第二話 馴染む鬼嫁

1.夜襲?

 闇の中を浮遊している……。

 いや……落下しているのかもしれないし、上昇しているのかもしれない。自分の手足はハッキリと見えるのに、自分以外には何も無い世界を漂っている。


 不思議な感覚だ。

 何も無い……虚無とはこういう世界を指しているのだろうが、そのくせ何か大きな力に包み込まれているような……そんな気配を感じる。


 ――我ハ代価ヲ求ム……


 頭の中に何者かの声が響き渡った。男とも女とも取れる、しかし地の底から湧き上がるような声……。


「だ、誰だ!」


 と、声に出そうとするが、口をパクパクさせているだけで言葉が出てこない。まるで餌が投げ入れられるのを待っている池の鯉にでもなったかのようだ。


 ――代価ヲ求ム…… 


 両腕に煙のようなものが絡みついた。

 圧倒的な強い力で……しかし、それは柔らかい。その気になれば振り解くことも出来そうな気さえするのに、決してその力に抗えないという確信がある。


 ――否……汝ニ在ラズ……

 

  不意にフッと自分を押さえつけている力が失われた……かに思えた。いや、確かに一度は身体の自由が利くようにはなったのだ。


 しかし、それも一瞬のことで、突然、腰から胸の辺りにかけて何かに乗りかかられたかのような圧迫感に襲われた。


 ――フフフ…… 


 小悪魔のような笑い声がする。


 ***


 月人はハッと目を覚ました。全身に汗が滲んでいる。

 己の顔の前には……恐れ入らぬかと言わんばかりに不適な笑みを浮かべたスバルの顔があった。


「は……?」

「ん? 目を覚ましたか。だったら丁度良い」


 何が丁度良いのか、辺りはまだ暗く、室内には僅かに蒼白い月明かりが射し込んでいるだけである。

 スバルは何の用なのか。そもそも何で月人の布団に潜り込んでいるのか。


「なっ……?」


 すぐ鼻の先にあるスバルの顔から少しだけ視線を下に下ろし、月人は言葉を失った。


 スバルは初めて封印されていた漬け物樽から出現した時と同様、虎柄のパンツ一枚だけという姿で、頭から掛け布団をかぶったまま、月人の腰の辺りに跨がっているのだ。


「な、何……してんの……?」


 何とか出て来た掠れ声で、やっとやっと訊くとスバルは月人の口に人差し指を当て、


「昼間に話しただろ? ワァはナァの子を産むと……」


 つまりこれは……アレだ……。そういう事だ。


「子作りだ」


 上気した顔で薄く笑うと、スバルは月人にゆっくりと顔を近づける。


 このままでは……このままでは色々とマズイ。月人は抵抗を試みようとするが、自分の意思に反して体が動いてくれようとしない。不覚にも布団の中まで射し込んだ月明かりに照らされたスバルの裸体に釘付けになってしまっていて、逃れなければという理性の指令に対し、本能が言うことを聞こうとしないのだ。


「うんうん。ナァはそのままおとなしく……へぐっ!」


 ――カァン!


  高らかに金属音が鳴り響いたかと思うと、それと同時にスバルが潰れたカエルのような呻き声をあげた。

 途端、呪縛が解けたかのように体の自由が戻った月人は慌てて起き上がる。その拍子に、それまで月人の体に跨がっていたスバルはもんどり打って畳の上にひっくり返った。


「んおおおぉぉぉ! んにゅうううぅぅぅ!」


 畳の上に突っ伏した形で脳天を押さえながら悶えているスバルのすぐ側に立つ黒い影。もっとも、月を背にしているから黒く映っているわけだが、フライパンを手に憤怒の形相で仁王立ちするその姿は、本家である筈のスバル以上に鬼らしさがある。


「油断も隙もないわね……この色情鬼しきじようき


 弓月であった。 

 間一髪のところで弓月が乱入し、持ってきたフライパンで容赦なくスバルの脳天を殴り飛ばしたのである。


「こ、小姑……。ど、どうして……」


 恨めしげに弓月を見上げるスバル。どうして自分の夜這い気づいたのか不思議なのであろう。それは助けられた月人とて同様であった。


 弓月の寝室は月人の寝室からは随分と離れている。それに対して余っていた寝室があとひとつしか無かった事もあって、スバルの寝室としてあてがわれたのは月人の部屋の隣りであった。


「夜中で、しかも部屋が離れてれば気づかないとでも思った? お生憎様! そこのガラス戸に裸で廊下に出てくるあんたの姿がバッチリ映ってたのよ!」


 なるほど、確かに月人の部屋とスバルの部屋の入り口は同じ廊下に面しているが、庭へと出られるガラス戸のひとつにはそれぞれの部屋の出入り口が映り込んでいるし、その廊下を折れ曲がった先にある弓月の部屋からでも、廊下に出てさえいればガラス戸に映り込んだものは見えてしまうのだ。おまけにこの日はたまたま雨戸を閉め切っていなかったのも幸いした。


「だ、だとしてもナァにワァたち夫婦の邪魔立てする権利など……」


 そこまで言ってスバルは身震いして口をつぐむ。


「言いたいことはそれだけ?」


 弓月の表情が怖い。笑みを浮かべているのに……目の奥では笑っていない。月人でさえ恐怖を感じたほどだ。


 スバルは冷や汗を滲ませ、その場に正座して縮こまっている。


「まあ、今晩のところはこれで大目に見てあげる。また同じこと繰り返すようなら……フフフ……」

「ヒィィィ!」


 スバルは完全に怯えていた。こうなると、どっちが鬼だか分からなくなってくる。


 ビュンビュンと空を切り、フライパンを振り回しながら部屋へと戻って行く弓月を見送ると、途端にスバルが泣きついて来た。


「つ、月人ぉぉぉ! ナァの妹だろぉ! 何とかならんのかぁぁ!」


 目にいっぱい涙を浮かべているその姿は鬼族の王の孫娘という威厳も何もあったものじゃない。


「ああ……とりあえずオレも今回は見なかった事にするから……。今日は大人しく帰って寝なさい」


 とまあ、つい先ほどまで襲われかかっていた月人だが、元凶がこの状態である。子供をあやすように頭を撫でてやるしかなかった。

 そして思い出したかのようにひと言——


「あと、オレは夫婦になるって認めた覚えないからな」


 そう念押した。

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