第8章 陰謀
32 スノーウィのお風呂入れ
イースター休み明けから、眞奈の日常は急速に充実してきた。
レイチェルやクレアとはまるで何年も前から友達だったように、お互いしっくりくると感じていた。さらに、レイチェルたちと寮が同室のイザベル、イザベルの親友のマーカスやフレディも頻繁に仲良しグループに加わることになった。
とりわけマーカスと友達として話せるというシチュエーションは、眞奈にとってまるで奇跡が起こったかのようだった。
マーカスと一緒にミセス・ハドソンのところに行くのはあと三日後に迫っていた。
もっとも彼女のリウマチが悪くならなかったら、という条件つきの訪問予定であることは忘れてなかった。ミセス・ハドソンは眞奈に絶対会いたくないのだから、ドタキャンも十分ありえた。
マーカスとどこかに一緒に行くことも、それがミセス・ハドソンの家であることも、考え出すと緊張で胸が痛くなる。
しかし、せっかくみんなと仲良くなりかけている今、眞奈がマーカスを好きなことは、マーカスとイザベルに絶対知られてはいけない最重要の機密事項であった。そんなことがバレて二人と気まずくなることだけは避けなければ!
眞奈が自分の気持ちをおし隠して、どんなに心中穏やかでなかったとしても表面的には彼らと普通に接していた。
だが、それさえも含めて、今や眞奈にとって学校生活はけっこう楽しいといえた。
時はあっという間に過ぎていった。
日常のなんでもない日々が勢いつけて後ろに飛び去っていく。
国道でスピード出しているスクールバスの窓から飛び去る景色みたい。一瞬後には強制的に記憶から消えている。
そうだ、そしてジュリアのことも忘れていくのだろう、眞奈は思った。
だって、私、今週、何度ジュリアのことを思い出した? 前は毎日いつもジュリアに会いたいって考えていたのに。
時折、ふっとジュリアのことが思い出されるときがあった。風がウィストウハウスの窓ガラスをたたく音を聞いたとき、古い階段を降りていて足元で床がミシッと鳴ったとき。そんな瞬間、眞奈は自己嫌悪に陥った。
ああ、ジュリアが殺されていなければいいのに。幸せになってくれていたらいいのに。私ったらジュリアのことを忘れていたなんて、なんて薄情なんだろう……。
眞奈は突然に気配を感じ、ジュリアが自分のそばに立っていると感じた。
「ジュリア?」
慌てて目をこらすとイザベルだった。イザベルのやわらかな笑みがこぼれている。
今、眞奈がいる場所は教室で、これから化学の授業が始まろうとしているところだった。
ジュリアなわけないじゃない。こんなところに『過去への抜け道』が現れるはずないでしょ! 眞奈は自分を戒めた。
眞奈がジュリアのことを考え心あらずだった間に、イザベルはすでに何かを話していた。
「……だといいの。だからマナだったらうまくできるんじゃないかな、と思って……」
イザベルのすみれ色のひとみから頼み込むような視線が送られていたので、眞奈はなんだかよくわからないまま、とりあえずうなずいた。
「そう、良かったわ、OKしてくれてありがとう。じゃ、今日の放課後、女子寮の寮母さんの部屋に来て。カギをさっき借りたから、私は先に行って待っているわ。ドアをノックしてくれれば開けるわね」、イザベルはうれしそうにマーカスとフレディのいる席に戻って行った。
「私、イザベルに何をOKしたのかな? 今。なんか気が散って聞いてなくって」
クレアが呆れながら、「スノーウィをお風呂に入れることよ。スノーウィはすごいお風呂嫌いでいつも暴れまくるんだけど、マナならうまくやれるだろうって」と教えてくれた。
学校帰り、眞奈はイザベルとの約束どおり女子寮に行った。
寮はウィストウハウスのお屋敷時代のものではなく、学校への改築時にゼロから新しく建てられた近代的な建物だった。三階建の屋舎が十棟ほど規則正しく敷地に並んでいる。
窓などを見ると縦長の上げ下げ式なのでそのあたりは欧米っぽいが、全体のイメージとしては日本のアパートのように無機質な感じで、いつも年代物の英国建築を見慣れている眞奈の目には逆に新鮮にうつった。
寮母の部屋で、イザベルが黒猫スノーウィをしっかり抱きかかえ眞奈を待っていた。
眞奈はイザベルと二人きりでちゃんと話すのは初めてだったので緊張していた。しかし、猫というのは不思議なもので、猫のいる風景の中では『猫とその他』なため、二人とも『その他』としてなんとなく親近感を抱いていた。
「私でお役に立てるといいんだけど……」
「スノーウィはマナを気に入っているから大丈夫。彼が誰かを気に入るなんてめったにないことなの」、イザベルは言った。
「たまにマーカスがお風呂に入れるんだけど、スノーウィが暴れまくるもんだから周りが水浸しになるはマーカスが傷だらけになるはでいつも大騒ぎなっちゃうのよ」
「そうなの、いつも大変だね」
眞奈はマーカスの話が出てくると、それ以上なんて会話していいのかわからず、なんとなく黙り込んだ。
二人の会話が途切れ、イザベルはスノーウィを洗面台まで連れて行った。スノーウィは蛇口からお湯が出はじめるとイザベルの腕の中で本格的にミャーミャー暴れ出した。「スノーウィ、怖くないのよ」、イザベルは言い聞かせた。
恨みがましい表情でこちらを見ている黒猫に、今度は眞奈が話しかけた。
「お風呂、けっこういいものなんだよ。温かくて癒されるの。お風呂を嫌いなんて猫人生、損してるよ」
スノーウィは疑うような目で眞奈を見た。
「あ、聞いているみたい。なんか交渉の余地ありって感じじゃない? マナの方が扱いがうまいわ」、イザベルはそう言って、黒猫を眞奈に渡した。
眞奈の腕の中、スノーウィは黄色い目で眞奈をじっと見ていた。眞奈も彼の目をじっと見つめ返した。
驚いたことに、スノーウィはすっかりおとなしくなった。
眞奈はスノーウィをお湯がはられた洗面台の中にそっと入れた。イザベルがシャワーをかけて猫用シャンプーで洗っている間、黒猫はずっとされるがままだった。
「すごいわ! スノーウィを操っているみたい」、イザベルは感嘆した。
無事、お風呂が済み、タオルで拭いてドライヤーで乾かしてあげると、スノーウィはすっかりきれいになり、黒い毛並みはふわふわになった。
「ミャオ」とスノーウィは満足したように鳴いた。
眞奈が彼をぎゅっと抱きしめると、もう一度彼は「ミャオ」と鳴いた。眞奈も「ミャオ」と鳴いてみると、スノーウィも同じふうに「ミャオ」と返した。
イザベルは笑った。「いやだ、マナったら、スノーウィとしゃべっているみたい!」
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