大沢博仁~001

 さて、帰宅時間だ。

 この頃ジムをさぼっていたから、そろそろ顔を出さないとまずい。

 と、言う訳で、嫌がるヒロを引き摺ってジムに行く。

「なんだよ!!俺は昨日行ったっつうの!!」

「別に今日も行ってもいいだろ。一人じゃ寂しいんだよ」

 まあ言い訳だ。ヒロが復帰する前までは、一人で通っていたし。

 なんか不安で思い切り身体を動かしたかったから、ヒロを道連れにしたのだ。

 昼の蟹江君の話。朋美がクリパに参加したいと言ってきた事だ。

 蟹江君に話が行ったという事は、主催者を蟹江君達にした俺達の作戦勝ち。それはいい。

 一体いつクリパの情報を得た?

 蟹江君達にお願いした後には違いないが、彼等から追加で希望者が来たと聞いたのが、これが初めてだ。

 まあ、知り合いも居ないクリパに参加したいとはなかなか言い難いだろうが、朋美が最初になる。

 …のか?本当に?

 実は誰かが参加したがっていたが、朋美が潰したって可能性は無いのか?

 考え過ぎかも知れないし、そうでないのかも知れないが、これが不安でたまらないのだ。

 その不安を払拭するように身体を動かした。

 柔軟からシャドー、パンチングボールからミット打ちまで。

「よし!!程よく温まってきたぞ!!ヒロ、スパーだ!!」

「え~?」

 俺が健康的な汗を流している最中、椅子に座ってまったりお茶していたヒロが、嫌そうな顔をした。

「いいから来い。早く!!」

「うわ~…面倒くせえ…」

 マジに嫌そうな顔で、グローブを付けてリングに上がる。

「お前ヘットギアは?」

「当たらねえからいらねえ」

 カチーン!!

 気が付くと、俺もヘットギアを取ってぶん投げていた。

「え?お前も外すの?」

「当たり前だろ?だって当たらないもん」

「ほう…」

 目つきが変わったヒロ。

「青木先輩、コング頼んます」

 言いながらコーナーに戻って行く。

 ヒロとスパーをやると、いつもの光景なのだが、先輩達が自分の練習を中断して野次馬に入る。勿論この日もそうだった。

「緒方ー、3ラウンドでいいかー?」

「俺はそれでいいですけど…」

「博仁はどうだー?」

「いいっすよ。この馬鹿をKOするのに9分もいらんですが」

 カッチーン!!!

 こんにやろう!ヤケに挑発すんじゃねーか!!

「緒方、セコンド入ろうか?」

 そう言いながら、既にコーナーでバケツを持って待機する田中先輩。

 ヒロにも鈴木先輩がセコンドに付いていた。

 なんかみんなノリノリだ。いつもの事だけど。

 マウスピースを噛ませて貰いながら、田中先輩のアドバイスを聞く。

「解っていると思うが、博仁はスタミナが無い。じっくりボディを攻めろ。燃料切れになったら顔面に一発ぶちかませ!!」

 え、だって3ラウンドしかないじゃん…

 今のヒロは9分でスタミナが切れる事は無いんじゃ…

 だけどボディ狙いには同感だ。

 頷き、コングが鳴るのを待つ。

 コングが鳴った。

 田中先輩のアドバイスの通り、ボディを狙い、ジャブを繰り出す。

 同然捨てパンチなので、簡単に躱される。

 だが、これはボディにぶち込む為の布石。

 顔面に意識が集中して、ボディが甘くなる。そこで深く踏み込んでのリバー狙いだ。

 気分良く左フックをボディに叩き込むと――

「……ち」

 肘でガードされたか。

「バレバレなんだよっと!!」

 ヒロのショートフック。深く踏み込んでしまった為に、躱すのは難しい。

 奥歯をギリリと噛みしめて、衝撃に備えた。

 フックが左頬に……来ない!?

 フェイント!?

 気付いた時にはもう遅い!!俺のボディにヒロの右が、まともに入った!!

「ぐ!?」

 飛んで逃げるタイミングも完全に脱していた。辛うじてクリーンヒットを避けたのみ。

「浅いとか!!ムカつくなあ!!」

 ヒロのラッシュ。俺は身体を丸めて凌ぐことを選択。

 しかし、数発ガードを掻い潜って被弾する。

 パンチ力なら俺が上だが、テクはヒロの方が数段上だ。

 全部捌ききるつもりは無いが、結構被弾中。だが貰うつもりで耐えているので、意識は飛ばない。飛ばせない。

「バカ緒方!!足使え足!!」

 田中先輩、逆にボディに一発貰っちゃったから、足にきてんですよー!!

