた。生徒は胡桃1人だった。クラスには胡桃よりも不真面目な生徒はたくさんいたが、彼女たちはそれを誤魔化すのが上手だった。自分に非があったのは事実だが、普段はきちんとしている自分だけが罰を受けるのは、なんだか納得がいかなかった。


 そんなときだったから、掃除が終わり、理科室から教室へと向かう途中、「自習室」と書かれた教室を見て、胡桃の頭に少し意地悪な考えが浮かんだ。


 姉をちょっとだけ驚かせてやろう、と思った。


 その頃、姉はよく自習室に篭もっていると言っていた。だから、もし姉を見つけたら、後ろからポンと肩をたたいて、わが御月女子高の校長先生のモノマネをしてやろうと思った。佐倉さんっ、最近がんばってますねっ、あーんなに勉強嫌いだったのにどうしちゃったのですかっ。――きっと姉は驚くだろう。あんた何やってんのよ、そう笑ってくれたらイタズラ成功だ。


 口元をにやつかせながら、胡桃は物音をたてないように、ゆっくりと引き戸を開けて自習室に入った。中を見るのは初めてだったので、個人ブース型の机がずらりと列になって並んでいるのをみて少し驚く。机の仕切りが高く、入り口からはどこに誰がいるのか分からないので、胡桃は一列ずつ姉がいるかを忍び足で確認し始めた。一列目、二列目、三列目……


 しかしあの日、試験勉強があるわけでもなく、受験生たちもまだ本腰いれて勉強に取り掛かっていない時期だったので、自習室はがらんとしていて、人の気配はなかった。なんだ、誰もいないじゃん、――そう思って、胡桃は全く期待せずに最後の列を覗いた。


 姉は、一番奥の席に座っていた。 


 こんなだだっ広い教室でたった一人。机なんて他にたくさんあるのに、わざわざ入り口から一番遠い列の、それも一番隅の席なんかに座って、姉は黙々と勉強していた。


 後に知ったのだが、そこが姉のお気に入りの席だったらしい。すぐ横にある窓からは校庭が一望できて、集中力が切れたときはイスに体を任せてぼんやりと窓の外を眺めて休憩していたそうだ。


 姉は胡桃の存在に気づく様子もなく、ただひたすらに鉛筆を動かしていた。伸びてきた前髪をゴムで無造作に結んでいて、それがまるでちょんまげのようだった。顔には険しい表情が浮かんでいた。


 もう夏が近かった。


 静まり返った教室でぽつんと机に向かう姉の姿と、窓の外に広がるバカみたいに青い空が、同じ世界のものとは思えなかった。


 胡桃は口を半開きにして、姉の横顔を食い入るように見つめる。


 聞こえてくるのは、空気清浄機の運転音と、姉が走らせる鉛筆の音だけ。

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