9.迫られる選択
空が白んで来ていた。時計を見れば、午前五時近くになっている。
あれから月人は一睡もできなかった。
当然と言えば当然かもしれない。
スバルには「少し休もう」と言われたが、あまりにも重い選択を迫られているのだ。一時でもその事を忘れて眠る事など出来るほど月人の神経は図太く出来てはいない。
ならば決心はついたのかというと、いまだ決めかねている。悩めば悩むほど余計に迷うばかりであった。
騒ぎが起こったのは、山間から徐々に日が昇り始めた頃である。
月人たちの暮らす屋敷から通りはやや離れているのだが、何か通りの方で騒いでいる人達の声が月人のいる居間にも微かに聞こえてきた。
(こんな早朝から何だ?)
様子を見ようと廊下に出た時である。
「月人! 早く来い!」
スバルが玄関のある方から血相を変えて走って来た。その様子から尋常ならざる事が起こったのは明らかである。
同時に玄関の方で、
「最上さん! 最上さん!」
と、悲鳴に近い声で呼ぶ女性があった。
見れば診療所の看護師である。
彼女はあれからずっと弓月の看護を続けていたのだろう。ナース服にカーディガンを羽織っただけの格好でここまで走って来たのか、苦しそうに息を切らせている。
「い、妹さんが……妹さんが黒い影のようなものに連れ去れて……」
それを聞いて月人は背筋が凍りついた。
いよいよタマバミサマが弓月を喰らいにかかったのだ。そのためにわざわざ身体ごと己のもとに引き寄せたのだろう。
「場所は……弓月はどこへ連れて行かれたんですか?」
「御神体のある商店街の方へ……」
今はタマバミ祭りで御神体はタマバミサマのお社ではなく、商店街の入り口辺りに一時的に置かれているのだった。
ならば今から走っても間に合うかもしれない。
「月人! もたもたするな! 行くぞ!」
「あ、ああ……」
スバルに引っ張られるようにして月人は屋敷を出た。
そして全力で疾走する。今までこれほど速く走った事はなかったかもしれない。
ただ一心不乱に、周囲の景色など見えないほど、ただ前に続く一本の道だけを見て走り続けた。
やがて商店街に入った。
既にそこには多くの人集りができている。殆どは集落の者たちなのだが、中には見覚えのない顔もある。
「誰だ? あいつら……」
スバルもその見覚えのない者たちの姿を不審に思ったらしい。足を止めると小声で言った。
「多分……最上分家の人たちだよ……」
それとなく分家の者たちが来ているという事は聞いていた。だが、その数は月人が思っていたよりも遙かに多い。
二十人はいるだろう。下は二十代前半くらいの者もいれば、上はヨシ爺さんと見た目にも大して変わらない年齢の者もいる。
そもそも月人とて正確にどれだけの身内がいたのか見当もついていなかった。
あらためて考えてみれば、これだけの人数のうち知っている人物はヨシ爺さんだけだというのも妙な心地である。
その人集りの向こう……タマバミサマの御神体が入った厨子の置かれている辺りに巨大な黒い影が猫のように背中を丸めた姿で座っている。
その全容はまるでイタチかキツネか……いずれにせよヨシ爺さんの昔語りにあったようにケモノの形をしている。
しかし、全身が黒い影であるため、それが何であるのかはハッキリとしない。
ひとつだけ言える事は、その黒い禍々しい容姿が祟り神と呼ばれるに相応しいものだということ。遠目に見ていても近寄りがたい恐怖心を与える。
「あら。やっと来たようね」
一人の女性が月人とスバルの姿に気づき、何か含みのありそうな笑みを浮かべて近づいて来た。
年齢は四十代前半といったところか。ヤケにフレームの厚いブランド物の眼鏡をかけ、こんな山奥の集落には似つかわしくない真っ赤で派手なイブニングドレスという出で立ち。
この女性も分家の人間だと直ぐにわかった。
「喜房さんから話は聞いてるんでしょう?」
「はい……」
分家の者たちの中にヨシ爺さんの姿もあった。
彼はただひと言も発する事なく、鋭い目でジッと月人と派手なおばさんのやり取りを見つめている。
「それで? 妹さんの最期を看取りに来たのかしら?」
「え……?」
月人は耳を疑った。
冷酷無情にも程がある。あまり感じの良い女性には見えなかったが、まさか彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思いも寄らなかった。
「あら? 意外そうね。でも、当然でしょう? 私たちやこの集落の住人たちの生活が懸かってるんだもの。たった一人の犠牲で済むんなら、そんなの選択の余地もないでしょう?」
「ちょっと待て!」
たまらず声を張り上げたのは月人……ではなくスバルであった。
額に血管を浮かび上がらせ今にも掴みかかりそうな勢いで怒りを露わにしている。
「一人だろうと二人だろうと命なんだぞ! ましてやあいつはナァたちの身内だろ! 何とも思わないのか!」
「供物風情が何を言うかと思えば……」
派手なおばさんは冷ややかに目を細めてスバルを見下ろす。まるで奴隷にでも向けられているような目……いや、それ以下に見ているのかもしれない。