 顔面に来ると思っていたから、ボディが結構効いちゃったんで。

 だから足使えない。被弾中でもある。

 ん?この状況…俺の間合いじゃんか!?

 俺は基本的にインファイター。接近戦なら分がある。

 もう殆ど勘で左を放つ。

 掠った感触。まぐれにしちゃ上出来だ。おかげでラッシュが一瞬止んだからな!!

 闇雲にパンチを出しても、当たるもんじゃない。

 だが、勘と言う物は経験値で積み重なり、ただのまぐれじゃなくなる。

 そうで無くともヒロとは何百とスパーした間柄。ガチでやり合った事も何度もある。

 苦し紛れに打った一発だが、ラッシュが一瞬止んだ事も想定内だ。

「お前は警戒し過ぎちゃうんだよな!!」

 やはり勘でパンチを出す。


ゴッ


 一瞬退いた時に、俺の右斜め上に顎があるのは、経験則で解っているのだ。

「がっ!!」

 当たったが、しかし浅い。

 ヒロも俺が右を出す事を経験で学んでいるから、クリーンヒットは免れたんだ。

 だが、これで完全にラッシュが止んだ。

 踏み込んで懐を貰う。

「やべ…」

 ヒロが後ろに跳んだ。

 その間合いを、スライド幅を大きくして相殺し、低空でのボディ。

「ぐううううう!!」

 入った!!久し振りに気持ちい感触!!

 ヒロとのスパーではあんまりない事で、少し嬉しい。

 追い打ちとばかりにもう一歩踏み出す。

 だが、ヒロは更に後ろに跳んで間合いを取った。

「あれ?入ったと思ったのに?」

「ゲホゲホ!!跳んでいる最中だったから、威力が殺されたんだよ!!」

 成程…納得だ。

 だけどダメージはデカいはず!!

 ヒロ目掛けてダッシュ!!

 間合いに入った!!左ストレートを顔面に…

「打つな緒方!!」

「!?」

 田中さんに言われて左を無理やり止める。

 視界いっぱいにグローブが映った!!

「うわ!?」

 身体ごと捻ってそれを躱す。

 ヒロの右が元に戻る瞬間が目に入った。

 カウンター仕掛けていたのか!!

 あのまま打っていたら、右ストレートのカウンターを貰っていた…

 やっぱヒロ、すげえ。テクじゃまだまだ及ばない。

 こんな調子で3ラウンド終了…

 狙いのボディはクリーンヒットなし。ヒロからもいいのを貰っていない。

「手数の差で博仁だな」

 いつの間にかスパーを見ていた会長が、徐に口を開いた。

 確かにパンチは結構貰っていたが、殆どジャブのみ。ダメージは薄いが、判定で俺の負けって所だ。

「は~…やっぱテクじゃ負けるなあ」

「いや?ンな事ねえぞ?恐らく本気で試合したら、おめえの勝ちだ」

 会長が何か知らんが俺を持ち上げる。

 ヒロが軽く溜め息を付き、言う。

「だから言ったじゃんか。隆が同じ階級なら、俺はいらねえだろって」

 うん?こいつも何言ってんだ?

