第2話 悠一くん
京都大学附属病院へのアクセスは、スマートフォンで調べれば一発だった。
けれど、馬鹿な僕は神宮丸太町を、京阪ではなく地下鉄だと勘違いした。
京都地下鉄中央線、丸太町駅。
本来であれば、そのまま突き当りの河原町駅で降りて、京阪電車に乗り換えるべきところを、僕は阪急烏丸駅で市営地下鉄に乗り換えてしまった。
丸太の文字しか見えていなかった。
はい、また、前田にからかわれるネタが増えたよ。
オフィスビルしか立ち並んでいない丸太町駅を見て、唖然とした僕。
すぐに、スマートフォンでマップを確認し、丸太町と神宮丸太町があることを、その時、僕は始めて知った。
電車で移動するにしても、徒歩で移動するにしても。
ここまで来たら、もうそんなに変わらないだろう。
ただでさえ、花束を抱えての移動である。周りから向けられる奇異の眼に対しては、正直うんざりとしていた。
という訳で。
「……歩くかぁ」
三学期の始業式を終え。
一度家に帰って私服に着替え。
そして、ちょっとだけフォーマルな服を着た僕は、花束を持って丸太町通りを東に向かって歩き始めたのだった。
歩きながら、いろいろなことを考えた。
まず、前田に会ったら、いったいなんの話をしようか、と。
「そういう意味で、今日の丸太町間違いは、いいネタになるかもしれないな」
きっと彼女のことだ。
鈴木くんって本当にバカだね、なんてことを言って来るに違いない。
そして、久しぶりに、あの上品な――口元を隠した笑顔を見ることになるのだ。
そんなやり取りをするのも、なんだか、とても待ち遠しい。
しかし。
約半月に渡って、彼女と会えなかった寂しさは、そんな言葉のやり取りだけで埋められそうには、とても僕には思えなかった。
最後に会った日の夜。
ファーストキッチンのテーブルの上で交わしたあの口づけ。
なまめかしく、唇の上に浮かんでくるのは、彼女の桜色した唇の柔らかさ。
「もう、あれだけキスしたんだから。いいんじゃないかな」
ムッツリ鈴木の本領発揮という奴である。
かれこれそれらを数えてみる。
彼女の家で1回。
ファーストキッチンで1回。
2回もしてしまえば、もう恋人として、なんの遠慮もない。
今日もキスしてしまって、構わないのではないのだろうか。
よく分からないそんな理論が、僕の頭の中に浮かんできた。
いかんいかん。
僕は回復した前田を見舞いに向かっているというのに。
何をスケベなことを考えているんだ。
悠一、しっかりしろ。
まぁけど、流れ的にそういうのになったら、やぶさかじゃないよNE。
「やぶさかじゃないZE!!」
人通りがないのをいいことに、叫んでみる僕。
とにかく、久しぶりに前田に会うことができる。
彼女と話すことができる。
そして彼女に触れることができる。
僕のテンションは見事に振り切れていた。
細くなり、カップルの姿も見えなくなった鴨川を渡る。
本来降りるはずだった、神宮丸太町駅を横切ってしばらく進んだ。
途中分からなくなってスマートフォンで地図を確認しながら、ようやく、僕は前田が待っているそこにたどり着いた。
京都大学付属病院。
流石は府内でもトップクラスの知名度を誇る大病院だ。
現代的でモダンな建造物。割と最近造られた感じを受ける。
見ようによっては、ちょっとした高級マンションみたいだな、なんてことを考えてしまった。僕はまばらな人の流れにそっと紛れ込むと、敷地内へと入った。
話では、南病棟の四階だっけか。
「やっぱり、お見舞いの受付とか、いるんだろうかねぇ」
家族でもない人間が、お見舞いに来ましたと言って、通してくれるのか。
なにぶん、友人を見舞いに行った経験がないので分からない。
とりあえず、正面玄関にやって来る。
すると、見舞いの仕方を聞くにはちょうどいい相手がいた。
厚手のコートを着ている警備員さん。
僕は彼にそのあたり、いったいどうすればいいのか尋ねてみた。
◇ ◇ ◇ ◇
面会には、スタッフステーションなる場所に行って、面会カードを書かなくてはいけないのだそうな。
