第3話 記憶の混乱

「わぁ、素敵な花束。私のために用意してくれたの?」


「え、あ、うん」


「ありがとう。私、とってもうれしいわ」


 違う。


 何かが決定的に違っている。


 そうだ、きっと、前田は僕のことをからかっているのだ。

 悪趣味なことをするもんだ。ちょっと、そういう冗談はよして欲しい。


 こっちは本気で、君の病状について、心配していたんだからさ。


「……えっと」


「ねぇ、? 今日、始業式だったんでしょう? どうだった?」


「ど、どうだった、って?」


「皆とお話ししたんでしょう。元気にしてるかしら。って言っても、二週間くらいしか会ってないだけだから、そんな変わりようもないか」


 そう言って、前田は個室の窓に飾ってある、写真立てに視線を向けた。

 彼女の言った皆とは、その、写真の中に写っているだろうか。


 なんでクラスメイトのことを心配するんだ。

 写真の中の彼らと会ったことを羨ましげに言うんだ。


 確かに、僕達は学園祭実行委員として、その写真の中心人物として活動した。

 それは間違いない事実だ。


 けれど、それっきりだ。


 写真の中の人物達との間に、特別な友情が芽生えたかと言えば、それはNO。

 あくまで記念にと一枚、主要スタッフが集まって撮っただけの写真なのだ。


 その事実を、彼女は忘れてしまっている。


 いや、それよりも、もっと、根本的なことを、彼女は忘れている。


「ねぇ、!!」


 そういって、彼女が爛々とした瞳を僕に向けた時、また、心臓が痛んだ。


 もしかすると僕は、彼女より重い病を患ってしまったのではないか。

 痛みに、今すぐにも膝をついて倒れてしまいたくなった。


 しかしそれは物理的な痛みではない。


 心の痛みだ。


 心臓に感じたその痛みは、僕の心の悲鳴だった。


 ベッドの上で、にっこりと笑っている前田。

 切りそろえられていた短い髪を、ごっそりと剃り落とされて、包帯を巻いている前田。痛々しい姿の彼女を、僕は正視することができずに少し顔を背けた。


「手術ね、無事に終わったよ。私、のこと、ちゃんと憶えているわ」


「……あぁ、そうだね」


「私は貴方の彼女。貴方は私の彼氏」


「……うん」


「ほら、合ってる。ばっちりね、


 嘘だ。


 彼女は僕のことを忘れてしまっている。

 しかも、それを自覚して、無理に覚えている自分を演じようとしている。


 なんのために。

 そんなの決まっている。

 僕を、悲しませないためだ。


 そんな気遣いが、前田の言葉が、僕の心をどこまでも痛めつけた。


 安堵して、ここまで歩いて来た僕。

 彼女のために花束を用意した僕。

 手術が無事に終わったと聞いて、記憶の混乱がないと知って、安堵した僕。


 もしタイムマシンがあるなら。

 昔の自分を殴り倒してやりたい気分だった。


「けどごめんね、悠一くん。私、やっぱり、手術の影響か、ちょっと、まだよく分からない所があるの」


「……気に、しないで」


「優しいんだね。流石は私が見込んだ彼氏だわ」


 その口ぶりは、なんだか、前田らしかった。

 あるいは、やっぱり彼女は悪ふざけをしているのかもしれない。

 わざと、なんていう、馴染みのない呼び方で、僕をからかっているのかもしれない。


 そうだと言って欲しかった。

 そうであって欲しかった。


 今すぐ、「やだ、もう、堪えきれない」と、口元を隠して欲しかった。

 いつもの上品な笑いを、僕に向かって浴びせかけて欲しかった。


 けれど――。


「あのね。これから、いっぱい、色々なことで迷惑かけると思うの」


「……うん」


「それでも、私と一緒に居てくれるかな。また、私と恋人になってくれるかな」


「……またもなにも、僕と君は、ずっと恋人のままだよ」


 その言葉を紡ぐだけで、僕はもう精いっぱいだった。


 これ以上、何かを言ってしまうと、眼尻から、涙がこぼれてしまいそうで。

 彼女の前で泣いてしまいそうで。


「……ごめん、ちょっと、トイレ行ってくる」


 そう言って、僕は前田の病室から逃げ出した。

 花束を、座卓の上に置いて。

 扉を静かにスライドさせると、僕は急いで外に出た。


 もう、涙は、すぐそこまで。

 悲鳴と共に僕の頭へとせりあがって来ていた。

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