「何言ってんだよ?スパーの成績じゃ、お前が勝ち越しているだろ?」

「……は~っ…解んねえんならいいよ。それに、もう辞める気もねえしな。少なくともあの件にケリが付くまでは」

 げんなりするヒロだが、あの件って、朋美の事には違いないだろう。

 その為にジムに戻ってくれたんだから。

「博仁、階級一つ落とせ。それなら隆と被らねえ」

「ヤダよ減量なんて。趣味として続けるよ。それでいいだろ?」

 ……階級変えるとか被らないとか言っているが、俺もプロになるつもりは無いんだけど…

 言いたいが言い出せない。雰囲気的に。

「隆だって今はその気は無えよ。喧嘩できなくなっちまう」

 まさにその通りだし。

「俺は喧嘩の為にボクシング教えているわけじゃねえぞ?」

「いや、少なくとも隆は最初に言った筈だ。殴り殺したい奴等がいるって、このジムに来たよな?」

 そうだけど…

 麻美を殺した糞野郎共をぶち砕く為に、このジムの門を叩いた。それは会長にもちゃんと言った。

「確かになあ。だが、時間が経てば考えも変わるんじゃねえのか?博仁、お前もそうじゃねえのか?」

「先は解んねえしどうでもいいよ。取り敢えず今だ。だからオッチャン、隆に無理やりプロ入り勧めんなよ?」

 会長に向かって凄むヒロ…

 身内だから辛うじて許されているんだろうが、それは不味い。

 止めに入ろうとしたが、会長が俺に視線を向けて制し、動けなくなった…

 暫く会長を睨んだ後、ヒロがリングから降りてドアに向かった。

「お、おいヒロ、どこ行くんだよ?」

「シャワーだよ」

 そ、そうか。いや、そうだよな。

 ばたんと、静かにドアが閉じる。

 場に残ったのは、何とも言えない微妙な空気。

「隆、お前もシャワー浴びてこい」

 そう言って会長も出て行く。なんだろう…なんか寂しそうな…

「緒方、身体冷える前に汗流して来い」

「あ、はい。田中先輩、なんかヒロ、イライラしていませんでしたか?」

「ん~…苛ついているとはちょっと違うかな…まあ何だ。博仁はいつもお前の味方だって事だよ」

 全く解らん…つか、ヒロが俺の味方って、改めて言われる事も無い程、重々承知しているんだけど…

 釈然としないながらも、そろそろ身体が冷えてきたので、汗を流しにシャワー室に向かった…

 シャワー室には先に入っていたヒロが、鼻歌を歌いながら汗を洗い流していた。

 何だよさっきのシリアス展開?随分呑気な雰囲気になっちゃっているよ。

 なんかガッカリしながらも、俺もシャワーを浴びる。

「んあ?隆か?」

「あと誰が入ってくんだよ?つか仕切りから覗くな」

 親友とはいえちょっと恥ずかしい。ちょっと間違えたら、薄い本の内容になりそうだ。

「お前、相変わらずデフィンス甘いとこあるぞ」

「お前だって一発を恐れて距離取り過ぎだ。もっと前に出てこいよ」

「アホ。俺はオールラウンドなんだよ。足も当然使うんだ」

「俺だって足くらい使うだろ。インファイトだけじゃない」

「9割インファイトじゃねえか。カウンター食らいやすいだろが」

 ヒロとのスパーが終わった後は、いつもこうして言い合う。

 次に繋げる為の論議だが、お互い頭が残念なのか、なかなか繋がらないのが欠点だが、これは楽しみの一つでもある。

「まあ兎も角、須藤の件、きっちりケリつけろよな」

「ああ…なあヒロ。お前ってか、みんなは何で俺の話を信じてくれたんだ?」

 こんな荒唐無稽の話、俺なら絶対に信じない。

 当事者の楠木さん達が信じると言うのなら何となく理解できる。微かに記憶を持ち越しているようだし。つうかデジャヴがあるみたいだし。

 しかしヒロは違う。当事者に近い傍観者、そして更に言うのなら、真の当事者たる朋美がデジャブが無いのもおかしい。いや、聞いた事が無いから、ハッキリと断言はできないが。

