鬼嫁は君臨するつもりらしい
夏炉冬扇
序章
昔日の悲劇
「ならぬ!」
御簾の向こうから厳しい否定の言葉が投げかけられた。
それは正殿の前で平伏する屈強な征夷大将軍を狼狽させるに十分過ぎるものであったろう。
「し、しかし……主上……」
征夷大将軍ことタムラマロはこの度、カンム帝の
しかし、意気揚々とミカドに報告に参上仕ったのも束の間、思いもよらぬミカドの返答に彼は愕然とした。
「そもそも……」
何か訴えかけようとするタムラマロの言葉を敢えて無視するかのように、
「蝦夷は人ならざるモノぞ」
侮蔑と嫌悪が誰にでも感じ取れるような口調で吐き捨てた。
今さら言われるまでもない。蝦夷が人ならざるモノである事は、自ら兵を率いて討伐に赴いたタムラマロ自身がその目で見てきているのだ。
蝦夷と呼ばれる者たちには一本ないし、二本の角が生え、それぞれ大小の個人差はあれど、人とは異質の牙が生えていた。
蝦夷……またの名を『鬼』と呼ぶ。
しかしながら、タムラマロは互いに刃を交わし、そして理解していた。
(彼らは鬼ではあるが、偉大な武人でもある)
特に鬼族の首領である
悪路王の率いる鬼の軍勢とタムラマロ率いる朝廷の軍勢は幾度となくぶつかり、一進一退の攻防が繰り返されたが、やがて物量で勝る朝廷の軍の前に形勢は甚だ不利であると見た悪路王はタムラマロの提案もあり、条件付きで降伏を決断したのである。
その条件とは、悪路王自ら捕虜となり朝廷に屈服する事で今後、蝦夷には危害を加えない……というものであった。
それだけではない。タムラマロは悪路王の命も保証する事を条件に、都へと連行したのである。
タムラマロが条件付きでの降伏を提案したのには、もちろん蝦夷と朝廷双方の被害を拡大させないためでもあったが、何より悪路王の潔さ、高潔さに惚れ込んでいたためでもあった。
しかし、主君たるカンム帝はその事に対して酷く冷淡であった。それがこれまでの経緯である。
「彼らは双方の民を思ってこそ、朝廷に頭を下げると約束をしたのです。どうか寛大な処置を……」
「くどい!」
御簾の向こうで表情さえ掴めないが、ミカドが怒りに打ち震えている事はタムラマロにもわかった。
「これは朕が下した決定である。如何な征夷大将軍である
(もはや、これまでか……)
タムラマロはガクリと肩を落とした。
ミカドがこの国の頂点である以上、その命には
「委細、承知仕りました。悪路王アテルイは明後日、
「うむ。また、蝦夷征伐は今後も継続せよ。鬼を根絶やしにせねば、いずれこの国に災いが降りかかろうてな」
「御意……」
思惑は儚くも崩れ去った。
悪路王の命を助けるどころか、鬼を全て討ち取らねばならない。
(これほど口惜しい事があろうか……)
――その後、鬼の首領は河内国で処刑された。
刑に処される前、タムラマロは己の無力さを彼に詫びたが、当の悪路王は、
「なぁに……ナァもワァの助命に尽力されたのであろう? 精一杯やってくれたのじゃ。ワァもナァの事を恨んではおらぬし、悔やむことはない」
粗末な土牢に入れられ、ぞんざいに扱われていたのだろう。彼はボロ布の如き姿になりながらも屈託無い笑みを浮かべていた。
「まこと……武人の鑑よ……」
それでも……タムラマロは、これからも蝦夷征伐が、鬼が根絶やしにされるまで継続される事は言えなかった。言えようはずもなかった。
「せめて……王たる其方の御霊が安らかであるよう、ワシが寺を建てて弔うと致そう」
悪路王の亡骸を前に、タムラマロはさめざめと涙を溢した。そして悪路王が最期に残した言葉……。
――生まれたばかりの孫娘の顔を拝みたかったものだ……。
その言葉に胸を痛めるのであった。
それから長い長い年月が流れ――
そのような事件があったことなど、今や日本史の教科書で僅か二、三行で語られる程度になっていた。
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