10.決意

 我慢を続けて来た。

 ずっとずっと我慢して、最後まで自分に嘘をついて我慢を貫き通そうとしていた。

 スバルのプライドがそうさせたのかもしれない。人間とは違う……鬼としての誇りを胸に、決して自分を曲げようとしない強い少女……。

 けれど、月人の言葉で彼女の内にあまりに抱え込み過ぎた思いは、とうとう限界を迎えて濁流となり溢れさせた。


「でも……でも……そうしなきゃ月人も弓月も……」


 スバルは顔をしわくちゃにして泣き崩れる。

 そんなスバルを月人はそっと抱き寄せた。


「だからって、おまえが犠牲になるなんて間違ってる」


 自分でも自分の言ってることが、どういう結果を招くか理解している。

 弓月は何としてでも救いたい。でも同時にスバルも犠牲にはしたくない。


(例え居場所を失っても構わない。恨まれる事になったって……)


 ようやく決心がついた。

 スバルの涙……。それは月人の迷いを晴らすのに十分であった。


 月人はスバルの体を離すと、ゆっくりと立ち上がる。


「初めから迷う必要なんてなかったんだ。バカみたいだな……オレ……」


 確かに村に住む人々の生活は大切だろう。けれど、命に代えられる物なんてないのだ。そう思うと月人は迷っていた自分を笑ってやりたくなった。


「すみません。やっぱりオレ……自分にとって大切な存在を犠牲にしてまで皆さんの利益の事まで考えられません。弓月も……スバルも……オレにとっては何より失いたくないものだから……」


 これに憤慨したのは言うまでもなく分家の者たち……特に例のおばさんだった。


「はぁっ⁉︎ あなた、正気なの⁉︎ 私たちの後ろ盾も無くなるのよ? この村にだって居られなくなるわ! これからずっと恨まれ続けて生きて行けるとでも思ってるのかしら?」


 まるで奴隷にでも言い放っているかのようだ。まあ、当然の反応だと思う。

 それでも——


「籠の中の鳥でいるより、ずっとマシですよ」


 少しだけ……ほんの少しだけ月人は怒っていた。

 分家のおばさんに対してというのもあるが、この結論に至るまでに散々時間をかけてしまった自分自身に対して……でもある。


「じ、冗談じゃないわ!」


 何が何でも月人による契約破棄を阻止したいのだろう。おばさんは掴みかかろうとする。

 その時——


「そうだ! 何も命を犠牲にすることはねぇ!」

「ああ! 人の命を売って得た安定なんて、誰が嬉しいもんかよ!」


 これまで俯いて黙っていた村人たちが次々に声をあげた。

 これにはさすがに最上分家の者たちもアワを食った形で騒然となる。


「あなたたち、何を言ってるの? 貴重な収入源を失うのよ! 最上家の後ろ盾を失って生活して行ける筈ないじゃない! それを捨てると言うの?」


 思いもよらぬ村人たちの反抗に派手なおばさんが顔を真っ赤にして声を荒らげる。

 だが、既に村人たちの心は彼女たちから離れていた。


「私たちの生活を決めるのは、あんたたちじゃないわ!」

「そうだそうだ! 大体、あんたたちが大事なのは自分たちの永久に尽きない財産だろ! 俺たちはそんな物のためにスバルちゃんたちを見捨てるような下衆に成り下がるつもりはねぇ!」

「保身のために命を売り物にする外道はここから出て行け!」


 そこからは皆一様に「出て行け」の一点張りであった。さすがに分家の者たちも村人全員から罵声を浴びせられてたじろいでいる。


 月人にとってはこれ以上ない後押しだった。

 嵐のような帰れコールの中、以前、月人とスバルに子守りを頼んだ夫妻が月人に目配せする。

 月人は頷いた。


「タマバミサマ! 最上家現当主、最上月人がタマバミサマに申し上げる!」


 凜とした月人の声が届いたのだろう。タマバミサマはその黒い影のような巨体をのそりとこちらに向けた。

 大きなケモノのような影ではあるが、頭はあっても目や口といったものは見られない。ケモノの形をした大きな塊と言ってよい姿であった。


『聞こう……人の子よ……』


 男とも女ともつかない声が頭の中に直接語りかけて来る。それはいつかの悪夢で聞いた声よりも鮮明であった。


「我々最上一族はタマバミサマとの約定を破棄する! だから妹を返してもらいたい!」

『ほう……? その方、それが何を意味するか理解しておるのか?』


 タマバミサマは巨体をユラユラと揺すっている。その動きが、どこか嘲笑しているようにも見えた。

 もっとも、祟り神にとってみれば人など脆弱な小虫のようにしか映らないだろう。嘲笑され、威圧されようとも今の月人にしてみれば今さらな事である。


「わかってる。それでも大切な家族の命には代えられない」


 タマバミサマは少し考えるように頭を上げ天を仰ぐ。

 反応を見る限り、弓月はまだ無事であるようで月人は内心、ホッとした。

 これでもし手遅れだったなんて事になったら、いくら後悔してもし足りない。

 やがてタマバミサマは月人に向き直ると、


「よかろう……」


 意外なほどあっさりと答えた。

 もっとも、向き直ったように見えただけで、実際にどちらに顔を向けているのかも分からないような姿なのだが……。

 だが、これを聞いて村人たちの間でも「おお……!」という歓声があがる。


「あ、あなた! 今に後悔するわよ!」


 派手なおばさんが月人を指差していきり立っていたが、


「もう良い」


 それをヨシ爺さんが制した。


「長かったぞ……。ようやく分家の者どもに異を唱えられる気骨のある者が宗家にも現れてくれたか……」


 ヨシ爺さんは少しだけ顔をほころばせていた。ずっと無愛想で敵意のような目しか向けて来なかった彼の初めて見る笑顔だ。

 それは安堵しているようでもあり、疲れ果てているようでもあった。


「これまで最上宗家を継いで来た者たちは皆、弱腰で分家の者どもに逆らう事もできずにいた。いつか終わらせなければならないと知りつつ、誰もそれを止める事ができなかったのだ。正直、ワシもうんざりしていたところだった。そしてここへ来て、否が応でも最上一族が決断しなければならない時が来た」


 つまり、スバルの封印が解けて、いよいよタマバミサマとの約定が本来の形である「最上の血を引く者の魂を喰らう」という事態に陥り、約定を破棄するか、身内を生贄に捧げて延命するかという決断を下さなければならなくなったという事である。

 ヨシ爺さんは本心ではこのような事、さっさと終わりにしたかったのであろう。

 しかし、その決定権は最上家の当主にしかない。

 それ故に彼は長い長い時を過ごし、終わりにしてくれる当主の出現を待ち続けたのであった。


「無論、ワシから月人を説得する事もできたかもしれん。だが、言われるままに流されてしまうような者が、これから先、尽きる事のなかった財産を失って生きて行けるとは思えなんだ。それ故にワシは現当主である月人自身に考えさせ、決定を委ねたのだ。試すような真似をして済まなかったとは思う……が、これが既に亡き我が主への最後の奉公と思っておる」

「ヨシ爺さん……」


 ヨシ爺さんの目は既に月人を向いてはいなかった。遠い目をして遙か山向こうの空を見つめている。

 きっと、かつての主人である最上永主の事を思い出しているのだろう。

 どうしようもない悪徳な男ではあったが、彼にとって主人は主人だったのだ。

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