50 過去の世界へ
眞奈とマーカスはグラディスと一緒に音楽室を出ると、ウィストウハウスのガーデンを花木の陰に隠れながら歩いた。
マーカスは物ごとがわかるようになってから過去の世界へ来るのは初めてだったので、好奇心いっぱいに周囲を見回した。
眞奈は言った。
「外観は全然現代と変わってないでしょ?」
「ほんとに変わってないね」、マーカスは眞奈の言葉に同意した。
建物の外壁も同じだし窓も同じ、ガーデンの樹木の位置も同じ。庭木は咲いている花こそ違うもののイメージ自体はほぼ変わっていない。本館周りの建物もそのまま。カメリアハウスやあずま屋もちゃんとある。もちろん、寮や食堂、図書館など学校改築時に新しくつけ足された建物は存在しなかったが、それでも、現在のウィストウハウスはほぼ昔の姿を留めているのだ、マーカスは感心した。
そして、自分がこのウィストウハウスゆかりのウェントワースの一員だということを誇らしく感じずにいられなかった。もっとも、すぐにさっきのミセス・ハドソンの正気とは思えない話の記憶が戻り、自分がウェントワースであるということはもうあまり考えないことに決めた。
グラディスは眞奈とマーカスにキングサリの大木の後ろに隠れるように合図した。
「ジュリア様が閉じ込められているのはあの部屋なんです」、グラディスはロウソクのささやかな明かりがついてる三階の窓を指さした。
「部屋のドアのところには常に見張りがいて、食事は二回持ち込まれるものだけ。ジュリア様は陽気な性格ですからなんとか日々過ごすことができていますが、普通のお嬢様なら精神的にまいってしまうでしょう」
眞奈はその窓をじっと見つめた。
「ああ、ジュリア。少なくても今は無事だわ」
グラディスは改めて眞奈とマーカスに状況を説明した。
「ジュリア様が部屋に閉じ込められた後、アンドリュー様は突然遠征隊員として遠くに行かされてしまったんです。それでこの間、ヴィッテッリ侯爵様が近々ウィストウハウスを再訪問するという情報があって……。私、心配でアンドリュー様に手紙を送りました。そしたら一刻も躊躇(ちゅうちょ)していられない、すぐ迎えに行くということでした。アンドリュー様も駆け落ちという形にはなるべくしたくなかったようなのですが、そんなことを言っている状況ではなくなってきました。隊をなんとか抜け出して、今夜の夜中十二時にアンドリュー様がジュリア様を助けに来ることになっています。ところが、その段取りをつけた手紙が盗まれ、エマ様とリチャード様に読まれてしまいました。二人は今夜アンドリュー様をつかまえる気でいます。部屋の前の見張りは増やされるし、もう少ししたら階下の見張りも増やされるでしょう。私、いったいどうしていいのかわからなくて……」
マーカスは聞いた。
「アンドリューがこういう状況なのは……、手紙が盗まれて、敵が待ち構えているところに来ることになるのは知っているのかい?」
「いいえ、知らないと思います。一応、事情を書いて気をつけるように手紙を送ったのですが、おそらく届くのは間に合わなかったと思います」
「つまり僕たちがしないといけないことは、ジュリアの見張りをなんとかして、ジュリアを部屋から出し、アンドリューの見張りをなんとかして、ジュリアをアンドリューに引き渡すってことだね」
「ええ、そのとおりです。ジュリア様がアンドリュー様の手に渡りさえすればなんとかなると思います。アンドリュー様からの先日の返信では、少し先のミッドグリー村まで行けば味方がいるそうです。その後は財産の交渉の件も含めて有力者に協力を仰げるかもしれないということでした」
「見張りっていったい何人ぐらいいるのかしら?」、眞奈は聞いた。
「ジュリア様の部屋の前は二人です。それ以外はそうですね、二十人ぐらいでしょうか」
「二十人!」、眞奈とマーカスは目の前が真っ暗になった。
