第7話 心のロッカーに花束を
それは彼女の過失でできたものではなかった。
彼女の両親たちの遺伝子によるものでもなかった。
後天的に、ある不幸な出来事により、できてしまったものだった。
「小学校二年生の時のことかな。登校途中で、オートバイに跳ねられたの」
「大丈夫だったの?」
「オートバイとの衝突は軽いモノだったけれど、転倒して、頭を強く打ったの。それで、意識を失って――気が付いたら、次の日の朝だった」
命に別状はなかった。
オートバイを運転していた女性とは示談を成立させ、ことはすんなり決着した。
そう、彼女も、彼女の家族も思っていた。
「腫瘍が見つかったのはね、半年後の検診のことよ。CTスキャンをかけて。脳の中に、2mmほどのイボがあることがようやく分かったの」
「それで?」
「経過観察ってことになったわ。もしかしたら、それが悪性のものかもしれない。それなら、すぐに切除――手術が必要。けれどそれを判断する要素がなにもない」
仕方なかったの、と、前田は僕に言う。
実際、それはどうしようもない出来事だったのだろう。
けれどもそんな不安と共に、彼女は小学二年生の頃から生活を続けていた。
いつ爆弾に変わるかもしれないしこりを、脳の中へと抱えて。
その恐怖を考えた時。
軽々しい言葉が口にできるだろうか。
前田は続ける。
「身体的に問題はないように見えた。私は健康に成長している、そう、お父さんもお母さんも思っていた。そのまま、私は中学生になったわ」
「……けど、何か、あったんだね?」
こくり、と、前田が頷いて、アイスティーを手に取った。
冷たいと、告げるその言葉さえも、今はなぜか感情が乏しく聞こえた。
「三年生。京都吹奏楽コンクールでのことよ。私たち、立命館中学校の吹奏楽部は金賞を受賞したの」
「すごいじゃないか」
「そう、すごかった。あまりの興奮にくらくらするようだった」
けどね。
そのくらくらは感じちゃいけないものだったの。
前田は口をつけていないコップを静かにテーブルに置くと、瞳を閉じた。
額には脂汗が滲んでいるのが見えた。
「どういう意味?」
「その直後のことよ。私は意識を失って、かかりつけの病院に緊急搬送された」
「搬送!?」
「そして、搬送先の病院でこう言われたの――脳腫瘍が急激に肥大している。これは悪性の可能性がある、すぐに手術で摘出する必要がある、って」
「……つまり、君が抱えていた恐怖っていうのは、それのことなのかい?」
僕は幾分と直接的にそして、断定的にそれを前田に尋ねた。
しかし、前田は静かに首を横に振るばかりだった。
「手術事態は簡単なものなの。命に危険はないと言ってくれてるし、私も主治医の先生を信頼しているわ」
「だったら、なんで」
「この病気にはね、後遺症があるの」
「後遺症?」
「腫瘍の位置が悪かったみたい。もし、切除した場合、半年から一年――比較的脳の新しい記憶に障害が発生するかもしれない」
半年から、一年。
比較的脳の新しい機能に障害が発生する。
なんだ、そうか。
そういうことか。
どんな馬鹿でもわかる話だ。
ようやく、僕の中で、彼女がどうしてこんなことをしたのか。
そして、何に苦しんでいるのか。
ありとあらゆる全てが、ぴったりと繋がった。
そして同時に。
「ふざけんなよ!!」
怒りが。
また先ほどのこととは違う、怒りが。
僕の中から噴き出してきた。
それはもう、どうしようもない、抑えられない感情であった。
「つまり君は逃げたんだ!! 大切な友達との記憶を失うことを逃げて――どうでもいい理由付けをして、桂高校へとやってきた!! そうだろう!!」
「……うん」
「そして、一年間、どうでもいい記憶を作って、そして、手術に臨むつもりだった。桂高校でのこの一年間の出来事なんて綺麗さっぱりと忘れて、しまう、そういうつもりだったんだ」
