第7話 もう一度、前田の季節を
前田の入院は結局のところ一月いっぱいまで続いた。
それはそうだろう。なにせ、頭をぱっかりと割って弄ったのだから。
それくらいの静養期間を置くのが普通だと僕も思う。
もちろん、同じくらいに経過観察も大切だ。
現に記憶の混乱も見られているのだから。
肉体的にも精神的な落ち着くのを待つのに、それは妥当な時間のように思った。
そんなこんなで、前田の復帰初の登校日は二月の第三週の火曜日。
バレンタインデーの前日である2月13日となった。
流石に、この日は終日クラスメイトに囲まれて、前田は大忙しだった。
もっとも手術前に――こうなることを見越して――友人らしい友人を作っていなかった前田だ。それはもう、つれないくらいに適当にあしらっていたが。
登校するにあたって。
ある程度のクラスに関する知識は、僕から前田に教えてあった。
彼女がクラス内で孤立――というほどではないが、女子生徒とあまり積極的な関わりを持っていなかったこと。
そして、もっぱら彼氏の僕と一緒に過ごしていたこと。
主にその二つだ。
「やだ、私も人の事言えないくらいにスケベじゃん」
「スケベ前田だな」
「やめて、鈴木くん。ちょっと、それは、女の子に言う言葉じゃない」
「あ、それ、なんだか前田っぽいわ」
なんてやり取りを、前田の病室で交わしたのを僕は覚えている。
だから、彼女が手術によって記憶の混乱を起こしていることは、クラスメイトにはほぼほぼ分からなかったと思う。
それでも少しくらい違和感を覚えた生徒もいたかもしれないが。
結局、放課後になる頃には、彼女も質問攻めから解放された。
二月の少しだけ早い夕日に暮れる教室の中。
気がつくと、僕と彼女の二人だけが取り残されていた。
京都の冬はすこぶる寒い。
一応、冷暖房については、完備している桂高校。
授業中にはその寒さに晒されることはない。
だが――放課後になるとそれもじきに切れる。
さっさと生徒たちを追いだすためだろう。
それでなくても明日はバレンタイン。
女子たちは、意中の男子のためにと黙々と帰って行った。
男子たちも、馬鹿騒ぎをするより身だしなみを整えたいのだろう、わざわざ教室に残る者はいなかった。
ちょうどいい日に、彼女も帰って来てくれた。
「バレンタインデーだからって、皆、そわそわしすぎなんじゃないの」
「そうだな。つっても、一大イベントだからな。仕方ないんじゃない?」
「鈴木くんは、チョコ欲しかったりするの?」
「そりゃ、もちろん」
「……ごめんね。今から、手作りチョコはちょっと、作れる自信ないや」
姫カットから、スポーティーなショートヘアになった前田が言う。
元から、活発な所はあった。
だがその髪型になったことで、何かこうがらりと印象が変わったような気がする。
けれども、前田は前田だ。
相変わらず身長は小さいままだし、胸も小さいまま。
ニッチな層に人気のありそうなロリボディである。
せめて、もう少し、年相応に大きくなってくれたらなと思わないでもない。
なんというか犯罪臭がすごいんだよな、僕と並んでいると。
「そうそう、そういえば――脳腫瘍のせいで、成長ホルモンが止ってたらしくってね。これから急激に身長とか、体重とか、増えるかもって」
「うっそマジで!?」
「うっそー!!」
「うそかよ!!」
「なんでそんなに驚くのかな? どうしてかな?」
にこりにこりと怖い笑顔でこちらを見る前田。
ちくしょう、俺の思考を読まれていたか――。
なんだか懐かしいそのやり取りに、ようやく、前田が戻ってきてくれたんだなという、実感みたいなものを僕は感じた。
もっとも、やはりまだ、彼女は記憶を取り戻してなどいない。
僕達がその失ってしまった時間と記憶を埋め合わせるために、やらなくてはならないことはまだまだ多い。
「よし。鈴木くんが変なこと考えてるのは、ようやく分かるようになってきたね」
「なんでそういう意地悪なことは、すぐにできるようになるんだよ」
「意地悪? 愛の力と呼んで欲しいね?」
「……いやなラブパワーだなぁ」
そんなことを呟きながら、僕はふと、入学当初に座っていた席に、そっとその視線を向けていた。
今はもう、席替えをしてしまって、僕が座っている席ではない。
窓側から二列目、黒板に向かって奥にある席だ。
確か、今は男子生徒が使っているはず。
あんまり親しくはない相手だけれど――勝手に座って文句を言うような、そんな奴ではなかったように思う。
ふと、そこの椅子を引くと、僕は誰も居ないのをいいことに、そこに腰掛けた。
何かに気が付いたような顔を、前田がする。
彼女はそうして、僕の座った席の右斜め前の席に腰掛けた。
そして、ししし、と、歯を出して笑う。
彼女らしくない少しばかり下品な感じの笑いだった。
いったいそんなのどこで覚えて来たんだろうか。
けれども、彼女のそんな変化も、これから僕は一緒に受け止めて行かなくちゃいけないのかもしれない。
だがしかし。
今は何よりも。
彼女が、入学式の光景を覚えているということが、地味に僕には嬉しかった。
「入学式の席は覚えてるんだ」
「うん、なんかね、それは覚えてる」
「よっぽど緊張してたの?」
「わかんないや。脳って、本当に不思議だよね」
彼女の一年間の記憶は、完全に失われた訳ではなかった。
その繋がりは薄くなっているだけで――ようは、古い記憶過ぎて、それを思い起こすことができなくなっているようなもの――きっかけがあればふっと浮上するのだ。
教室のことを思い出したのも、きっとそういうことなのだろう。
「なんだろなぁ。なんだか、不思議な感じ」
「だろうね」
「ここで本当に、私は一年間も勉強してたのかねぇ」
「勉強しているより、僕とだべってる時間の方が長かったかも」
「マジか。不良少女じゃん。やだ、私ってば」
「いや、そういう訳でもないけど」
赤い夕陽が彼女の顔を染め上げていること。
そして、クラスメイトと先生の姿がないこと。
それら以外に、入学式との違いはこの教室にはない。
いや、前田の髪型のことはあるけれど、それは、まぁ、よしておこう。
あの日、僕達が初めて出会った日のことが思い起こされる。
なんだか少し、胸の奥が温かいような、そんな心地が沸き上がって来た。
「私が、この席に座ってて、鈴木くんが後ろの席で叫んでたんだよね」
「そうそう。なんだよ、憶えてるじゃんか」
「なんて言ったんだっけ?」
「……それを僕に、言わせるつもりかい?」
手術を終えてから、前にもまして、前田の奴は僕に意地悪になった気がする。
そうすることで、僕との距離を測っているのだろうか。
それとも、単純にどうしたらいいのか分からないのだろうか。
どっちにしても、彼女の言葉に、そして、しようとすることに、僕は応えてあげる義務がある。
なんて言ったって、僕は、彼女のこの一年間の記憶を預かっているのだ。
その引き出しを開けることを、躊躇う理由はどこにもない。
やれやれ、と、ため息を机に吐きかける。
そうして僕は期待した眼差しをこちらに向ける前田のために、ゆっくりとその場に立ち上がったのだった。
下校を促す放送が、校内に流れた。
エコーがかかって流れるそれが、すっかりと消えるのを待つ。
僕は、四月の――入学式の朝のことを思い出しながら、背筋を伸ばして、シャンとした顔をすると、前田しかいない教室で声を張り上げたのだった。
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