第5話 君のフルートが聞きたい
前田の友達とのくっちゃべりは、結局夜の七時くらいまで続いた。
流石に試験勉強といっても、これ以上の長居はできない。
日が長くなってきて、まだまだ外は十分に明るい。
けれども、未成年がぶらぶらしていていると補導される時間には違いない。
誰ともなく。それじゃぁ、そろそろ切り上げようか、と、言い出した。
それでようやく僕と前田は、この姦しいお茶会から解放されたのだった。
「それじゃ、私は自転車だから」
「そうなの?」
「電車通学じゃないんだ?」
「……微妙にアクセス悪いんだよね」
「ほんと、だったら
「そうしたら無理やりにでも吹奏楽部に入部させてあげたわ」
「ほんとほんと」
じゃあね、と、手を振ってJR桂川駅の方へと消え去っていく、女の子たち。
フードコートに残された僕と前田は、彼女たちに向かって手を振る。
そうしながら、僕は隣の彼女のことについて、また思いを巡らせていた。
前田恵理。
立命館中学校から、わざわざ、桂高校へとやって来た女の子。
綾辻行人の小説が好き。
特にAnotherが好き。
中学校の頃は吹奏楽部に所属していた。
フルートが得意。
そして、小さくて可愛らしい身体に、溢れるくらいの勇気を持っている。
ついでに貧乳で幼児体型。
私用の水着は持ってないので、公共のプールでスク水を平然と着る天使。
いや、最後のは少し主観が混じっているな。
僕は僕が彼女について知っていることを、ざっと頭の中で整理した。
それで何かが分かるような気はしない。
けれど、そうしないと、なんだか気分が落ち着かなかった。
これもまた、僕のよくない性分なのだと思う。
「……はぁ」
胃の底から吐き出したような、重たいため息。
いきなり隣で聞こえたのに僕は驚いた。
振り向くと、肩を落として前田がフードコートのテーブルに顔を載せている。
もう、彼女の友達たちの姿はない。
それでいつもの――少なくとも桂高校で僕が見ている、前田に戻ったらしい。
なんだろう。
こうしているほうが、確かに、彼女らしい。
「疲れたでしょ?」
「うん。女子ってこう、僕にとってトラウマだったりするから」
「もう恋なんてしないって、言ってた系男子だもんね」
「言ってた系男子だからね、僕」
先ほどまでのお上品なやりとりから打って変わって、いつものやり取りになる。
妙な安心感を感じて笑うと、前田もつられてあははと笑った。
よかった。いつもの前田だ。
僕が知っている前田だ。
けれどもきっと、僕が知らない前田が、彼女にはまだ多くあるのだろう。
それこそ――。
先ほどまで一緒だった、中学校の友達のために見せる前田。
お父さん、お母さんに見せるための前田。
たまに会う親戚のために見せる前田。
そして、初めて会う人のために見せるための前田。
そんな色んな前田が、彼女の中にはいるのだという事実。
それを垣間見て僕は困惑してしまった。
考えてみれば、それは別に普通のことである。
僕だっていろんな人間関係の側面を持っている。
前田――彼女に対して出している一面もまた、僕の一部分でしかない。
だというのに。
どうしてだろうか。
妙に、僕は彼女のその見えない一面が気になった。
「前田」
「なに?」
「ご褒美なんだけれどさ。変更してもいいかな?」
「それ、また、明日にするってのじゃダメかな?」
今がいい。
どうしても、今、それを伝えておきたいんだ。
僕は少し疲れた顔をしている前田に、時々する真剣な表情で迫った。
真面目な前田は、そうやって、真剣に僕が話をすればちゃんと応えてくれる。
分かった、と、少し気だるそうにつぶやいて、彼女は席から立ち上がった。
「もし、英語で80点を取ったら、プールじゃなくて違うものが欲しい」
「なに?」
「……君のフルートが聞きたい」
それはつまり、君の過去について、僕は触れたいのだ、という意味だ。
どうしても触れさせてくれない、過去の前田に、僕は触れたい。
そう僕は思ったのだ。
今までは、なんというか、目の前に居る前田だけが、僕にとっての全てだった。
彼女と一緒に居るだけで十分な満足感を得られた。
けれど、僕の知らない彼女を知って、欲が出てしまった。
僕は、もっと前田のことを知りたい。
なんで前田が桂高校に転校してきたのかもそうだし。
なにを彼女が好んでいるのかも、知っておきたいのだ。
そしてもちろん。
彼女の過去についてだってそうだ。
「駄目かな?」
僕の正面に立った前田は、信じられない、という顔をしていた。
それはいつものおどけた表情ではない。
真剣な葛藤を含んでいる、気難しい表情に――少なくとも僕には見えた。
なんとなく予想はしていた。
彼女がそれを了承してくれない。
あるいは、しぶるのではないかと。
僕は心のどこかでそれを思っていた。
ここまで一度も彼女が秘密にしてきて話さなかったことである。
彼氏であるはずの僕に隠し続けてきたことなのだ。
そういう反応をするのは仕方ない。
けれど、それでも僕は聞きたかったし、尋ねたかったのだ。
それを僕に聞かせてくれないかと。
その答えによっては。
僕は――。
「ふふっ」
「へ? なに、なんで笑ってるの?」
「ふふふっ、あはははっ!! あはははっ!!」
突然、そんな真剣な空気をぶち壊して、前田は笑い始めた。
真剣な話には、真剣に付き合う。
それを紳士協定としてきた僕達のはずだが。
どうして、彼女は突然、壊れたように笑い始めた。
それも、お腹を抱えて。
目に涙まで浮かべてだ。
このやりとりのどこに笑う所があるっていうんだろう。
真面目に聞いてよ。
いつもなら彼女が言うセリフを口にしようとしたその時だった。
「いいよ。それで」
「え?」
「彼女の水着よりフルートを吹く姿の方が見たいなんて。やっぱ変だよ鈴木くん」
彼女は真剣に、笑った理由を僕へと述べた。
それがきっと彼女にとって、堪えられないくらいにおかしなことだったのだろう。
そして今もまた、堪えることのできないことなのだろう。
あはあはは、と、お腹を抱えて、前田はそのまま暫く笑い続けた。
そんな笑うようなことだろうか。
確かにスク水姿の前田も見たい。
けれど、それよりもっと、フルートを吹く前田を見てみたい。
だってそちらの方がよっぽど、彼女のことをよく知れる。
そんな気がしたから――。
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