第2章 亡霊の女の子
4 ウィル、学校をさぼる
数学の先生が「それでは今日はこれでおしまいにします」と言うやいなや、ウィルは「よしやっと昼休みだ! 行くぞ!」と、席を勢いよく立ち上がった。
「え、待ってよ」、まだホワイトボードの最後の部分をノートに取っていた眞奈は慌てた。
ウィルは、「早くしろよ! 腹へったしさ」と、もたもたしている眞奈をせかした。しかし携帯メールの着信をチェックすると、「お、きてる!」と言ってもう一度席に座り、なにやらメールの返事を打ちはじめた。
眞奈はほっとして、ゆっくり最後までノートを取った。
ノートやペンケースをカバンに入れてやっと準備ができ、眞奈が顔を上げると、教室の片隅でイザベルがマーカスと立ち話をしているのが目に入った。
「マーカス、この間貸してくれた本だけど、とっても面白かったわ」とイザベルが言い、「よかった。けっこうダークだからどうかなぁと思ったんだけど」、マーカスがそう応えるのが聞こえた。
眞奈がウィルと一緒にいるのと同じぐらい、マーカスもイザベルと一緒にいる。
マーカスとイザベルは遠縁に当たり、互いの親の仲がよかったので生まれた頃からいつも一緒だったらしい。まさに幼なじみというやつだ。
マーカスの親は仕事の関係でレバノンのベイルートにいるそうで、イザベルとともに幼児部からウィストウハウス・スクールの敷地内にある寮に入っていた。
ウィストウハウス・スクールの生徒は、マーカスとイザベルのように学校寮で暮らす生徒が三分の一ぐらい、残りは眞奈やウィルのように自宅から通う生徒だ。
寮生活はかなり厳格で大変らしかった。厳しくしつけられているせいか、クラスの優等生はほとんど寮生で占められており、マーカスとイザベルもその優等生の一人だった。
「私はこの物語をあんまりダークだとは思わないわ。深い意味でのハッピーエンドじゃないかしら」
イザベルの声は少し低くて感じよく響いた。
それに彼女の美しい横顔や印象的なすみれ色のひとみ、やわらかそうなブロンドの髪、すらりとしたスタイル。
眞奈はウィルから、イザベルはウィストウハウス・スクールのマドンナとして近隣の学校でも有名な女の子だと聞いたことがあるが、さもありなんという感じだ。
それでいてイザベルには気取ったところや威張ったところは全然なかった。
マーカスもそうだったが、イザベルもマーカスに劣らず地味で穏やかな人柄だった。
同じかわいい女の子でも、かわいさを自慢げにアピールする派手な子たちとは一線を画していて、より彼女の可憐さを際立たせていた。
眞奈はイザベルと自分とを比べ出すといつもみじめな気持ちになった。
ウィルと眞奈が連れ立って教室を出るとき、マーカスとイザベルが立ち話をしているそばを通り過ぎたが、眞奈はなるべくそっちを見ないようにした。
教室を出て大階段の踊り場まで来ると、ウィルが眞奈の顔をからかい半分にのぞき込んだ。
「マナ、次の授業、教室が変わったって知ってるか? 掲示板見たかよ?」
「え、知らない」
「やっぱりな。迷わず行けよ。俺、次の授業さぼるから」、ウィルはしれっと言った。
「へ?」、眞奈は思わず歩みを止めた。
「今、『授業をさぼる』って言った?」
「そうだよ」、ウィルは答えた。
眞奈は驚いた。ウィルが授業をさぼるなんて、そんなこと今まで一度もなかった。
「え? まじ?、なんで、どうして?」
ウィルはそれに答えず言った。「二〇八号室の行き方わかるか? 前に歴史のグループ発表したとこだけど」
「二〇八号室……」
そうだ、確かプロジェクターを使ってグループ発表した大きな教室だ。
眞奈の記憶はおぼろげだったが、ウィルの「どうせわかんないんだろう?」というからかい顔を見たら、反射的に「教室くらいちゃんと覚えてるよ」と、きっぱり言い切った。
ウィルは肩をすくめた。「そうか、そんならよかった。じゃ、あと頼む!」
「もう、授業をさぼる理由話してから行ってよ!」、眞奈はむっとした。
「さっきジェニーからメールがきたんだ、今日の午後、映画に行こうって」
「まぁ、それはお幸せなこと!」
眞奈はイギリス人の真似をして皮肉ったつもりだったのだが、ウィルには全然通じていない。
学校さぼるのが前提のデートなんていい気なものだ。
でもウィルはジェニーに会えるのがよっぽどうれしいのだろう、羽が生えて今にも飛んでいきそう。ウィルのあまりに単純で無邪気な様子がおかしくて、眞奈は思わず吹き出してしまった。
「OK。じゃあ、お幸せに!」、今度は皮肉ではない。
ま、皮肉にしろそうじゃないにしろ、どっちにしてもウィルには通じていないけど。
「じゃあな!」
変則スキップで去って行くウィルを見ながら、眞奈もウィルの真似をして肩をすくめた。
変なの。まぁ、でも最愛の友達が幸せだっていうのは私にとっても幸せなことだよね!
そう思うことにした眞奈だったが、ウィルの姿が大階段の下に見えなくなると、急に不安で心細くなってきた。ウィルがいなくて学校の授業に出るのは初めてだ。
二〇八号室。
眞奈は、「教室くらいちゃんと覚えてるよ」とウィルに言い放ったものの、記憶はさっぱりだった。
「さぁどっちに行ったもんかしら。もう最初からわからないんだけど……」
眞奈が大階段からどちらに行こうかと注意深く辺りを眺めていると、ちょうど後ろからマーカスとイザベルが来るのが見えた。
「どうしよう、マーカスたちだ」
二人が近づいてくるのを見て、眞奈は逃げ出したかったが体が動かなかった。
「ほら、やっぱりあの子、迷っているのよ、中国から一人で来ているのよ、かわいそう。助けてあげないと……」
イザベルがそうマーカスに言うのが聞こえた。
マーカスは眞奈になんと話しかけたらいいのかと少しためらった後、「ひょっとして迷ってる?」と声をかけた。
眞奈は赤くなったのを気づかれないようにうつむいた。情けなかったが、もっともらしい嘘も思い浮かばない。
「ええ、迷っているの。次の授業の二〇八号室がわからなくて……」、眞奈の声は恥ずかしさのあまり消え入りそうだった。
マーカスは微笑んだ。
「右に行って東階段を上って廊下の三つ目の角を左に曲がり、小さな階段を上がったつきあたりだよ」
たぶんマーカスはそんなふうなことを言っていたのだろうが、眞奈にはあまり理解できなかった。
早く逃げ出したくて、オウム返しに「ありがとう」と小声で言い、イギリス式に口角をきゅっと上げて微笑みをつくった。
この『イギリス式口角上げ微笑み』――と眞奈は勝手に呼んでいたが――は英国人には不思議とポジティブな効力がある。
日本人の眞奈からすると笑顔をつくろうと思ってつくるのはわざとらしくて気が引けるのだが、おそらく文化の違いであろう。
今の場合も明らかに下手なつくり笑いなのに、マーカスとイザベルは自分たちの助言が役に立ったと思い込み、二人は満足げに去って行った。
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