 しかし俺の苦悩(?)を余所に、ヒロがバッサリと言った。

「信じるとか信じねえとかじゃねえよ。俺はお前の味方だってだけだ」

 ……………

 ヤバい。ちょっと感動してしまった。

「み、味方ってよ…」

「あん?そりゃそうだろ。お前がどうしてここまですんのか、俺が一番知っている。逆に俺以外じゃ知り得ないだろ」

 そうだけど…

 俺が凶器を求める理由、ここまで強くなった理由は、麻美を除けばこいつが一番知っている。

 最初はこいつ、俺を嫌っていた。ってか、見下していたし。 


 ヒロを知ったのは小学時代。同じ学区内だったし、運動神経良かったから目立っていたので、俺が一方的に知っていた。

 そしてそのまま交流も無く、糞共にいたぶられていた中学時代、俺はその日も帰宅前にボロボロにいたぶられ、中庭でゲロを吐いていた。

「ぎゃはははは!!きったねえなあ緒方!!」

 吐いては笑われ、更に蹴られ、また吐いて蹴られ…

 この日はいつもの五人はいなかったが、他の糞共が暇つぶしにいたぶってくれていた。

 だが、人数がアホみたいにいっぱいいた。10人は超えていたと思う。

 その人数に寄って集って蹴られ、殴られ…ホント気を失う寸前だった。

 もう駄目だと目を瞑った時、糞の一人が倒れた。

 一人、二人、三人…

 朦朧とする意識の中だが、はっきりと見えた。

 俺と同学年の奴が、糞共をぶっ倒しているんだと。

 年上とか関係ないと、目に映る糞共を片っ端からぶっ倒していく。

 大沢博仁は、気に入らない奴は取り敢えずぶっ飛ばすが身上だった。

 俺をいたぶっていた場所がたまたま中庭で、大沢博仁の昼寝場所が偶然にも中庭だった。

 大沢博仁は自分の信条に従い、無抵抗な俺を大勢でいたぶっていた糞共を、ただぶっ飛ばしただけだったが、俺は初めて助けられたと思い、心から感謝して礼を言った。

 同時に、頬に未だかつて無い衝撃を覚えて、簡単にぶっ倒れた。

 何が起きたのか、理解するまで暫くかかった。

 理解した時には、ああ、今度はこいつなんだ。と諦めた。

 大沢博仁は、礼を言った俺を手加減無しでぶん殴ったのだ。

 今までいたぶってくれた上級生を追い払ったんじゃない、そいつ等の代わりに自分が俺で憂さ晴らししようとしているんだろう。

 そう思い、もう色々諦めたのだ。

 大沢博仁は倒れている俺の腹を蹴り上げた。

 物凄く痛かったが、ゲロを吐くまでには至らなかった。

 手加減した?でもなんで?

 不思議に思ったが、腹が痛くて蹲るのみ。

 そんな俺に大沢博仁が言った。

「俺は一人を大勢でいたぶる連中が大っ嫌いだが、抗いもしないで流されている奴も嫌いなんだよ。だから口開くんじゃねえよ」

 酷く冷たい口調だった。

 成程、俺を助けたんじゃなく、俺をいたぶる目的でも無い。俺も気に入らない連中の一人だって事だ。

 言っている事は解るしカッコイイとも思うが、そこには重大な欠点がある事を、こいつは知らないんだ。

 下手に抗うともっと酷い目に遭う。

 だから極力殴られる回数を減らす為、じっと耐えるしかない事を。

 大沢博仁の言っている事は、所詮強い者の意見。綺麗事の第三者の正論と同じ事。

 それならば、俺みたいに弱い奴が何を言っても、ただの泣き言にしか感じないだろう。

 なので俺は意見を言うのをやめた。無駄だから。

 立ち上がり、服に付いた土埃を手で払い、何も言わずに中庭から出る。

 去り際、大きな舌打ちが聞こえた。

「抵抗しなきゃ何も変わんねえぞ!!」

 抵抗したら、もっと酷い事になる事を知らない奴に、何を言われようがどうでもいい。

 綺麗事の一般論。そんなの、親しい友人やお仲間同士で言い合っていろ。

 俺は聞こえない振りをして、そのまま去った。

 もう二度と関わる事もないだろう。


 そして暫く経ったあの日…

 麻美が死んでしまった日…

 俺は流石に学校を休んだ。

 後悔と懺悔、全て負の念に支配された心。

 自分の意思でやった事と言えば、目を瞑ると麻美の転落の映像が瞼の裏に映るので、極力目を瞑らないようにするのみ。

 そんな日を一週間ばかり過ごした。

 親父やお袋も最初は何も言わなかったが、流石に学校に行けと促された。

 一応外に出たが、勿論登校する気分にはなれず。

 何の目的も無しに電車に乗り、適当に降りて、ただひたすら歩いた。

 気が付いたら夕方。もう直ぐ街灯が灯る時間になっていた。

 もう帰ろう。

 そう思い、駅に向かう。

 その駅のベンチに、大沢博仁が缶ジュースを持って座っていた。

 大沢博仁は俺に気付き、缶ジュースをゴミ箱に放り投げ、俺に隣に座るよう目配せをした。

 何も考えずにそれに従った。まだ帰りたくなかったのもあったから、素直に従ったのだ。

「……お前を構ってた女、日向だったっけ?転落事故で死んだんだってな」

 意外だった。知っていたのか、俺と麻美の関係を。

 とは言っても、中学で俺と話すのは麻美と朋美しかいない。

 学校一の虐められっ子の俺はそこそこ有名だろうから(主にいたぶる為に集まる糞共にだが)当然麻美の事も知っているんだろう。

「亡くなったその次の日の朝礼で、全校生徒で黙祷したんだぜ」

 それは…

 糞共の最たるあの五人もしたんだろうか…

 麻美を殺しておきながら?いけしゃあしゃあと?

