19 感情のプロテクター

「今日はいつもほどは寒くないな。春はまだだけどよ」、ウィルは思いっきりあくびをした。

 まるでずっと我慢していたかのような大きなあくびだ。バスの中でだって何度もしていたのに。


 ウィルのおちゃらけた態度をいつもなら笑うのだが、眞奈は今は笑う気分でなかった。

「そうだね」と、しずみがちに言った。

「あーあ、今日は私、どんな失敗をするのかな、どんなみじめなことが待っているんだろう」


「なんだよ、それ。大丈夫だって」


「もうウィルったら、私が全然大丈夫じゃないこと知っているくせに」


「おいおい、本気で大丈夫だと思っているぜ」


 まったくウィルは忠実な友だ。

 きっと私が落第してしまったとしても「だからなんだってんだよ、もう一年やればいいだけじゃんか」と言いそうだ。

 でも今の眞奈にはそういう友達が必要だった。


 ウィルはカバンをゴソゴソ探ってタバコを探しつつ言った。

「じゃ、ちょっと一服してから授業に行くから、先に行っててくれっか?」


「OK」、眞奈は返事した。


「あんまり、思いつめるなよ!」

 ウィルは眞奈の肩をポンとたたくと、『先生に見つからないどこか』へ行ってしまった。


 そうだ、考え過ぎなのはよくない。

 眞奈は気を取り直すようにちょっと立ち止まって庭を見回した。


 さっきまで降っていた霧雨はすっかり止み、一転して晴れ間が見えてきた。気まぐれに顔を出した太陽の光で芝生の緑が輝いている。


 明後日から三月だ。

 三月といってもまだまだ寒い。眞奈はコートのボタンを上までとめてマフラーをしっかり巻き、ニット帽を目深にかぶった。


 樹木たちはまだ葉はつけていなかった。来たる春の足音をうかがいながら、カラの枝にエネルギーをためこんでいるのだろう。注意深く見ると、いくつにも分かれた枝先だけちょこんと葉の息吹を感じさせていた。


 そして本館のたもとの大きな花壇には一面、水仙の葉がだいぶん伸びている。ちょっと前までは地面だけだったのに。

 前からウィルに「ここは水仙が咲くんだ」と聞かされてはいたが、実際にその『予感』を目の当たりにすると眞奈は驚いた。

 その明るい希望の兆しはウィストウハウスに春の訪れを促していた。


 不意に向こうでプォワーッという壊れたラッパのような変な音がした。


 眞奈が思わずそちらの方が見ると、向こうの芝生にマーカスとイザベルが座っていた。マーカスがラッパか何か金管楽器を手にして、調子はずれにそれを吹いたのだった。


 マーカスは笑顔でイザベルに何か言っている。イザベルは言い返しているみたいに少し口をとがらせている。風に乱れたイザベルのブロンドの髪が、金色の絹糸のように彼女の頬にかかっていた。肌はミルク色で頬は冷たい風にピンクに染まっていた。


 彼女は、あれはなんというのだっけ、そう、印象派の絵画みたい。

 筆でさっと留めたようなとらえどころのないやわらかい微笑。偉大な芸術家たちにそれを描きとめたいと思わせるような(マーカスの落書きにさえも描きとめられている!)。


 イザベル・ボウモントは他のイギリスの女の子とどこか違っていた。

 眞奈の考えではイギリスの女の子たちは輪郭の線がしっかりしていて、まなざしもいくぶん強く、気も強いイメージがある。

 クラスには他にもかわいい女の子たちがいたが、イザベルが持っているはかなさややわらかさはなかった。そしてそれこそが眞奈がイザベルをきれいだと思う理由だった。


「マナ!」、イザベルが眞奈に声をかけた。

 隣でマーカスも手を振っている。


 なぜイザベルが『あの中国人の女の子』ではなく、眞奈の名前を知っているのか。眞奈の胸に冷たい空気が流れこんできた。おそらくマーカスがあの日のことをイザベルに話して、イザベルも自動的に覚えたのだろう。


 どうせ約束を忘れるくらいなら何も言わないでいてほしかったのに、そしたら大切な思い出のままにできたのに……。

 眞奈は泣きたい気持ちになった。


 マーカスとイザベルの二人が眞奈に気がついた以上、何か会話をしないわけにはいかない。眞奈はしかたなく二人に近づいた。自分からすすんで傷つきに行くみたいに。


 眞奈は楽器が二人の周りにいくつも転がっているのを見た。次にイザベルの腕の中に黒猫がいるのも見た。

 その猫は、あのとき……、屋根の上でスケッチしていたマーカスと会う前、廊下に突然現れた猫だった。


 眞奈はまず無難に猫について聞くことにした。

 猫についての会話なら特に自分が傷つくようなはめにはならないだろう。


「かわいい猫ね。イザベルの猫なの?」


 イザベルはにっこりした。

「いいえ、寮母さんの猫よ。でも、いつも一緒にいるの。名前はスノーウィ」


 黒猫は眞奈を見るとミャオと鳴いた。

「あら、マナのこと気に入ったみたい。スノーウィは人見知りでめったに鳴かないんだけど……」


「この間、一度会ったことあるから、私のこと覚えているのかも」

 

