第4話 笑顔の理由
放課後になると、英梨華は一目散に屋上へと向かった。
屋上の合鍵は生徒会が保管している。もともとは部活動の応援用の垂れ幕をたらすときなどに使う鍵ではあるが、今日だけは職権を乱用させてもらうことにする。
自分が1位だということを全世界に知らしめたかった。
「——ふふふ」
廊下を走るのも自ずとスキップ。屋上につながる階段を上るのも3段跳ばしである。
塔屋の扉の鍵をかじりつくようにして開け、英梨華は屋上に出た。
びゅう、と風がふき、英梨華の金髪がなびいた。
5月も終盤に差し掛かり、梅雨の気配が顔を見せ出している。あいにく空は重たい雲で覆われていて、雨が降り出す一歩手前といった
屋上のど真ん中で、英梨華は一つ大きく伸びをした。そして湿っぽい空気を胸一杯に吸い込み、思いっきり叫んだ。
「わたくしが、一番ですわ————————————————!!」
落下防止のフェンスにとまっていた小鳥が、一斉に飛び立つ。
「お————————————ほっほっほっほっほ!!」
英梨華は両手を広げて笑った。この笑い声が、厚い雲を突き抜けて天まで届けば良いと思う。あのとき、孤独だった自分を、他人より劣っていると思い込んで苦しんでいた自分を救ってくれた、おじさままで届いて欲しいと思った。英梨華はこんなにも立派になりました、この金髪に恥じないような女にわたくしはなりました——そう言いたかった。
体がぺしゃんこになるくらい息をはき出して、英梨華は笑うのをやめた。
「……これでよし、ですわ」
満足そうに呟き、英梨華は屋上の縁まで行って取り付けられた手すりにもたれかかった。
天気はどうあれ、風は寒くない。
英梨華は景色を眺めながら、しばらく余韻に浸っていた。遠い目をして、にやにやと笑っている姿は、端から見たら気持ち悪いかもしれないが、今の英梨華にはどうでも良かった。
今頃、佐倉胡桃は何をしているのだろう、と思う。
あの、とびっきり可愛くて憎たらしいあの顔には、いったい今どんな表情が浮かんでいるんだろう。
自分をあれほど悔しがらせたのだから、佐倉胡桃も同じくらい悔しがってくれなくては困るのだ。どのタイミングで会いに行けば、彼女の悔しそうな表情を拝めるだろう——そんなことを考えていたときだった。
「米園さん」
背後から聞き覚えのある声。
——なるほど、そちらから来ましたか。
自然とわき上がる笑みを噛み殺して、英梨華は振り返った。
塔屋の扉の前に、佐倉胡桃がぽつんと立っていた。顔には無理して作っているような、張りつめた笑顔が浮かんでいる。
その表情が、悔しさを必死で隠しているように英梨華には見えた。
——良い顔ですこと。
その仮面がいつ剥げるのか、楽しみで仕方がない。
胡桃の後ろでくんだ手は成績表を持っているらしく、風に吹かれてカサカサと音を立てた。
「あら、佐倉さん。よくここが分かりましたわね」
挑発するように声をかけると、胡桃が苦笑した。
「米園さんの声が聞こえたから」
「あらあら、ごめんなさい。つい自分の気持ちが押さえきれなくて。わたくしが1位であることを世界に知ってもらいたかったのですわ」
ミュージカル女優のように両手を広げ、英梨華は「おほほ」と笑った。
挑発したつもりだったが、胡桃は気にも留めていないように「そっか」と笑った。周囲を見回して、
「私、屋上に来たの初めて。すごい、ここから海が見えるんだね」
挑発に乗らないようにしているのだろう。周囲を見渡す仕草は気にしていないことをアピールしているだけに違いない。
「それで?」
英梨華はわざと傲慢な声を出した。
「わたくしに用があって屋上に来たのでしょう? まさか、雑談をしにきたというわけではありませんわよね。何か言いたいことがあるのならば、おっしゃって下さっても構いませんわよ」
しかし、胡桃はなかなか挑発に乗らない。笑顔のまま、
「米園さん、1位、おめでとう。やっぱりすごいね」
カチンときた。
強がるのもいい加減にしてほしい。悔しいのならもっと悔しい顔をすれば良いのに。
2週間前、自分が胡桃に1位を奪われたときのように、目を血走らせ歯を食いしばり、憎しみで体を震わせるくらいしてくれなくては割に合わない。
勝負に負けたのだから。
絶対に負けない、と言ったではないか。だったらさっさとその仮面を取っ払って、拳を握って「次は負けないから」と捨て台詞を吐くか、悔し涙の一つでも流してくれなくては困る。
すんなりと負けを認められることほど、屈辱的なことはない。
「まあ、このわたくしが本気を出せばこんなこと楽勝ですわ。それにしても、少しは楽しませてくれるかと思っていましたが、こんなにあっけないと拍子抜けしますわね。もしもリベンジをするというのであれば、次回の試験でも勝負をしてあげてもかまいませんわよ。なんと言っても私は1位ですから、下位からの挑戦は受ける義務が——」
