第6話 Rewind
僕はもう一度、前田の病室へと向かうことにした。
「二人っきりの方が話やすいこともあるでしょう?」
前田のお母さんはそういって待合室に残った。
ここ数日の前田の記憶の混乱は、彼女にも相当な心労になっていたらしい。
無防備に畳の上に横たわるその背中には疲労の色が見えた。
前田のことを、ここまで支えてくれた彼女に一礼をして、僕は待合室を後にする。
そして僕はスタッフステーションで貰った地図をズボンのポケットから取り出す。
僕は再び、前田の病室の前へと向かった。
あえて、今度はノックをしなかった。
いきなり現れて前田を驚かそうという魂胆ではない。
単純に、そんなもの、必要ない、そう思ったからだ。
「……あぁ、悠一くん」
彼女は窓辺に立てかけてあった、文化祭の時の写真を手にしていた。
何か物思いに伏せっている最中だったようだ。
優しく微笑んで、また、彼女はその馴染みのない呼び方で、僕に微笑んだ。
「……もう、いいから」
「……え?」
「無理しなくていいんだ、前田」
「何の話? 私、無理なんてしていないよ、悠一くん?」
「してるだろ!! だって、お前は……!! お前は……!!」
記憶を失っているじゃないか。
その言葉を、彼女が隠そうとしている真実を、口にすることは難しかった。
代わりに、僕は前田のベッドへと近づくと、彼女の前に跪いた。
そんなことをされる意味が分からないとでもいう感じに、彼女の眼が見開かれる。
意外だろうね。
君が、記憶を失う前だって、こんなことは、僕はしなかったのだから。
「前田」
「……なに? どうかしたの、悠一くん?」
「……お前は、僕のことを、悠一くんなんて呼ばない」
「……え?」
「……入院する前、お前は僕のことを、鈴木くんって呼んでいたんだ」
彼女がひた隠そうとしている真実について、直接的に言うことはできない。
けれど、事実をありのまま言うことはできる。
僕は自分が口にすることができる一番優しい事実を前田に告げた。
そして、それを受けとめて彼女は――。
「……そっかぁ」
全て、何もかも。
彼女の身に起こっていることについて。
前田が隠そうとしている真実について。
僕が知ってしまったのだと、彼女は察してくれたみたいだった。
そして、もう、自分がそんな振舞いを続ける必要がないことを、ようやく分かってくれたみたいだった。
それでも。
「……じゃあ、鈴木くん」
彼女は再び顔を上げた。
そして、僕に、悲しいくらい明るい笑顔を向けて来たのだった。
記憶を失っても。
僕との日々を忘れてしまっても。
それでもやっぱり前田は前田だ。
「私が鈴木くんに預けた記憶。教えてもらっても構わないかな?」
「……もちろん」
そのために、僕はこの場所に戻って来たのだ。
この病室へとやって来たのだ。
じっと、僕を見つめる彼女の瞳は、記憶を失う前と変わっていない。
その瞳の奥に今は眠っている、彼女の魂は何も変わっていない。
再び記憶を取り戻すため。
この一年の人生を取り戻すため。
彼女は僕を選んだ。
僕はそんな彼女のために、忘れないよと確かに誓った。
そっと出された彼女の手を取り、ゆっくりとベッドの上に僕は身を上げる。
薄い彼女が来ている病院服。その襟元から、やせ細った鎖骨が見えた。
そこにそっと僕は自分の頭を預けた。
「やだ、重いよ、鈴木くん」
「まず一番大切なことを教えるよ」
「……なに?」
「前田。僕はな、小学校・中学校とムッツリ鈴木って女子からは呼ばれていたんだ」
「……そうなんだ」
「自分で言うのもなんなんだけれど、しつこい性格をしていてさ。振られた女のことを、いつまでもいつまでも覚えている――そういう男なんだよ」
だから、お前が俺の事を忘れたって、大丈夫なんだ。
どんなことがあっても、俺がお前のことを覚えているから。
「お前と話したくだらない話も、お前と一緒に見たアニメのことも、お前と交わしたキスの感触も、全部全部、忘れられない。僕はそういう男なのさ」
「鈴木くん」
「お前と過ごした季節を、僕はずっと覚えている。君が忘れてしまったとしても、僕は君と過ごしたこの一年を、しっかりと記憶している」
だから、もう一度始めよう。
忘れてしまったというのならば、もう一度それをすればいいだけだ。
季節は巡る。
巻き戻すようにして、もう一度。
冬が過ぎれば、また、春がやって来るのだ。
学年は変わってしまった。
僕達は16歳になってしまった。
何もかも同じようには、決して行かないだろう。
けれど、それでも、また、僕達の季節――青春は巡って来るのだから。
「前田」
「なに?」
「僕が教えてあげる。もう一度、君と過ごした日々を。君がどんな女の子だったかを、また、一から教えてあげる」
僕は薄い彼女の胸から顔を上げると、そっとその瞳を覗き込んだ。
それは、あの日――。
文化祭の最期の打ち合わせで、彼女の家を訪れた時にしたこと。
彼女が僕に教えてくれた大切なこと。
ちゃんとした、キスの仕方を、前田は僕に知っているかと聞いた。
そして、僕は前田にあっけなく唇を奪われた。
ベッドが軋んで、彼女の軽い身体が荒いスプリングの振動に合わせて揺れた。
包帯が巻かれたその頭を気遣うように。
優しく、そして僕はゆっくりと、そのさくら色をした鮮やかな彼女の唇を奪った。
僕からこうして彼女を求めたのはこれが初めてのことだ。
はからずともここに来る途中思った通りになってしまった。
そして、前田は――。
「……鈴木君って、思っていた以上に、強引な人なんだね」
「いっただろう、ムッツリ鈴木だって、さ」
「……スケベ鈴木の間違いじゃないの?」
僕の
放課後の教室で、僕がいつも見ていた、口元を隠して笑うあの微笑みを。
再び、彼女は僕に返してくれたのだった。
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