37 陰謀

 二人の婚約発表の後、人々が次々ジュリアとアンドリューにおめでとうを言いにきた。

 やっとその人混みが切れると、眞奈も「おめでとう!」、とジュリアに言った。

 眞奈は、ジュリアの希望どおり、もちろん眞奈の心からの気持ちでもあるのだが、ぎゅっとジュリアを抱きしめた。

「幸せになってね、絶対だよ」

「ええ、もちろんよ」、ジュリアは微笑んだ。


 眞奈はその笑顔を見て、マーカスと一緒に見た肖像画のジュリアを思い出した。

 春のような微笑み。そして部屋の片隅にひっそりとあった小さな額縁と絵。何か悲劇を感じさせる絵……。

 幸せになってね、絶対だよ、眞奈は心の中で繰り返した。


 ジュリアはアンドリューに眞奈と踊るように言った。眞奈は赤くなって遠慮したが、ジュリアは許さなかった。

「さっき、あんなに練習したじゃない、きっと楽しいわよ、踊るべきよ!」

 しかたなく、眞奈はアンドリューと一曲踊ることになった。

 それでも、アンドリューがかなり上手だったこともあり、眞奈もなんとかステップを合わせることができた。


 アンドリューと二人きり。よく考えたらこれはチャンスだ。

 眞奈は踊りながら、アンドリューに警告することにした。

「あの、ミスター・バートラム」

「どうぞ、アンドリューと呼んでください」

「えーと、アンドリュー……、ジュリアのこと愛していますか?」

「もちろんですよ」

「あの……、気をつけてください、ジュリアのこと護ってください」

「え?」

「あの二人のこと。レディ・エマとサー・リチャード・ウェントワースです。ジュリアの財産を狙っていると思うんです。ジュリアが、こ、殺されちゃうかもしれません……」

『殺される』と口にするには少しばかりためらったが、アンドリューには真実を伝えないといけない。オブラートにつつんでいる場合ではなかった。

「どういうことですか?」

 アンドリューはいきなり中国娘から、そんなことを言われてびっくりしているようだった。


 眞奈がなんと言ったらいいか惑いながらも説明しだすと、アンドリューは「いや、大丈夫ですよ」と眞奈を制した。

「内容自体に驚いたわけじゃありません。エマ・ウェントワースの噂を考えれば当然考えられることですしね。ただ、あなたから言われたので驚いただけなんです。あなたの言いたいことはよくわかります。十分気をつけます」、アンドリューは言った。「でも、あなたはいったい何者なんですか?」

 眞奈はそれには答えなかった。

「ああ、アンドリュー、あなたが状況を理解してくださって、本当によかったです。あなたしか頼る人がいないの。私はいつもここに来られるとは限らないし、他に誰も打ち明けられる人がいないんです」

 幸い、アンドリューにそれ以上質問されずに済みそうだった。エマとリチャードが広間を退出するのが見えたのだ。

「私、レディ・エマとサー・リチャードのあとをつけなきゃ。ごめんなさい、ダンスの途中で。ジュリアには気分が悪いのでバスルームに行くって言ってください」

 眞奈はアンドリューからそっと離れると、レディ・エマとサー・リチャードを追った。

 アンドリューは眞奈を追いかけようとしたが、ジュリアにつかまってしまいタイミングを失った。

「どうしたの、突然ダンスを中断したりして」

「いや、僕にもよくわからないんだ」、アンドリューは妙に考え込んでいた。



 お手洗いを探すふりをして、エマとリチャードをこっそり追っていた眞奈は、二人が二階の小さな部屋に入るのを目撃した。

 ドアまで行き耳を押しあてたが、小声で話しているのだろう。分厚いオーク材のドアは二人の声を完全に遮断していた。

 これじゃ何も聞こえないわ。隣の部屋から窓越しに聞けたらいいんだけど。


 眞奈は隣の部屋のドアノブをまわすと、運のいいことにカギがかかっていなかった。

 そのまま部屋に入り、月明かりが差し込んでいる窓を開けた。ヒールの靴を脱ぎ捨てドレスを思いっきりたくし上げる。そして窓によじ登ると危なっかしげに窓枠をつたって二人がいる部屋の窓の下に隠れた。


 こっそり部屋の様子をうかがったところ、レディ・エマとサー・リチャード・ウェントワース、あともう一人男性の後ろ姿が見えた。その男性がおそらくヴィッテッリ侯爵と呼ばれる人物だろう。

 でもやっぱり声は聞こえない。

 この窓が開かないかな。でも下手に開けてバレるとまずいし……。

 眞奈がためらっていると、横の方で、「マナ様!」とささやく声がした。

 眞奈は驚きで心臓が止まるかと思った。窓枠から落ちなかったのは幸いだった。

 恐る恐る声の方向に顔を向けると、ジュリアのメイドのグラディスが、さっき眞奈が出てきた部屋の窓から不安そうにこちらを見ていた。

「グ、グラディス」

 グラディスは眞奈を安心させるように言った。

「大丈夫、私は味方です。上の部屋にいたとき、マナ様が窓の外に隠れている様子が見えたのです。エマ様たちの話を聞きたいんですよね? 私もマナ様と同じことを考えているんです。私が協力します」