「でも二十人といっても、今夜のために駆り出された村人たちなんです。みんな、エマ様とリチャード様に、今夜、ジュリア様を狙う悪いやつが来るからお嬢様を護れと言われているだけなんです。確かに村人は粗野ではありますが、よっぽどの間違いがない限り、ジュリア様に危害を加えることはないですし、アンドリュー様も取りおさえるということが目的なので、『殺す』ということはないと思います」
「そうね、殺すのはヴィッテッリ侯爵とかいう人物なんでしょ。舞踏会の夜にエマとリチャードと陰謀を企んでいた男よね」、眞奈はウェントワース夫妻と侯爵の会話を盗み聞きしたときのことを思い浮かべた。
「そうです。もしジュリア様が殺されるにしても、それはヴィッテッリ侯爵様が祖国のイタリアからイギリスに来たときです。実はそれは来月のはずだったのですが、私のアンドリュー様への手紙が知れてしまったことで、もっと早くイギリスに来れないか打診しているようです」
「そのヴィッテッリ侯爵ってのは?」、マーカスは聞いた。
「イタリアの貴族ということになっているのですが、誰も素性は知りません。あやしい秘密結社に入っている違法請負人だと思います。殺人や横領、略奪、人身売買……、お金になればなんでもやっているというもっぱらの噂です」
「なるほど。ヴィッテッリ侯爵はやばそうな感じだね」
「そしたら今日はまだ彼はいないのね。よかったわ」、眞奈はひとまず安堵した。
「ええ。ヴィッテッリ侯爵様がウィストウハウスに到着するのはおそらく来週だと思います」
「ジュリアはどれくらいの期間、閉じ込められているの?」
「三週間ぐらいでしょうか。この間の舞踏会のすぐ後からです」
「いじめられていたり、暴力があったりはないんでしょ?」
「脅迫するんです。全財産を兄に譲るという書類にサインさせようとしているのです。最近その脅迫がひどくて……。エマ様とリチャード様が今お金に困っていることは事実で、一応兄妹ですからお金を数千ポンド譲渡することで交渉していたのですが、エマ様が強欲で聞く耳持ちません。ついにウィストウハウスの屋敷まで望んで……。いくらリチャード様と兄妹といっても、連れ子兄妹ですし年も離れていますし、そこまでする必要はないんです」
グラディスの説明が終わると、マーカスは言った。
「階下や外の見張りが増えないうちにジュリアを外に連れ出した方がよさそうだね。今、何時かわかる?」
「先ほど九時三十分でした。今は十時ぐらいでしょうか」、グラディスは答えた。
「ジュリアを外に連れ出し外のどこかに隠れて、十二時に来るアンドリューを外で待っているってのはどうかな? 外にいれば駆けつけたアンドリューにすぐ引き渡せるし危険も少ない」
「いい考えだけど、そんなことできるの?」、眞奈は半信半疑で聞いた。
「屋根の上からロープを吊るして下に降りるのさ。ツリーハウスから降りたみたいにね! ジュリアの閉じ込められている部屋はちょうど月とは逆がわだから表がわより暗がりだし見つかりづらいはずだ」
「なるほど、それ、うまくいきそう! でもロープがないわ」
「グラディス、ロープがどこかにない? なるべく長いのを何本も」
グラディスは考え込んだ。
「おそらく納屋にならあると思いますが、カギがかかっていますし、下男にロープのことを聞くとあやしまれそうです」
「それもそうだね。そしたら、そうだ、シーツは? 使ってもバレないようなシーツがないかな?」
「シーツですか、それならいくらでも用意できます。私はメイドですから」
「よし、そしたらなるべく急いで手に入れよう。シーツをつなぎ合わせてロープ代わりにするんだ」
物音に気がついた眞奈はマーカスとグラディスにささやいた。
「誰か来るわ!」
外を見回りに来た見張りの村人たちだった。
村人が去るのを待ってから、眞奈とマーカスとグラディスは木の陰を離れるとウィストウハウスの建物の中にしのびこんだ。なるべく暗い通路を使ってリネン室に行くと何枚ものシーツを抱えて、しばらく隠れられるような小部屋に入った。
グラディスは言った。「ここは普段使ってない物入れ部屋で誰にも見つからないでしょう。小窓からちょうど今ジュリア様がいる部屋も確認できますし」
「うってつけね」
