30 嵐の中の散歩

 午後の最後のクラスが始まっても、眞奈は気もそぞろで授業はすっかり上の空だった。

 何気なくマーカスの方をちらっと見たら、彼はノートに何かを書いていた。一度も先生のホワイトボードを見ることなく熱心に書いているところをみると、授業内容とは関係のないこと、おそらく絵を描いているのだろう。きっとイザベルの絵にちがいない、そう思うと落ち込みそうだったのであんまり深く考えず、眞奈は窓の外の景色に目を移した。


 お昼休みにマーカスと話した小高い丘はさっきよりも深い霧にかすんでいた。

 眞奈がぼんやり眺めていると、まもなく雨が降ってきて辺りは暗くなり、あっという間に雨風が激しくなった。

 ざぁざぁ降りの雨に侵襲されていくガーデンを見ながら、眞奈は強い気持ちに捉われた。


 あの丘に行ってみたい。


 春になったらみんなで一緒に行けるかもしれないけど、今は一人でもいい、私は『今』行ってみたいわ。


 授業は終わる頃には『見晴らし台まで一人で行く』という眞奈の決心はすっかり固まっていた。

 スクールバスを一本ずらせば大丈夫。次のバスは一時間後だから、一周は無理だとしても、途中までだったら行って帰ってくるぐらいはできるだろう。


 眞奈はゆっくりウィストウハウスの両扉を押し開けながら、外の天気をうかがった。


 天候は最悪だった。


 黒い雲が重く立ち込めた空からはどしゃぶりの雨が容赦なく落ちている。春といっても日はまだ短い。辺りは薄暗く陰々として、まるで真冬に逆戻りしてしまったかのように冷たい風が吹きつけている。


 それでも眞奈は丘歩きを諦めなかった。


 靴の紐をしっかりと結び、コートのボタンを一番上まできっちりと留める。タータンチェックのマフラーをしっかりとあごのところまで巻きつけ、花モチーフのニット帽を、ちゃんと耳のところまで下ろす。さらにその上にコートのフードをかぶり、最後に折りたたみ傘を広げる。

 イギリスでは傘をさす人はあまりいないので、いつも傘を使うときは気がひけたが、今日は気兼ねなく堂々と傘をさすことができた。


 ウィストウハウスのガーデンには当然ながら人っ子一人いなかった。


 かまわず突き進んで行くとすぐにコンクリートの道から自然の土の道となり、ひどくぬかるんでいるところを歩いて行かなければならなくなった。

 靴はあっという間に泥だけの水浸しで、靴の中はびしゃびしゃ。まるでふわふわと水の上を歩いているみたいだ。おまけに傘は突風に裏返ってしまって、まったく役に立たない。

 びしょ濡れになるのはもう潔く受け入れて、せいぜい雨風の散策を楽しむつもりだった。


 マーカスは見晴らし台への行き方は二通りあると言っていたが、眞奈が行こうとしている道はマーカスの言うところの、湖の橋や馬小屋を通っていく『右回り』である。


 本館横の水仙のつぼみの群れを横目にだいぶん過ぎると、大木が立ち並ぶ林に出た。

 樹齢数百年はあろう堂々とした木々がじいっと立ち止まっており、数えきれないむき出しの枝たちが、突風に吹かれ上に下に大揺れしていた。木々は大雨を浴びながら冷然たる澄みきった空気を味わっていた。


 何百年もここにいるんでしょ? 眞奈は問いかけた。でも木々は黙ったままだ。


 魔法使いをこしらえるぐらい空想は得意なはずなのに、今の眞奈には空想の声さえ聞こえてこない。ナイフのように研ぎ澄まされた冷たいヴェールを幾重にも重ね、木々は黙り込んだまま。横なぐりの雨が地上を打ちつける音と、無数の枝が突風でぶつかり合う不気味な音しか聞こえない。


 眞奈は顔や服についた雨滴と寒さ、そして不穏な空気に震え、人恋しさに今来た道を振り返ってみた。


 遠くにウィストウハウスが深い霧にかすみ孤高にたたずんでいる。

 強い雨風に打たれ、普段は明るいクリーム色の石造りの壁は、今日はどんより重く黒ずんでいる。


 雨あしがさらに強まってきた。それでも眞奈はさっきルーフバルコニーから見た丘に行くのを諦められなかった。


 せめて近くに行ってみたい。


 意を決意して、できるだけ水たまりを避けながら一歩一歩ぬかるみ道を歩いて行った。しかし、幅広の道はまだなんとかなったが、その道が途切れて小径になると、水たまりはもう免れず、小さな池の中を歩いて行くような有様だった。

 眞奈はもはや意地になっていた。


 湖にかかる橋はやっとのことで渡れたものの、丘陵の入口の大きな柵まで来ると、いくら眞奈でも諦めざるをえなかった。濃霧のためまったく視界がきかないのだ。眞奈は自然の摂理にはっきり行く手を阻まれているのを感じた。そのことを感じた瞬間、彼女は自然の力に畏敬の念を抱き、諦めるという意思を自分の中に受け入れることができた。


 もう戻ろう。ちゃんと春になったらまた来ればいい。マーカスたちと一緒に来られるのかもしれない、また一人なのかもしれない。そうね、まともに信じて期待するのは良くない、また傷つくから。一人で来ると考えておこう。でも、絶対ここにまた来よう!


 眞奈は道を戻りはじめた。

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