第5話 僕は前田の彼氏です

 ひとしきり、さめざめと、僕は泣き腫らした。

 そんな僕が落ち着くのを待ってから、前田のお母さんは僕に詰め寄ってきた。

 そして、優しく僕の手を取った。


 温かい、人の手の温もりに思わず、少しだけ心が救われた気がした。

 けれどもその温もりは、きっと、もっと、感じるのがふさわしい相手がいる。


 そんな風に感じた。


 何にしても、前田のお母さんは、僕のことを娘と同じ真剣な眼で見てくれた。

 年老いてなお、爛々と光を湛えて輝くその瞳。

 それに似たモノを、僕はよく知っている。


 きっと前田は、こんな母を間近に見て育ったから、あんな風に真っすぐに育つことができたのだろう。


「恵理のことについてだけれど」


「……はい」


「私たち家族は。こうなることを、今回の手術に挑んだわ」


「……でしょうね」


「立命館高校じゃなくて、桂高校を受けさせたのもそう。もちろん、他の高校でもよかったけれど、恵理は桂高校がいいって言ったわ」


「……前田の好きな、綾辻行人の母校だから」


「詳しいことは知らない。けど、失われる一年を過ごす場所として、彼女はそこを選んだの。失ってもいい一年として、彼女はそこを選んだの」


 残酷な話をさせてもらっていいかしら。


 こんな所まで一緒だ。

 前田のお母さんは、娘と同じで、どこから出てくるのか分からない、妙な凄みを感じさせる表情で、僕を見つめる。そして、その残酷な言葉を続けた。


「私たちは、恵理を立命館高校に転入させようと思っています」


「……そういうこと、ですか」


「恵理は、この失われるかもしれない一年から、友人たちを守るために桂高校に入学しました。そして、それが当初の目論見のとおり、失われてしまった今――」


 彼女が桂高校に通う意味はない。


 なんてはっきりとモノを言う人なんだろう。

 流石は、前田のお母さんだな、と、ちょっとばかり感心してしまう僕が居た。


 実際、その通りだと思う。


 前に桂川イオンのフードコートで偶然会った前田の友達。


 彼女たちを傷付けないために。

 思い出と友情を残すために。

 前田は、一人孤独に桂川高校へと進学してきた。


 そして、こうして見事に彼女たちとの友情を、前田は守りきって見せた。


 彼女が帰還するべき場所は桂高校ではない。

 友人達が待っている立命館高校のように思える。


 あの、姦しい女友達の中で。

 そして、立命館高校の吹奏楽部の中で。

 フルートを吹いている彼女こそが、本来の前田である。


 そんな風に、僕でさえ思えてしまう。


 それは仕方ないことのように感じた。


「けれど、恵理は、貴方のことをしきりに気にしています」


「……え?」


「分からない、思い出せない、記憶にない。それは明らかなのに。写真立ての中で、隣に座って笑う貴方のことを――恵理は、はっきりと、自分の大切な人なんだと、私たちに向かって言いました」