 沈み捲っていた心に、ふつふつと怒りが湧いてきた。

「屋上は前々から危ないとか言われていたけど、まさかこんな事故が起るとはなあ…」

「事故じゃねえよ!!」

 大声で否定した俺に、大沢博仁は驚いたように、目をまん丸くした。

 肩で息をし、沈黙する俺。

「……何があったん?」

 この時の俺は、どうかしていたとしか言いようが無い。

 話す必要も無い第三者に、麻美が転落した経緯を話してしまったのだから。

 あるいは聞いて欲しかったのかも知れない。

 関係無い奴に愚痴を零すくらいの感覚だったのかも知れない。

 一通り話終え、暫しの沈黙。

 その沈黙を破ったのは大沢博仁だった。

「仇討たねえのか?警察に言ったりとかは?」

 俺は黙る。答えない

「なんなら俺が代わりに…」

「やめろ」

 それはほんとにふざけんなだった。

 麻美の仇を、名前知っている程度の奴に討ってもらおうとか、それこそ腐りきっている。

「じゃあ、お前はどうしたいんだ?」

 どうしたいって…

 どうにもできない。どうにもならない。

 俺に出来る事は、こんな風に後悔とか情けない気持ちとか、色々な負の感情を心に留めて、惰性で生きるだけ。

「……俺のいとこのオッチャンがボクシングジムやってんだよ」

 それがどうした。俺に何の関係がある?

「ちっちゃい弱小のジムだけど、プロもいるんだぜ。6回戦だけどな」

 知らねえよ。6回戦とか。

「練習生、いつも募集してんだ」

「お前は何を言いたいんだ!!」

 イライラで八つ当たり気味に叫んだ。

 しかし大沢博仁は気にした風も無く、財布から名刺を取り出して俺に渡した。

 名刺には大沢ジムと書かれていた。住所に簡単な地図、電話番号も。

 意味が解らず、大沢博仁を見る。

「ボクシングやらねえか?」

「……何言ってんだよ。俺は喧嘩もした事ないんだよ」

 ルールがある殴り合いとか、俺には無理だ。

 目を逸らそうとした俺に、追い打ち宜しく、続け様に言う。

「強くなれるぜ」

 強く…

 物凄く心が惹かれた。

 だが、強くなってどうする?

「強くなったら仇が取れる」

 仇…あの五人をぶち砕ける…?

「強くなったら今までの仕返しができる」

 仕返しとかはあまり考えた事も無いが…

「強くなったら誰かを守れる」

 守る…!?

 麻美が俺にしてくれたように!?

「強くなったら俺がダチになってやる」

 思わず噴き出してしまった。

 そして本心で言った。

「それはいらねえよ」

「え?お前、この大沢博仁がダチになってやるって言ってんだぞ!?」

「本気で意外そうな顔すんなよ」

 またまた噴き出してしまった。

 こんな風に噴き出すのは、随分久し振りだった。

 あの5人を筆頭にいたぶられてから、俺は笑えなくなっていたから。

 麻美が死んでからは、流石に糞共は俺をいたぶりには来なかったし、呼び出しも無かった。

 その間、俺は大沢博仁に誘われたボクシングジムに通いつめ、オーバーワークと怒られながらも、黙々と練習した。

 ランニングから始まり、ストレッチ、筋トレ。これは言われたメニューだが、それ以外にも先輩たちに教えて貰ったトレーニングを重ねた。

 実戦練習も本当はまだまだ先の事だったが、大沢博仁がスパーのパートナーに指名してくれて、ほぼ毎日行った。

 授業中でも握力を鍛える為にクルミを2、3個握り、酷い時なんかは鉄アレイを持ちながら授業を受けた時もあった。

 俺のそうした行動は、当然ながら目立つ事になる。

 あの5人は俺との接触を避けていたようだが、その他の糞共は、その目立った行動が気に入らないとかで、俺を呼び出してボコろうとした。

 それを防いでくれたのも『ヒロ』だった。

 呼び出しの度に、俺の代わりに出て行って返り討ちにし、待ち伏せもヒロと行動を共にするようになってからは、次第に無くなっていた。

 俺にはまだ早いから。って笑いながら、俺への虐めを全て引き受け、全て返り討ちにしてくれた。

 そんな生活の三ヶ月後の放課後…

「おい隆、そろそろ行くぞ」

 そう言われて、いきなり引っ張られて連れて来られたのは、三年の校舎だった。

「お、おい、まさかお前、あいつ等を?」

「あん?やるのはお前。加勢はしてやるから、せめて一人はぶっ倒せよ?」

 にかっと笑いながら、あの五人がたむろしている教室の扉を蹴って、ぶっ壊す。

 いきなりの強襲に驚いたのか、固まる例の五人。

「おう、いたいた。隆、やっちまえ!!」

 肩をポンと叩かれると、弾かれたようにダッシュして、一番近くに居た安田の顔面をぶち砕いた。

「あぎゃあ~!!」

 俺でも言わなかった情けない悲鳴を上げてぶっ倒れる安田。

「あががっががが!!!は、鼻の骨が折れたあああああ~!!」

 みっともなく転がりまわる安田を、冷めた気持ちで見下ろす。

 こいつ…大した事ねえな…

 ヒロもそうだが、ジムの先輩方の方が何倍も凄い。

 じゃあ他の糞はどうだ?