「今、ジュリア様の部屋の中にお嬢様の見張り兼家庭教師がいますが、さっき睡眠薬を入れたココアを置いておきましたので、そろそろ効いている頃だと思います。メイドの私は部屋に入れるので、これから部屋に行って確認して決めたます。もし効いていたらジュリア様の部屋の窓から作戦開始の合図をします。屋根の行き方は……」
マーカスはさえぎった。
「行き方はわかるよ。建物の構造自体はあんまり現代のウィストウハウスと変わってないようだから」
「マーカス様はウィストウハウスをよくご存知なんですね」
「一応、四歳からウィストウハウスに住んでいるしね」
「まぁ、一族のお方なのですか?」
マーカスと眞奈は一瞬の間合いで、彼がエマとリチャード・ウェントワースの子孫だとは言わない方がいいだろうと示し合わせた。マーカスとしては一八〇年前のことなんてちっとも気にしていないのだが――その点、イザベルは絶対考え過ぎだと思っていた――、でも実際に一八〇年前の過去の世界に来て、これから被害に遭おうかとしている人たちの前ではやっぱり言いづらい。
マーカスは自分がウェントワースだというのは伏せて「僕たちの現代、君たちのいうところの未来の世界だけど、その世界ではウィストウハウスは学校になっていて、僕はその学校の寮に住んでるんだ」とだけ伝えた。
「ウィストウハウスが学校に! どうしてそんなことに……」、グラディスは驚いて口に手をあてた。
マーカスは説明に困った。
「うーん、時代の流れというか、べつにウィストウハウスだけじゃないんだ。世の中すべてがすっごい様変わりしてるんだよ」
「そうなんですか……」
マーカスはグラディスががっかりしないように、急いでつけ足した。
「あ、でも、外観や庭は変わらず残されているし、一階の立派な部屋も歴史的建造物ってことで保存してある。肖像画の部屋……、ウェントワースルームのことだけど、その部屋とかもそのままさ。その他は、ま、学校っぽいかな」
学校にするためにほとんどの部屋を細断したとは言えなかったので、マーカスは微妙にぼかした。
「歴史的建造物とは誇らしいです! それに学校になってるというのは面白そうですね」、
グラディスはまだいろいろ聞きたそうだったが時間は限られていた。「そしたら、私は行きますね」
グラディスが物入れ部屋を出ていくと、マーカスはシーツをロープ代わりにするために細工しはじめた。
しばらくしてジュリアが閉じ込められている部屋からグラディスが顔を出し合図するのが見えた。
「グラディスが合図してるわ!」、眞奈は言った。
そしてグラディスの後ろからジュリアが顔を出した。
「ジュリア!」、眞奈は叫びそうになり慌てて口をおさえた。
「マーカス、あれがジュリアよ!」
マーカスは信じられないといった面持ちでジュリアを見た。遠くのため、それほどはっきりとした姿ではなかったが、確かに子どもの頃、肖像画から抜け出てきたと思った女の子だった。
イザベルに似ているが少し違う。明るい春のような微笑みと愛嬌のある表情……。
ジュリアは眞奈とマーカスを見てうれしそうに手を振った。
部屋に監禁されたり脅迫されたりしていることで、眞奈にはジュリアがちょっとだけやつれた様子に見えた。それでもチャーミングなところはあいかわらずだった。
マーカスがふと言った。
「もしジュリアを助けることができれば、イザベルも喜ばないかな? だって、ジュリアはイザベルの祖先の女の子だしさ、僕は気にしてないけど、ウェントワースがジュリア・ボウモントを殺したこととか財産を奪ったこととか、ほら、イザベルは泣き出すぐらい気にしてるだろ? だから、今、ここでジュリアを助けることができれば、ジュリアと君のためだけじゃなくって、イザベルのためにもなるよね?」
「もちろんよ!」、眞奈はうなずいた。
「そっか。実はさっきイザベルとケンカしちゃったんだ。っていうか、僕が一方的にひどいこと言ったんだけど……」
「へぇ、めずらしいね」
「よし、準備できた、行こう」、マーカスは眞奈を促した。
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