「で、でも……」

 グラディスは味方って言っているけど信じていいのだろうか。しかし、見つかってしまった以上、グラディスが味方でも敵でも、とりあえず部屋に戻るしかない。


 眞奈はさっきの部屋に逆戻りすると、グラディスが三人分のお茶を持っているのが目に入った。

 きっとエマとリチャードと来客の侯爵の分だろう。

「私がエマ様たちの部屋にお茶を届けるとき、ドアを少し開けたままにします。そしたら何か聞こえるかもしれません。一緒について来てください」

 グラディスは眞奈を連れてエマたちがいる部屋の前に行った。そして眞奈にそこで待っているように目で合図した。

 グラディスはドアをノックした。

「お茶をお持ちしました」

 ドアをそっと開けると、ドアをわずかに開けたまま部屋の中に入った。


 扉の隙間からリチャードとエマの声が聞こえてきた。

「いつかは強引にことを進めると思っていたが、想定外に早かったな。結婚式はいつになるのだろうか」

「計画を前倒しして早めましょう」

 グラディスが入ってきたのに気がついたのだろう、二人はそこで黙った。

 眞奈が耳をそばだてていると、グラディスが陶器のティーセットでお茶を準備している音が聞こえた。

 しばらくしてグラディスが出てきた。

 彼女はわざとドアを細く開けてそのままにし、眞奈の隣に来て一緒に聞き耳をたてた


 エマたちはグラディスが出て行ったことで安心したのか、話し声が大きくなった。

「でもヴィッテッリ侯爵のご意見もあるだろう」

「何、私はかまわないよ」と、ヴィッテッリ侯爵と呼ばれた人物が低い声で返事をした。「ただ、いったんイタリアに戻らねばならぬので、またイギリスに来るのは早くても五月の後半になってしまう」

「じゃあ、それまで理由をつくってジュリアを閉じ込めましょう」と、エマ。

「まだ婚約だけなんだから、そんなすぐに結婚はしないだろう。閉じ込めなくても大丈夫じゃないか」、サー・リチャードは言った。

「でもアンドリューは結婚を急いでいるわ。アンドリューはあなたみたいにバカでないし、グズでもないわ。駆け落ちしかねない状況なのよ!」

「そうはいっても……」

「ジュリアをすぐ監禁するのよ、私にまかせて。それで五月に侯爵が来たらしまつしてもらいましょう」、エマの声が残酷に響いた。

 眞奈とグラディスはぞっとする恐怖で顔を見合わせた。

「し、しまつって……」

 ジュリアが殺されるという歴史を知っている眞奈でさえ、改めてエマの口からそのことを聞くと恐怖に圧倒され頭が真っ白になった。ましてや初めてエマたちの陰謀を聞いたグラディスは激しい衝撃で震えていた。また咳の発作が出てきた。

「誰かいるの?」、エマの鋭い声が聞こえてきた。

 グラディスは咳をなんとか抑えながら、「グラディスでございます」とエマの部屋の中に向かって答えた。

 そして眞奈にささやいた。

「マナ様、早く逃げてください。エマ様がまさかここまで悪人だとは思わなかったのです。マナ様、あなたを巻き込んでしまったことは間違っていました。早く逃げて。カメリアハウスを左に見ながらずっと行けば『向こうの世界』に行けます。前にもそうしたこと、覚えていますよね?」

 眞奈は泣きそうだった。

「あなたは向こうの世界を知っているのね。私は逃げられるかもだけど、でも、あなたとジュリアは?」

「私たちは大丈夫です。さぁ早く! マナ様の服はバッグに入れてこの廊下のつきあたりに置いてあります」

 指さされた方を見るとイザベルのキャリーバッグが置いてあり、横には眞奈の靴がそろえてあった

「まずは元の靴に履き替えてください」

 それは的確な忠告であった。裸足で窓をよじ登ったりしたので眞奈の足の裏は傷だらけだった。これでは逃げられないだろう。

「グラディス、あなたは本当にメイドなの? なんで向こうの世界を知ってるの?」

 眞奈は声を震わしながら聞いたが、グラディスが返事をしようとするのをエマの声がさえぎった。

「グラディス、他に誰かいるんでしょ。あの中国娘じゃないの?」

 眞奈はドキッとした。やっぱりあやしまれていたのか。

「いいえ、誰もいません」、グラディスはきっぱりと言った。そして眞奈の方を向くと、いたずらっぽくスプーンを振って見せた。

「エマ様、申し訳ありません。ティースプーンのデザインを間違えたものを運んでしまって取り替えさせていただきたかったのです」

 なるほど、こんなこともあろうかとわざとティースプーンを間違えたのね、眞奈はグラディスの機転に感心した。

 グラディスはエマたちの部屋に入る直前振り返って眞奈を見た。その目は眞奈に早く逃げるように訴えていた。

 眞奈はグラディスは賢いからうまく切り抜けるだろうと感じた。それに自分があやしまれている以上、ここにいても役に立たないしかえって危険だ。グラディスに迷惑をかけてしまうと思った。

 ともかくアンドリューにはちゃんと警告できた。あとは彼に託すしかない。

「グラディス」、眞奈はグラディスにささやいた。

「アンドリューにジュリアが殺されるかもしれないって伝えたの。きっと助けてくれるはずよ。彼を頼って。彼に助けてもらって」

 グラディスは黙ってうなずいた。


 眞奈はジュリアとグラディスを過去の世界に残して行かなければならない罪悪感で胸が苦しかった。でも他にどうすることができよう。

 あのときと同じようにカメリアハウスを左に見ながら、階段通路を下りて……。

 強い恐怖とショックで足がもつれた。足の裏が傷だらけで痛かったし、ドレスの裾が足の動きを邪魔をした。

 それでもなんとか速足で、そして小走りに、最後は全速力で走っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る