まず、そのスタッフステーションが、どこにあるのか、探すのに手間取った。
てっきり一階のどこかにあるのかと思って探し回った。だが、よくよく考えると、それは各階にある詰所だということに、ようやく気が付いた。
四階にエレベーターで上がって、すぐに僕はスタッフステーションに顔を出す。
いかにも、熟練のナースさんという感じ。
小太り厚化粧なおばさんが、そこでは少し不機嫌そうに、じっと書類とにらめっこをしていた。
大丈夫なのかね。
ここ、府内でも随一の病院なんだよね。
「……あのぉ、すいません」
「うん? あぁ、はいはい、どうされました?」
「面会をしたいんですけれど。前田恵理さんの部屋はどちらでしょう」
「前田さん、前田さん。あぁ、あの若い娘ね」
怖い見た目に反して、意外に穏やかな反応に内心でほっと胸を撫でおろす。
彼女は、この階のフロアが印刷された紙を取り出すと、ここが現在位置、ここが前田さんの部屋よ、と、丁寧に赤ペンでルートを示してくれた。
ついでに。
「もしかして、あの娘の彼氏さんとか?」
余計なお節介の言葉もつけて。
それに対して、「はい、そうです」と、答えられればいいのだけど。
僕は、「まぁ、そんなところですよ」と、なんだか煮え切らない返事をした。
そんな反応が気に入らなかったのか。
それとも、もう仕事は終わりということだろうか。
おばさんはまた、視線をカウンターの中へと戻すと、何やら難しそうな書類との睨み合いを再開したのだった。
まぁ、世間話をしに来た訳ではない。
聞くべきことは聞いたのだし、これはこれでいいか。
渡された地図を元に、僕は、前田の居る部屋へと向かう。
どうやら、脳神経関連の患者ばかりが集められたフロアらしく、病院内は驚くほどの静けさで満ち溢れていた。
平日、ということもあるのかもしれない。
とまぁ、いつもの通り、脳内であれやこれやと考えているうちに。
僕は、地図に赤丸で示された、前田がいる個室の前へと辿り着いた。
途中、四人部屋を幾つか見た。
だが、そこは、うら若い乙女に配慮してだろう。
やっぱり、前田の家、金持ちなんだろうな。
僕なんて、きっと、よっぽどのことがあったとしても、四人部屋だぜ。
もしかすると、病院にすら行かせてもらえないかもしれない。
こんこんこん、と、部屋をノックする。
はぁい、と、中から返って来た声は、馴染みのある前田の声だった。
驚かせるために、勢いよく入るべきか。
それとも、そっと入って静かに祝福するべきか。
どう考えたって後者だろう。
頭を開いて手術したばかりなんだぞ、彼女。
少し、深呼吸して、ゆっくりとスライド式の扉を開く。
棟の東側にあるため、すっかりと陰になっているその部屋。
しかし、意地の悪い京都の寒さを感じさせない、温かい空気でそこは満ちていた。
甘ったるい、砂糖菓子の匂いが立ち上って来る。
どうやら、お菓子を食べているらしい。
食事制限とか、そういうのは特にないのかしらね。
なんて思っていると、ひょっこりと頭に包帯を巻いた、くりくりとした目の少女が、こちらに視線を向けて来た。
あぁ、と、今さらながら、僕は気が付く。
頭を切開手術したのだから、髪の毛は当然手術の邪魔になってしまう。
切っているのは想定しておくべきだった、と。
けれどもその顔立ちは、手術の前と変わっていなくって――。
小柄な体に不釣り合いな美人顔。
ぱっちりとした目に、爛々と光を湛えて、彼女は僕に真剣な目を向けて来た。
前田だ。
間違いない。
髪はなくなってしまって、病院服姿だけれど、間違いなく僕が知ってる前田だ。
久しぶりの再会にうれしくなって、僕の顔の筋肉が緩んだ。
けれど。
「あぁ、悠一くん!! いらっしゃい!!」
「……え?」
その違和感に僕は心臓を抉られた。
誰だい、悠一くん、って。
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