 グルンと身体を回すと、目の前に茫然として突っ立っていた武蔵野と目が合った。

 練習している時にヒロが言ってくれた事がある。

 お前はダッシュ力があるから、それ鍛えろ。ちょーっとばかしヘタレだが、根性付けばインファイトに向いている。

 だから走った。沢山走った。毎晩脚攣る程走った。

 その結果、俺はまだまだだが、武蔵野の懐に飛び込む程度のダッシュ力は身に付けた。

「ひっ!?」

 情けない悲鳴を漏らした直後、床に膝を付き、つんのめる武蔵野。

 ボディが綺麗に入った。

 肉を打つ感触が素拳に染み渡る…

 こいつ等、俺の身体で、いつもこんな感触を味わっていたのか…笑いながら…いや、嗤いながら…!!

「おおう。ノルマ一人だったが、もう二人もぶっ倒したのか!!な!!言った通りだろ?こいつ等なんか弱すぎて話になんねえって!!」

 ヒロが手を叩きながらゲラゲラ笑う。

 つか、本当に弱い。乗り込む時に感じた恐怖が、完全に払拭された程に。

 二人やられて漸く我に返ったのか、佐伯が勢いよく立ち上がった。

「てめえ緒方!!舐めた真似してくれてんじゃねえよ!!」

 大振りのパンチ。遅い。遅すぎる。

 ジムで飛び交っていたパンチは、そんなんじゃなかった。

 身体を捻る程度で簡単に躱し、がら空きのボディに一発ぶち込むと、簡単にくの字になった。

 ほら、テンプルががら空きだ。

 打ち下ろしの右。

 今度は完璧にぶっ倒れた。

 そういや、こいつが一番俺をいたぶってくれたんだよな。

 こいつ等のリーダー格だし、麻美を殺した一番の罪人だ―――

 気が付くと、俺は椅子を持っていた。

 全くの躊躇無く、思い切りそれを佐伯に振り下ろした。

「ぎゃあああああ!!」

 いい感じに頭をかち割った。

 転がりまわる佐伯。いい気味だ。

 いっそ殺してやろうか?そうだな。


 殺す!!!!


 殺意しか覚えなかった。

 俺は何度も何度も佐伯に椅子を振り下ろした。

 亀みたいに丸まりながら悲鳴を上げる佐伯。まだ大丈夫だ。死にはしない。

 お前等が俺にやってきた事でそれが解る。経験則ってやつだ。

「お、おい、ちょっと…」

 神尾の耳障りな声がして、反射的に裏拳を放った。

「ぶっ!!」

 こんな不完全な体制でやった事も無い裏拳で、神尾が簡単に倒れた。

 弱い。弱いなあ。

 冷めた目で神尾を見下ろす。

 視界の端に、阿部ががたがた震えながら、必死にやり過ごそうと身体を丸めていたのが見えた。

 その様子を見るなり、頭に血が昇った。

 俺にはやり過ごす事を許さなかったよな?

 気が付くと、俺は阿部の腹部を思いっ切り蹴り上げていた。

「けふおおおおおおお…」

 汚ねえな。ゲロ吐きやがってよ…

 靴に付着した阿部のゲロ。それを擦り落とすように、何度も腹を蹴った。同じ個所に。

「緒方あ!!」

 蹴るのに夢中で、他の奴等を失念していた。

 一番ダメージがある筈の佐伯が、血だらけになりながらも俺に殴り掛かってきた。

 貰うな。これは。

 仕方ない。油断した俺が悪い。

 一発だけ貰ってやる。だが、その後に本当に殺す!!