「そう。全部、鈴木くんの言う通りだよ」
頭、いいんだね、と、前田は言う。
馬鹿にするなよ。
思わず立ち上がって僕はテーブルを叩いていた。
親子連れの方々が、音に反応してこちらを見た。
あきらかに、大学生カップルという感じの二人も、こちらを見ていた。
ヤンキーみたいなやつも一人いた。
だが、睨みつけたら、彼はすぐ、下の階に逃げるようにして去って行った。
強面の顔も、こういう時には、ちゃんと役に立つものだな。
ははっ。
「じゃぁ、僕との恋人ごっこもお遊び?」
「え?」
「どうせ忘れてしまうんだから、火遊びしてみるのもいいかも。そんな軽い気持ちで、僕に近づいたの?」
そうなんだろう、と、僕は前田に詰め寄るように言う。
失くしてしまっていい記憶を求めて、前田は桂高校にやって来たのだ。
だから、彼女は――この高校で行ってきたことなどどうでもいい。
入学式も。
期末考査も。
文化祭も。
あの日のキスも。
全部、忘れてしまうつもりだったのだから。
「僕の事、からかって遊んでたんだ。そうなんだな、前田」
「それは違うよ、鈴木くん!! それは違うの!!」
再び、前田の表情には強い意志が宿っていた。
どうしてだろうか。
彼女は、まるで、それだけはぜったいに認めない。
そんな頑固な顔つきで、僕の方を睨みつけていた。
「貴方のこと、忘れてしまおうなんて、思った事はないわ」
「……どうしてだよ。忘れちまうんだろ、手術したら、僕との記憶なんて、全部なくなってしまうかも知れないんだろう」
無くなってしまうから、誰とも深く関わろうとはしなかった。
いずれ、関係が切れてしまうから、友だちを作らなくてよかった。
フードコードで偶然出会った、彼女たちこそ、守らなければいけない――前田にとって大切な友人たちなのである。
その中に、僕は含まれていない。
恋人としても、友人としても。
こんなに濃密な一年間を過ごしてきたっていうのに。
そんなの、あんまりだ。
「あんまりじゃないか」
僕の瞳から涙がこぼれていた。
僕は彼女に覚えていてほしかった。
彼氏の鈴木悠一として。
なのに。
こんなフられ方なんて、あんまりじゃないか。
最悪だよ。今日は人生最悪の日だよ。
何がクリスマスだ。糞くらえってもんだ。
こんなこっぴどく、女の子にフられることになるなんて、僕は思っても見なかったよ。やっぱり、恋なんてするんじゃなかったんだ――。
暴れ狂いそうになる、そんな僕の唇に優しい何かが触れた。
前田の桜色の唇がその荒ぶる感情を押さえ込んできた。
彼女と僕の身長差は大きい。
テーブルの上に膝をついて、コーラと、アイスティーをぶちまけて。
そこまでして、彼女は僕に、その唇を捧げてくれた。
大人のキスなんてやり方を知らない。
お互いを求めあうほどに、僕達はまだ積極的にはなれない。
それはとても長い、けれどもとても短い、清らかな瞬間であった。
濡れた足をそのままに、前田はテーブルから体を降ろした。
そして、また、真っすぐに僕を見て、言った。
「言ったでしょ。私が、鈴木くんを好きになったのは、しつこそうだったからって」
「……言った」
「だからだよ。私の代わりに覚えておいてよ。私が居た、この半年の記憶を」
私、鈴木くんのこと、忘れたくないんだから。
前田はそう言って、僕の手を強く、痛いくらいに握りしめて来た。
弱弱しく、自信なく、消え入りそうな感じの瞳。
けれどその手だけは力強くて。
いつもは指先で隠す上品な笑顔を崩さず。
その黒い髪を揺らして。
あぁ。
僕は大きな勘違いをしていたんだ。
ようやく、その時、僕は彼女が本当に望んでいることが何か、分かった気がした。
やっぱり、僕はバカだ。
大バカ郎だ。
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