 眞奈がそう言うとマーカスは笑った。

「一度会っただけなのにスノーウィに好かれるって、君すごいね。スノーウィは元ノラ猫だから人間嫌いなんだ。僕なんてめちゃくちゃ嫌われてるんだよ」


「それはマーカスがスノーウィにいつもいたずらするからでしょ」、イザベルは頬をふくらませて文句を言った。


「スノーウィって雪が由来の名前よね。黒猫なのに雪なんだ?」、眞奈が不思議そうに言うとイザベルも同意した。


「変な名前よね、マナもそう思うでしょう? マーカスとフレディが冗談でつけたのよ」


 マーカスがとんでもないというふうに言った。

「まさか、冗談なんかで名付けないよ。ほら、黒猫だからさ、白い雪の中を歩いていたとき、すっごく目立ってたんだ、それでこいつはスノーウィだって! 最初見たとき、雪の中を黒いゴミ袋が動いてるって、僕たちびっくりしたんだよ」


 イザベルとスノーウィは目を細めてちらっとマーカスを見た。そのすみれ色と黄色の目つきからすると、ゴミ袋呼ばわりへの抗議の視線だった。


 こういう状況でなければ、眞奈は猫好きなのでかわいいスノーウィをなでてみたかったのだが、今は早く立ち去りたいという気持ちが先に立った。


 質問を二個ぐらい往復しとけば、一応無難に同級生としての会話が成立したことになるだろう。

 眞奈は義務的に次の質問をした。

「その楽器はどうしたの?」


「音楽室の倉庫にあった古い楽器なの。スミス先生に頼まれて、楽器に風を通すため外に出したのよ」、イザベルは説明した。


 マーカスはうれしそうだった。

「前から楽器に興味あったんだ。楽器ってさ、いろいろな形をしてるし、いろいろな音が出るから面白いだろ? こんな機会、めったにないよ、せっかくだし一通り演奏してみないとね」


「それ演奏したいってわけじゃないわよね、ただ音を出したいだけなのよね?」、イザベルは呆れたように言った。


「それは僕が下手だってことを言いたいんだよね? 楽器によってはちゃんとうまく演奏できるんだよ」

 マーカスは転がっていたギターを手に取って弾きはじめた。


「とっても上手よ」、眞奈は褒めた。


「この二つのコードしかできないのよ。ギターといえば永遠にこの二つの繰り返しなの。ずっと聞かされるから頭おかしくなっちゃう」

イザベルは眞奈に肩をすくめてみせた。


「もうやめてよ。それにここにいると寒いし。早く教室に行きましょうよ」


「まだ時間あるよ」


「でも、ノートをもう一回読んで予習したいの……」


「授業前は授業以外のことをするのが筋だよ」


「じゃ、もう楽器の音は出さないで」


 マーカスとイザベルがいかにも仲よさそうに押し問答しているのを見ると、眞奈は反射的に口角を上げ、むりやり笑みをつくった。イギリス式笑顔はこんなときにも役に立つのだ!


「あなたたち、まだここにいるんでしょ。私、教室に行くね」、眞奈は似非スマイルを浮かべながら言った。


 ともかく早くマーカスとイザベルのいないどこかへ逃れたかった。

 もう礼儀だのなんだのかまっていられない。唐突に、「じゃあね」と言うと早足に二人の前を去った。


 小道を曲がり二人が見えないところまで来ると、眞奈はほっと息をついた。

 二人は幼なじみで学校も寮も一緒。それにウェントワースとボウモント。

 マーカスとイザベルはジュリアが生きていたような大昔の時代から、ウィストウハウスの歴史がめぐり合わせた『運命の二人』なんだ。お互い好きになって当然だ。

 この間の屋根の上でのできごと……。あんなことでマーカスが少しは私のことを思ってくれるだろうって考えたなんてバカだった。

 眞奈は心が傷つけられ耐えられないくらい痛むのを感じた。


 もうなんにも感じなければいいのに。心にプロテクターがあって感情から守ってくれればいいのに……。

 マーカスとイザベルのことも、ママたちに『友達がいない子』だと言われたことも、そしてそれが事実だということも。


 もう全部どこかへ行っちゃえばいいのに。全部消えちゃえばいいのに! 

 それとも消えちゃえばいいのは自分の方なのかもしれない。

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