 拳を握り固めて次に備えた。

 しかし、佐伯のパンチは俺に届かなかった。

 途中でぶっ倒れたのだ。

 力尽きたのか?いや、違う。ヒロが後ろから佐伯を蹴り倒したのだ。

  そのヒロは、蹴り倒した佐伯を、更に踏みにじりながら言った。

「隆、デビュー戦はこれくらいにしとこうぜ」

 もう終り?今までの借り、全然返して無いんだが…

 不満を表情に出した俺の肩を組み、笑う。

「これから毎日遊んでやりゃあいいさ。こいつ等も楽しみにするだろうぜ?」

 そうか。そうだな。

 こいつ等がやっていたように屋上に呼び出したり、待ち伏せしたりすりゃあいい。自分達がやっていた事だ。まさか文句は言うまい。

「そうだな。まだまだお楽しみは続くってな」

 納得して去ろうとしたが、一つ言い忘れて立ち止まった。

「ああ、そうそう…先公にチクったりしたら…後は解るよな?」

 真っ青になった糞共。

 自分達が俺に言ってきた事だ。何故青くなるんだ?

 まあ、チクろうがどうでもいいけどな。

 どうせ殺すまで付き纏うんだし―――


 結論から言うと、殺せなかった。

 やり過ぎだとヒロに止められる事が多くなり、糞共は露骨に俺を避けるようになったし。

 この中学の糞共だけじゃない、他校の糞も、見かける度にぶち砕いた結果、近隣の中学の間じゃ結構な有名人になった。

 有名になれば媚を売ってくる奴等も出てくる。

 そいつ等も漏れなくぶち砕いた。糞を壊して回る糞に媚びる奴等も糞。

 ヒロもそこは別に止めなかった。

 ただ、やり過ぎには身体を張って止めてくれた。

 ヒロのおかげで、辛うじて人殺しにならなかったのは、今となっては感謝だ。

 いや、俺に武器をくれた時から、こいつには感謝しかない。

 究極的に言って、今の俺はヒロによって存在すると思っている。

 麻美の他にはヒロだけだ。

 俺が腹の底から感謝しているのは…

 まあちょっと長くなったが、ヒロは俺の二人目の味方だ。これは揺るがない。

 ヒロが俺を信じる所はよく解らないが、俺はヒロをどんな状況だろうが信じる事ができる。

 そんなヒロが俺の味方だっで言っているんだ。それを信じない筈がない。

 俺は苦笑を交えて言う。

「そうかよ。じゃあ、まあ、クリパの件も働いて貰うから。身を粉にして」

「今でもかなりの犠牲払っているような気がするんだが…」

「波崎さんとは次の日にでもイチャつけばいいだろ」

「なんか次の日はバイトだって言ってた…」

 落ち込むヒロ。そりゃそうだ。

 クリパの日時はまだ決まっていないのにも関わらず、次の日の予定が決まっているのだから。

「……ラーメン食ってくか?奢るよ…」

「……おう…」

 俺にできる精一杯の慰めだった。

 その代わりに、チャーシューと餃子を付けてもいいからな…


 ラーメン食って腹いっぱいになった俺は、そのまま帰路に着く。

 ヒロの野郎が、チャーシューメン大盛りに加えて餃子を頼んだ事も全く気にならない。寧ろ俺が薦めたのだが。

 調子に乗ってチャーハンも追加した時には、イラッとしたが。

 つか、帰って寝るだけなのに、そんなにドカ食いしたら次の日に腹凭れるだろうに。

 そんな事を考えながら、家の前に到着した。

 途端にフッと横切る人影。咄嗟に身構える。

 今はそんなに無くなったが、ぶち砕いた糞の報復とかで、家の前に待ち伏せとかは結構あったから、反射的にだ。

「ちょ…私だってば」

 女?

 しかし構えを解く事は無かった。

 変わりに言葉に出す。

「朋美か。こんな夜遅く、何やってんだ?」

 朋美はホッとした様子で、俺の前の後ろ手で腕を組み、微笑んだ…

 俺は構えを解いて、気になった事を質問する。

「お前、なんで制服なんだ?」

「あ、うん。なんか待っていたから」

 待っていた?俺が帰って来るのを?

 一瞬ウルッときたが、全力で否定した。

 一応マフラーとアウターを着込んでいるとは言え、この時期は寒い。

 そんな時期に、こいつがそんな健気な真似をする筈がない。

 注意深く周囲に気を張り巡らせると、俺の家の近くで車の排気音が聞こえた。

 暗いし死角に隠れているので断定はできないが、こいつ、車で待機してやがったな。暇なチンピラに頼んで、とか。

 とは言っても、実際本当に待っていたとしても、俺が気に病む義理も無いが。

 丁度こんな寒空だ。俺も冷たく対応しよう。

「そうか。なんか用か?」

 一切の感情を出さず、事務的に聞く。

「うん。ちょっと聞きたい事があってね」

 おい。俺の冷たさアピール無視かよ。感情出さないようにするの、結構大変なんだぞ。

 まあいい。敢えて無視している部分もあるんだろうしな。

「聞きたい事ってなんだ?」

「ああ、うん。隆のクラスでクリパやるんだって?」

 蟹江君達に断られたから直接俺に頼みにきたのか?