「米園さん」
胡桃が英梨華の言葉を遮った。ついに怒ったかと英梨華は思ったが、そうではなかった。胡桃はずっと持っていた成績表を突き出して、
「はい、これ」
英梨華は何の気なしにそれを受け取った。
「なんなんですの? わたくしが1番である以上、あなたの成績には興味ありませんわ」
胡桃は答えない。英梨華は怪訝な顔で胡桃を一瞥し、二つ折りにされたコピー用紙を開いた。1学期の中間試験成績表。
英梨華は上から順に目を通していく。生徒名、佐倉胡桃。3年A組。出席番号、12番。
そして、
「——え?」
英梨華は目を疑った。
校内順位、
「136位でした」
英梨華ははじかれたように胡桃を見る。胡桃の顔には相も変わらず、引きつった笑顔が浮かんでいる。
ようやく英梨華は気づいた。あの笑顔は、怒りや悔しさを誤魔化しているものではなく、必死で涙をこらえるそれだった。
「私の負けです」胡桃が言った。
雨が降り始めた。
成績表に、ポツポツとシミがつく。
「やっぱり、この間の1位はたまたまだったみたい」
諦めのような、もはや清々しささえ感じる口調だった。
手を差し出されて、英梨華は反射的に成績表を渡した。胡桃は成績表を四つ折りにして、スカートのポケットに入れ、
「3年生の文系の生徒数が200人で、その半分にも届かないなんて、勝負してくれた米園さんに申し訳なくて」
胡桃の手が、もじもじと動いている。
「なんか、私も勘違いしてたみたいです。たった1回、いい成績が取れたからって浮ついちゃって、実は私ってすごいんじゃないかって、ずっと見上げてた米園さんたちみたいな、すごい人たちの仲間入りしたような気がして。こうやって何かに熱くなることもなかったし、真剣に物事に打ち込むことがなかったから、これまでの自分から変わるような気がしてたんですけど」
へへ、と胡桃が自嘲的に笑った。そのまま口をつぐみ、空を見上げた。今更雨に気づいた、という表情をしているが、どう見ても心の中の感情を悟られまいとする強がりの顔だった。
「……あの、」
気づけば英梨華の口から出ていた。胡桃が英梨華を見る。
しかし、いざ胡桃と目が合うと、言おうと思っていたセリフが吹っ飛んでしまった。何か言わなくてはいけないと英梨華は思うが、必死になって言葉を探せば探すほど頭に霧がかかったように言葉が見つからなくなる。しかし、何か言わなくてはいけないのだ。沈黙はだめだ。何かを絞り出さなくては。
英梨華は腰に手を当てて、
「そ、そうでしょう。やっと気づいたのですわね。わたくしが本気になれば誰もかなわないんですもの。別に佐倉さんが落ち込む必要なんてありませんわ。結果なんて分かっていたことです。わたくしのすごさに感服して、これからも生きていくといいですわ」
おほほ、と英梨華は乾いた笑いをした。
胡桃は唇をかみ、目を伏せた。何かを堪えているようだった。
やがて、ようやくなんとかなったという笑みを浮かべて、
「うん、そうする。——あの、でも勝負をしてくれてありがとう。私、あのとき声をかけてもらって嬉しかったです」
雨が強くなる。灰色の雲が驚く速さで流れ、ゴロゴロと不気味な音を立てる。
胡桃の顔に落ちた一滴の雨粒が頬を伝い、まるで涙のように英梨華には見える。胡桃はうつむき、袖で顔を拭った。もう一度、
「米園さん、1位、おめでとう」
そのまま顔を上げることなく、胡桃はきびすを返して小走りで室内へと戻っていった。
塔屋の錆び付いた扉が、悲鳴のような音を立てて閉まった。
雨が降り続けている。
英梨華は一歩も動くことなく、胡桃が戻っていった扉を呆けたように見つめている。
「お嬢様、ここにいては濡れてしまいます」
どこからともなく現れた飯塚が、英梨華の傍らで傘を差した。
「さあ、帰りましょう。校門に車を用意しています」
しかし英梨華は答えない。飯塚の言葉が一言も耳に入ってこない。濡れた顔や髪を飯塚にハンカチで拭かれているというのに、英梨華は瞬き一つしない。
これで良かったはずだ。
自分がいかにすごいかということを佐倉胡桃に知らしめてやろうと思ったのだ。あの気に入らない女をコテンパンに叩きのめして、「あなたには適いません」と悔し涙の一つでも流させてやるつもりで勝負を挑んだのだ。
はじめからそのつもりだったのだ。
胡桃の引きつった笑顔。
——私の負けです。
これで良かったはずだ。
——声をかけてもらって嬉しかったです。
「お嬢様、このままでは風邪をひいてしまいます。——お嬢様」
雨音が強くなる。
黙って扉を見つめたまま、英梨華は動かない。
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