虫けらかゴミでも見るかのような目だ。
「身内だからこそ敢えて犠牲に出来るのでしょう? あの娘の命を捧げれば少なくとも五十年は安泰ですもの。そもそも、どこかの供物がノコノコ這い出て来なければ、こんな犠牲を払う必要だってなかったのよ?」
聞くに堪えない罵詈雑言だ。
しかし、村人たちは沈痛な面持ちで黙ったままである。
月人でさえ未だ決心がつかず、言い返す事が出来ないでいた。
それでも……そんな中でも、これまで一番の苦痛を味わって来た被害者である筈のスバルただ一人だけが違った。
「やっぱり所詮、ニンゲンはニンゲンか。百年経とうが千年経とうが変わらないらしいな」
ギュッと拳を握りしめ、肩を震わせている。
憎悪し、激しく憤り、赤みがかった褐色の髪はヤマアラシのように逆立っていた。
「知っていながら己らで何とかしようともせず問題を先送りにし続け、いざとなればその責任を他者に押し付け、それを恥とも思わない醜悪なケダモノ。それがナァたちニンゲンの本質だ! 実に救い難いな」
スバルの言葉に派手なおばさんのみならず、分家の者たちは皆一様に苦虫を噛み潰したような顔でスバルを睨みつけている。
それでも月人は俯いたまま何も言えずにいた。
そんな月人にスバルは向き直ると歩み寄る。
その怒りを今度は自分にもぶつけられる……と月人は思っていた。が、そんな月人の思いとは裏腹に彼女は月人の手を取ると穏やかに語りかける。
「月人……。ナァは優しすぎるんだ。だから本当は弓月を助けたいのに『そうしたい』っと言えないんだって事はワァでもわかる。でもな……ワァはそんな月人が好きだぞ? まさかニンゲン風情にワァがこんな気持ちになるなんて思いもしなかった」
突然、何を言い出すのか?
月人には、この期に及んでスバルの言わんとしている事がよく理解できなかった。
それでもスバルは優しく微笑して続ける。
「前に……力を失った今のワァにもひとつだけ使う事のできる妖術があるって言ったと思う」
「え? あ、ああ……」
そう言われてみれば、出会ったその日に彼女が「たったひとつだけ使える妖術がある」と言ってた事を思い出した。
しかし、同時に「役に立たないから」とも言っていた。
結局は「役に立たない」という理由で彼女がそれを使う事は一度もなかったし、月人たちもその時ばかりの事で気にも留めず、すっかり忘れていた。
思えばどんな妖術なのかすら聞かされていない。
「『現し身合わせ』という妖術でな……。ワァの魂を弓月の魂と一体化させる……というか、ワァの魂で弓月の魂を包み込むと言った方が正しいかな? こうすれば先にワァの魂を喰わせる事で、少なくともワァの寿命分は弓月も生きられる事になるんだ。この『現し身合わせ』を使って弓月を助けてやる」
「ち、ちょっと待てよ! そ、それってつまり……」
ワナワナと震える月人の手をスバルは固く握り……そして声をあげて笑った。
「そりゃあ、ワァは死ぬ事になるだろうなぁ。でも、月人……考えてもみろ。本来ならワァはとっくにこの世には存在しない筈なんだぞ? 何せ千年以上前に生まれたんだからな。いくらワァがもともと強大な力を持った鬼だったとしても、千年も生きられるもんじゃない」
「だ、だからって……!」
止めようとする月人の口もとに人差し指をあて、スバルはかぶりを振る。
笑顔で繕ってはいるが、どこか諦め切ってしまったかのような力のない笑みであった。
「確かにナァと一緒にいた時間は短かったけど……でも、楽しかったぞ? それでもな……もうこの時代に……仲間のいないこの時代にワァの居場所なんて無いんだ。正直、ワァもこんな知らない時代にいつまでも居るのはたくさんなんだ……」
そう言うとスバルは
スバルが離れて行く。
いつの間にか自分たちの家に居座り、いつしか居ることが当たり前のようになっていたスバルが自らの命を捨てて、自分たちの前から消えようとしている。
(このまま……このままそれを受け入れてしまって良いのか? いや、受け入れられるのか?)
月人はスバルの背を見つめながら己に問いかける。
(いや、違う……。こんなの違う! 確かにスバルはこの時代の人間じゃないし、仲間の鬼だっていないかもしれない。でも、こんな結末は違う!)
次の瞬間にはスバルの手首を掴んでいた。遮二無二……目一杯……振り解こうとしても絶対に離されないほどの力で……。
「嘘言うなよ! おまえはそんな事、本当に望んじゃいないだろ! じゃなきゃ……」
背を向けていたスバルを強引に引き寄せ、こちらを振り向かせた。
「じゃなきゃ、そんな顔してる筈ないだろ!」
「月人……」
振り向いたスバルの目からは止めどなく大粒の涙がこぼれ落ちていた。
本当は消えたくなんてないのだ。どんなに人間を見下していても、自分以外の鬼が一人もいなくても……この時代の今ある生を精一杯生きたい……。
彼女の瞳はそう言っていた。
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