29 春になったら

 窓が開かれると教室に新鮮な空気が入り込んできて、むっとした息苦しさはなくなった。


 窓の外は一階の屋根のルーフトップになっている。

 マーカスと歩いたときや、ジュリアの元へ行ったときと違い、今度はちゃんと柵がついているため、正式なルーフバルコニーなのだろう。


 眞奈はバルコニーに出てみたかったが、教室を見回しても出入口らしきものはなかった。

 きょろきょろしている眞奈に目をとめると、マーカスは「外に出たいのかな?」と聞いた。


「そうね、出てみたいんだけど、出入口が見つからないの」


「窓枠をよじ登って外に出るんだ」、マーカスは事もなげに言った。


 眞奈は驚いた。

「え? でもここはちゃんとしたルーフバルコニーになっているのに、なぜ教室にはバルコニーに出られるドアがないの?」


「それは元々この教室の部屋は大部屋で、学校に改築するとき壁で二つに仕切ったからだよ。だからバルコニーに通じるフランス窓は隣の教室にあって、こちらの教室には出られるところがないってわけさ」


「なるほどね……」

 言葉上は納得したものの、改築がそんなにいいかげんでいいものなのだろうか、眞奈は呆れてしまった。


 この部屋だけではない。ウィストウハウスの増築や改築はかなり勝手過ぎて、明らかに計画性がない建物になっている。いくら眞奈が方向音痴とはいえ、必ず迷ってしまうのは眞奈が悪いとばかりいえなかった。

 これはイギリス的なのだろうか、それとも片田舎のそれほど重要ではない建物だからなのだろうか……。


 一方、マーカスは『バルコニーへのドアがない、思いっきりバルコニーに面した部屋』の奇妙さはちっとも気にならない様子だった。


 彼は自慢げに言った。

「よじ登るのが大変だったら、イスとラジエーターを足台にするとラクに出られるよ。フレッド、イス持って来てくれる?」


 フレディがさっそくイスを持って来てラジエーターの前に置いた。

 眞奈はフレディの手を借りて、イスを踏み台代わりにしてラジエーターの上に上がるとそこから窓の外に出た。


 もわっとした暖房の中にいたので、バルコニーに出ると風が気持ちいい。


 眞奈はバルコニーの手すりごしにウィストウハウスの広大なガーデンを見つめた。後を追って出たマーカスも眞奈の隣に来て、やっぱりガーデンを眺めている。


 霧にかすんだ瑞々しい丘陵の向こうには、遠くに湖が見え、小さな橋が見え、森が見えた。

「きれいだね」、と眞奈が言うと、マーカスも「そうだね、きれいだね」と応えた。


 眞奈は最初、自分に気をつかって同意してくれているんだろうと思ったが、マーカスの方を向くと彼は遠くを見ていて風景に感じ入っているようだった。イギリスの美しい風景を『きれい』と感じるのはイギリス人でも男の子でも一緒なんだ、眞奈は新しい発見をした気持ちになった。


 そこへ後ろから誰か叫んでいる声が聞こえてきたので振り返ると、教室の窓のところは大混乱だった。

 フレディの手を借りて、レイチェルやクレア、イザベルたちも窓からバルコニーに出ようとしていたのだが押し合いへし合いしている。


「早く!」


「もう押さないで!」


「スカートが引っかかっているの!」


「ほら、はずしたから大丈夫!」


 窓から次々みんなが転がり出てくる様子に眞奈とマーカスは顔を見合わせて笑った。


 フレディが「あっちまで屋根が続いているんだ、一周しよう」と言うと、女の子たちを案内しはじめた。

 残された眞奈とマーカスは景色を見ていた。


「あそこまでどれくらいかかるのかな?」、眞奈は丘陵の中でもひときわ小高い丘を指さした。


「あの丘は見晴らし台になっているんだ。あの辺りがウィストウハウスの境界なんだよ。といっても隣も丘陵だし特に石垣とかがあるわけじゃないから、境界があまりはっきりしないんだけど。あの丘まで歩いて四十分ぐらいかな」


「へぇー、歩いて行けるのね。けっこう遠くに見えるし、向こうまで徒歩で行けるんだ」


 そういえば眞奈はウィストウハウスのガーデンを端から端までちゃんと周ったことは一度もない。ウィルが庭散策なんてものに興味あるはずもないし、帰りのスクールバスの時間も気にしなければならないからだ。


 マーカスは説明した。

「行き方は二通りあるんだ。右回りだとあそこの湖の橋を渡り牧草地を通って馬小屋を曲がって見晴らし台に着く。左回りだと僕たちの寮と彫刻公園を通って森を抜けてから見晴らし台にたどり着くんだよ」


 眞奈はくすりと笑った。

「窓だけじゃなくて、外の景色についても詳しいんだ。ほんとウィストウハウスのことだったら知らないことはないのね!」


「もうずいぶん長いことここに住んでいるからね」


「そうしたら、この景色全部、あなたたちの庭なのね」


「え?」


 マーカスはちょっと面白そうに眞奈を見た。

 外国人の眞奈の言葉は、子どもの迷言のような、でもなんだかとても詩的な言い方のような気がしたのだ。


 この景色が自分たちの庭だとは思いもよらなかった。確かに言われてみればそうかもしれない、マーカスは思った。


「そうだね、僕たちの庭だ」、彼は笑った。「去年、まだ寒くなる前にお弁当を持ってみんなで一周したんだ。春になったらまた行くだろうから、君も来るといいよ」


「本当? 私も行っていいの?」


「もちろんだよ」、マーカスはうなずいた。


 眞奈はふと言った。

「いつも心配なの、私がここにいていいのか……」


 どうしてこんなことを、しかもマーカスの前で言い出すのか、眞奈は自分でもわからなかった。


 きっと霧にけむった丘があんまりきれいで、そして冷たい風に吹かれて、なんだか自分が自然に素直でいられる気がしたからだろう。


 マーカスは驚いたようだった。

「ここにいていいかって……、僕たちといてってこと? それともイギリスにいてってこと?」


「どっちもよ」


 マーカスは言った。

「僕は君にいてほしい。だって君はいい子だと思うし、ここにいるべきだよ。それにその気持ちはウィストウハウス・スクールとイギリスの代弁でもあるんだよ! もう、そんなこと思わないでいいよ。春になったらあの丘に行こう」


「ほんと?」、眞奈は聞いた。


「うん、絶対」


 二人は目と目を合わせて微笑んだ。


「君は不思議な子だね。君が僕を『窓の魔法使い』だって言うのは絶対止めてほしいと思ってたけど、実は君の方が魔法使いなんじゃないのかい? 日本から来たなんて本当は嘘なんだろ?」、マーカスは半ば本気で冗談を言った。


 マーカスの言葉に眞奈はどう答えたらいいのか迷っているとイザベルの声がした。

「マーカス、マナ! バルコニーの向こうの屋根に移るわよ、来ない?」


 二人が声のした方を見ると、イザベルがフレディたちと手を振っていた。


「イザベル! 今、そっち行くよ!」、マーカスは大きな声で答えた。


 眞奈とマーカスはみんなのいる方へ向かった。

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