 警戒しつつ、返す。

「クラスってか、学祭で仲良くなった奴等とだな」

 敢えて学祭と言う単語を持ち出した。

 朋美は学祭に来なかったのだから、この時点で権利は消滅していると、暗に匂わせたのだ。

 学祭と聞いて、言葉を探しているように悩む朋美。参加資格が無いのは、流石に自覚があるうようだ。

 しかし、こいつは俺の想像の斜め下を行った。

「じゃあさ、クリパ出ないで私と過ごしてよ?」

 その瞳を見て、俺は呟くように言う。

「小学時代みたいだぞ、お前」

 こっちの事情はお構いなし。自分優先の女ジャイアン。

 押し黙る朋美。しかし作り笑いは崩さない。

「俺も漸くコミュ障から脱出できそうなところにいるんだよ。だから無理だな」

 自分で言って悲しくなった。

 コミュ障とか、絶対違うのに。

「そっか。もう高校生だもんね」

「そう言う事だ」

「じゃあ私もクリパ参加していいかな?」

 ……おい。俺は学祭云々と匂わせて、お前も自覚したばっかだろうが。

 高速で掌返しとか、どんだけクズなんだよ。

「クリパの定員はもう満たしている筈だから、無理じゃないかな」

 最後の『かな』に『?』を付けない口調。

 ハッキリ断ってもいいんだが、一応気を遣ってやってんだぜ?

「そっか。なんだっけ…か、かにえ?だっけ?そいつもそんな事言ってたな…」

 つかお前、建前だけでも主催者の蟹江君の名前うろ覚えとか、色々おかしいだろ。人として。

「蟹江君もそう言ったんなら間違いないな。お前も里中さんとか誘ったらどうだ?」

 こっちの事は気にしないでいいよ!!と、元気溌剌に言いたかったが、辛うじて堪えた。

「う~ん…さとちゃん、彼氏いるからなあ…」

 そういやそうだった。

 里中さんの彼氏も気になるし、流石に朋美も知っているだろうが、詮索は野暮ってもんだ。

 何より、会話の突破口を作りたくない。

 俺は口を真一文字にして噤む。下手な事を極力言わないように。

 閃いた、とばかりに手をパンと叩く朋美。

 そして笑いながら、いや、目は笑っていなかったが、怖い事を言った。

「欠員出たら、私参加できるんじゃない?」

 こいつ、また何かやる気だな…

 佐伯を殺して懲りたんじゃねえのかよ…

 寒いってのに、それ以上の冷たさを背筋に感じる。

「欠員出たらお流れになるんじゃねえの?」

 解らんが、そう答えるしかなかった。

 肯定してしまえば、誰かが事故で入院とかしそうな予感がしたからだ。

「そっかなあ…解んないよ??」

「まあ、欠員とは、病気とか怪我とかで来られなくなったとかだろ?だったらそいつの所に先に見舞いに行くだろうな。ほら、こっちばっか盛り上がったらなんか申し訳ないからな。その前に差し入れとかするだろうな。少なくとも俺はそうするな」

 捲し立てるよう言う。

 俺もいちいち必死だな…

 朋美の瞳が訝し気だったが、気にしている余裕も無いし。

「……なんか隆、変わったね。前の隆なら、お見舞いとか行かなかっただろうし、その前にクリパに参加しようなんて思わなかったでしょ?」

「そりゃ変わるさ。俺ももう高校生だ」

「……あの子の事、もう吹っ切れたの?」

 言った朋美の顔が青ざめ、一歩、二歩と後退りする。

「……吹っ切れる筈ねえだろうが…あの糞共をぶち殺したいのは相変わらずだ……!!」

「そ、そうだよね…うん…なんかごめん…」

 更に後退った朋美。

 俺は自分でも気付かない程、怖い表情をしているらしい。

 そりゃそうだ。そうだろう。

 だって麻美を殺した張本人が、目の前に居るんだからな…!!

 奥歯を折れんばかりに噛み締めて、朋美から視線を外した。

 これ以上このツラを見ていたら、ぶち砕きそうだったからだ。

「……悪いけど、練習帰りで疲れてんだよ…じゃあな」

「あ、う、うん…またね…」

 俺は朋美の方を振り返る事無く、家に入り、鍵を掛けた。

 施錠の音が朋美に聞こえるよう、乱暴に。

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