第4話 経過

 エレベーターなど使っていられなかった。

 階段を使って、一気に最上階――8階まで登ると、僕は屋上へと出た。


 白いシーツがたなびいている。

 そこで、僕はいつぞや彼女が見た空に向かって、大声で叫んだ。


「なんでなんだよ!! 手術は上手く行ったんじゃなかったのかよ!! どうして、僕の事をそんな風に呼ぶんだよ!! 前田ァッ!!」


 涙が止まらなかった。

 嗚咽が喉を駆け上がって来た。

 情けなさ、愚かさ、悔しさ、そのどれでもない何か。


 どろどろとしたマグマのように感情が煮えたぎっていた。

 そんなものに突き動かされて、僕はただただその場で慟哭した。


「どういうことなんだよ!! LINEで連絡してくれたじゃないか!! 手術は上手く行ったって!! 日にちだって、ちゃんと指定してくれたじゃないか!!」


 なのに。どうして、僕のことを忘れているんだ。


 もう一度、あの時のやり取りを思い出そう。

 僕はスマートフォンを取り出してLINEのタイムラインを確認した。


 確認するのは簡単だった。

 それは彼女とのやり取りの一番最後だったからだ。

 確かにそのタイムラインの中で、前田は僕のことを鈴木くんと呼んでいた。


 彼女はその時、ちゃんとした記憶を持っていたのだ。


 なのに――。

 今さっき会った彼女は、まるで、そのことさえ忘れているようだった。


 いったい、何が、彼女の身にあったというんだ。


「……ちょっと待って」


 僕はそのLINEのタイムラインを見て、あることに気が付いた。


 あの前田が。

 筆まめな前田が。

 手術をする前は、病院食が美味しくないだとか、小説を一気読みするだとか、しょうもないことを、毎日毎日LINEで送ってきてくれた前田が。


 1月6日そのやり取り以降、一度も、僕にメッセージを送っていない。

 そんなことに、僕は今更だけれど気が付いた。


 それは、あきらかに異常なことだった。

 そしてその異常に、僕はもっと早く気がつくべきだったのだ。


「……鈴木悠一くん、よね?」


 ふと、背中から声をかけられた。

 その柔らかい声色に、僕は聞き覚えがあった。


 それでなくても、よく似た女の子の声を、ここ半年、僕は嫌というほど間近に聞いてきたのだ。それで気がつかないはずがない。


 膝をついて、慟哭していた僕はゆっくりと振り返る。

 そこには、いつぞやと同じ、茶色いストールを巻いた、落ち着いた顔つきの女性が、心配そうな顔つきでこちらを見ていた。


 前田の――お母さんだ。


「恵理のお見舞いに来てくれたのよね。ありがとう」


「……前田の、お母さん」


「ちょっと、中でお話ししましょう。ここは、ひどく寒いわ」


 そう言って微笑むと、彼女は僕の手を取って、ゆっくりと体を引き起こした。


◇ ◇ ◇ ◇


 南病棟六階の談話室。

 畳敷きになったそこは、重篤患者の縁者たちが待合に使ったりする場所らしい。


 正月明けということもあってだろう。

 幸いなことに、そこには誰も人が詰めていなかった。


 スタッフステーションの近くにあるそこに入った僕と前田のお母さん。

 彼女は、、真っすぐに僕の顔を見て膝を揃えると、ぽつぽつと、ここ数日の自分の娘の様子について、僕に語り始めた。


「最初はね、本当に、何もなかったの。記憶の混乱も何もない、恵理は後遺症なく快方してくれた。そう思っていたわ」


「……僕も、ラインでのやり取りで、そう感じました」


「けどね、脳へのダメージはやっぱりあったみたいなの」


「……やっぱり」


「意識が戻って、二日目くらいかしら。あの子の様子が少しずつ変わり始めたわ」


「……どういう風に?」


 前田のお母さんが、言葉を濁した。

 どう、説明したらいいのだろうか、迷っているようだった。


 視線をさまよわせる姿まで、親子そろってよく似ている。


 敵わないな。


 元気だった前田の姿を思い出してしまって、思わず、僕は頭を掻きむしった。

 別に、せかしている訳ではない。ただ居座りがよくなかっただけだ。


 前田のお母さんは、申し訳なさそうに視線を伏せて、ようやく口を開いた。


。ずっと、あの子を見て来た私の口から言わせて貰うと、そういう風に見えたわ」


「見えた、っていうのは?」


「あの子がそれを認めないから。この一年の出来事を、ちゃんと覚えている。記憶しているからって、強く主張したからよ」


 貴方の名前も言ったのよ、あの子。

 そう、前田のお母さんは話した。

 言ったというのは、彼女に対してでもあり、一緒に居たであろう前田のお父さんに対してもだろう。


 前田は、僕との関係を、父親には隠している。

 そんな話をクリスマスイブの夜にした覚えがあった。


 にもかかわらず、彼女はそれを曝け出した。

 記憶が混乱していない証拠として、白日の下にさらしてみせた。


 その行為自体が、記憶の混乱の証左であるなどと、露にも思わずに。


「それを聞いて、あの人、なんとも言えない顔をしてた」


「……でしょうね」


「この写真の隣に写っている人が、私の彼氏なのよって。今ね、彼は今年に入って初めての有休を使って、家でやけ酒を飲んでいるわ」


「……ご迷惑をおかけします」


「いいのよ。君が謝るようなことじゃないんだから」


 口元を隠して、前田のお母さんが笑った。

 やはりその仕草が、どうしても、前田の姿に重なって見えた。


 けれど。僕が知っている前田はもういない。


 少なくとも、僕の記憶の中にある前田と今の前田は、まったく別人だった。

 僕と彼女が作り上げて来た関係が、音を立てて崩れ去る。


 いや、音を立てることもなく、一瞬にして掻き消えてしまった。


 その絶望たるや、どう言葉を尽くして表現すればいいのか。


 まるで、突然に自分の足元に大きな穴が現れて、滑り落ちるようにして底の見えない闇の中へと落ちていく。

 そんな感覚――とでも言えばいいのだろうか。


 不意打ちのようにして突きつけられた残酷な事実。

 その前に、僕はただ、涙を流すことしかできなかった。


 堪えることもできず、拭うこともできず、ただ、流れる涙。

 いっそこのまま、僕の涙で世界を満たしてしまいたい。


 そんな気分だった。

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