 ぼろぼろの記憶の中で。

 朧げで、危うく、今にも消えてしまいそうな、そんな記憶のひだをたどって。

 彼女はそれでも僕のことを、思い出してくれたのだ。


 こんなに嬉しいことがあるだろうか。


 こんなに人に想われることがあるだろう。


 力強く、ぎゅっと前田のお母さんが僕の手を握った。

 涙でふやけた瞼を彼女に見せて、僕は、彼女の視線に応えた。


 微笑むその仕草までが、前田にそっくりだ。


 当たり前だろう。

 前田はこの目の前の人から産まれてきたのだから。


 そんなの、馬鹿でも分かる話だよ。


 馬鹿だな。

 僕は本当にバカだ。


 ふと、前田が以前話していたことを思い出した。


 ネットカフェで、デートをした時のことだ。

 二人で、Anotherを見終わった時の事。


 怖かったね、でもなく、面白かったね、でもなく。


 彼女は、僕にこう言ったのだ。


「誰かに忘れ去られていくってことは、とても辛いことよね」


 と。


 そうだ。

 ずっとそうだったんだ。


 出会った時から、彼女は、いつだって求めていた。

 自分が死んでしまっても、ちゃんと自分を覚えていてくれる、そんな存在を。


「しつこそうだったから」


 そう言った前田の言葉の意味が、今なら十全に理解できる。


「私の代わりに覚えておいてよ。私が居た、この半年の記憶を」


 そして。


 クリスマスイブの夜。

 彼女が僕に求めた約束を。

 長いフレンチ・キスと共に、僕に示してくれた好意と期待を。


 僕は守らなくてはいけないんだ。


 なんとしても守らなくっちゃならないんだ。


 だって、僕は――。


「前田のお母さん」


「……うん」


「僕は、前田の彼氏です」


「……そうね。あの子も、大切な人だって、貴方のことを言っているわ」


「だから、はっきりと、言います――その要求は飲めません」


 確かに前田は、この一年間を捨てるつもりで桂高校にやって来たのかもしれない。

 この結末はある意味、彼女が思い描いていた最悪のシナリオの通りかもしれない。


 けれども彼女は僕に救いを求めて来た。


 どうしようもなく女々しい僕に。

 過去にフられた彼女のことを、何年たっても覚えているこんな僕に。

 しつこくって、嫌気がさして、自分でさえ気持ち悪いと思う僕のような男に。


 彼女は、この失われるかもしれない一年間を、確かに託してくれたんだ。


 僕なら何があっても、前田のことを覚えていてくれる。


 そう思って、彼女は僕を頼ってくれたんだ。


 切り捨てられるかよ。

 そんなことで。

 そんなことくらいで。


「大切なことなので、もう一度言います。僕は、前田の彼氏です」


「……うん」


「彼女が桂高校で行ってきた一年間を、いつも間近で見て来た男です」


「……うん」


「だから、僕は。僕は、彼女を忘れません」


 彼女と過ごしたこの一年を。

 彼女との思い出を。

 彼女の季節を。


 僕は前田のために忘れたりするものか。


「……そう、言ってくれると、私は信じていたの」


 穏やかに微笑んで、前田のお母さんは僕の手から、そっとその指先を離す。

 まるで、娘の大切なものに触れてしまったことを詫びるようだった。

 彼女は畳を膝でこすりながら、少し離れると、恭しく頭を僕へと下げて来た。


 前田のお母さんは、いつだって、優しい。

 クリスマスデートの時だってそうだ。


 彼女は、いつも、娘の気持ちを優先して考えてくれている。


 立命館高校に転入させようと思っていると言った。

 それも、僕の気持ちを試すためについた嘘だろう。


 きっと、そんなこと、微塵も思っちゃいやしないんだ。


「恵理のこと、よろしく頼めるかしら、悠一くん」


「……どこまでできるか、僕にも分かりません」


 この一年間の前田の記憶。

 それが、完全に戻るということは、未来永劫ないのかもしれない。


 人間は忘却する生き物だ。

 事故があってもなくても、いずれ、記憶は失われていく。


 けれども、鮮烈に過ごした彼女とのこの一年を。


 僕は……。


 僕は!!


「絶対に忘れたりなんかしませんから!! 前田と過ごした日々のことを、僕は、絶対に忘れません!! だから、娘さんを、僕に預けてくれませんか!!」


 だって僕は女々しいんだ。

 どこまでも、どうしようもなく、自分でも嫌気が差すくらいに。


 こんな僕にしか、きっと、彼女を救うことはできないだろう。

 うぬぼれかもしれないけれど。

 けれども、あのクリスマスイブのことを思い起こせば。


 やらないのは男じゃないというもの。

 それでなくっても、僕は前田の彼氏なんだ。


 舐めないでくれ。


「僕が、前田を支えます。前田が失ってしまったこの一年を、補ってみせます!!」


 きっぱりとそう宣言した。

 僕は、頭を下げる前田のお母さんに、負けじと前田のことしか入っていない軽い頭を下げたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る