最終話 ホープフルステークスⅡ(後編)

 中山競馬場。僕たちにとっての最終決戦、ホープフルステークス。


 並んで観戦している僕たちの目の前を、13頭の若駒が駆け抜けた。

 大器の呼び声も高い圧倒的人気馬が、このステージをクリアすることなど造作もないとばかりに完勝を遂げた。

 僕が本命としていたヴァンドギャルドは直線詰まりまくりで敗れ、澤多莉さんが本命としていたジャストアジゴロは一瞬たりとも見せ場を作ることなく終わった。


「私はジゴロにもてあそばれる運命なのね」


 などと澤多莉さんは呟いていたようだが、僕に言葉を返す余裕はなかった。


 終戦。


 僕の誕生日でもある8月15日を思想信条により終戦の日と呼んだり敗戦の日と呼んだりするようだが、僕にとっての終戦の日であり敗戦の日は、12月28日と定まってしまった。


 澤多莉さんは至ってサッパリしたものだった。


「とても残念な結果になってしまったけれど、当たらなかったものは仕方ないわね。自分が死ぬこととバクチの出た目だけはどんな権力者でもねじ曲げられないって諺もあることだし、受け入れるしかないわ」


 それは諺ではなく赤木しげるの名言だったと思うが、指摘できるだけの気力もない。

 脱力し、ミルコ・デムーロとサートゥルナーリアのウイニングランを真っ白な頭でただただ眺めていたのは数秒だったか数分だったか。


「じゃあね」


 そう言った彼女に顔を向けることはできず、ターフをぼんやり見つめたまま、声だけを微かに振り絞る。


「本当に……別れるの?」

「ええ。そう決めていたから」


 乾いた声だった。

 僕は更に口を開こうとしたが、この状況で発すべき言葉は引き出しのどこを探しても入っていなかった。


「じゃあね」


 全く同じトーンで再び言った澤多莉さんが、僕の隣から去っていくのを気配で感じ、ようやく首を少しだけ動かすことができる。

 メインレース後の雑踏。人混みの中に消えてゆこうとする長い黒髪の後ろ姿。


 付き合うだ別れるだといった営為にある程度慣れている人ならば、ここで涙を流すなり、みっともなく取り乱すなり、或いは彼女を追いかけるなりできたのかもしれないが、僕は何もできず何も考えられず。

 心拍と呼吸だけはしている死者と化していた。


 実のところどうやって中山競馬場から帰ったかもよく覚えておらず、気がついたら自宅に戻っており、布団にくるまっていた。

 この時に至っても、感情はまったくついてきておらず、悲しいとも悔しいともつらいとも何も思っていなかった。

 それにも関わらず、急に蛇口が壊れたかのように滔々と涙が溢れでてきて、僕はわけがわからなかった。



 それから一週間と一日が経ち、新たな年を迎え、中央競馬も新たな一年の幕開けの日を迎えたが、僕だけ手前で取り残されているような心持ちだった。


 金杯の予想検討どころか、競馬のことを考えることすらできずに迎えた開催日だったが、僕は何となく外出し、何となく馴染みの電車に乗っていた。理由はわからない。本当に何となくとしか言いようがない。


 到着したのは東京競馬場。

 一年前の今日は澤多莉さんと一緒に中山競馬場へと足を運び、馬頭観音に初詣したものだったが、どうしてわざわざ非開催場にやってきたのかといえば、これも何となく。

 もしかしたら無意識に人の多い場所を避けたのかもしれないが、定かなところではない。


 年賀の配布なんかもやっていたこともあり、それなりに人の姿はあったが、4コーナーの芝のあたりは本開催時と比べたら閑散としていた。

 僕は腰を下ろし、芝の保護をしているコース、ターフビジョン、そして青く高い空をぼんやりと眺めていた。

 好天に恵まれ、寒さもここ数日の中では和らいでおり、絶好の競馬日和と言えたが、メインレースの時間が近づいても僕は馬券を買う気にならず、ただそこに座っていた。


 倫理学Aの講義中の突然の出会いから始まった、澤多莉さんとの様々な思い出が次から次へと去来する。

 その多くはこの場所で生まれ、育まれたものだった。果てない追憶の海の中から、ターフビジョンで流れている中山10レースを空虚に見つめる。


 そういえば、初めてここに来た日も彼女は『じゃあね』と二回言ったんだっけ------

 不意に一年二ヶ月前の東京競馬場と八日前の中山競馬場で見送った後ろ姿がフラッシュバックされる。

 あの時とこないだとでは『じゃあね』の意味に絶望的な隔絶があった。


 武豊騎手の馬が圧倒的人気に応え、悠々と逃げ切り勝ちを収めるのを見やる眼がジワッと熱くなってくる。

 いけない、また蛇口が壊れそうになっている。こんな屋外でみっともない。

 何とか抗いたかったが、実際どうすれば良いのか誰にも教わったことはない。とりあえず誰かに顔を見られないよう下を向く。

 雲ひとつ見えなかった晴空だったのにいきなり地面に影が射した。


「あら。明け4歳世代が強いと聞いていたからモルトアレグロが勝つと思ったのに。話が違うわね」


 影法師すらも均整のとれたプロポーションをしたその人の声は、相変わらず透き通るように美しく、僕はその人が誰か知るために振り返る必要などまったくなかった。

 というより振り返ることはできなかった。今の顔を特にこの人には見られたくない。


「どうしたの……どうして、ここに?」


 下を向いたまま、影法師に問いかける。


「何しにきやがったとは随分とごあいさつね。相撲ファンは両国国技館に、西武ライオンズのファンは西武ドームに、渡辺美里ファンは西武球場に、そして競馬ファンは競馬場に足を向けるのは世の理じゃない」


 僕はまだ顔を上げることができない。ぐずついた声音にならないよう、懸命に喉内を調整して喋る。


「……どうして、中山じゃなくて東京に来たの?」


 少し間があり、影法師が動いた。

 彼女が僕の隣に並んで腰を落とした気配を感じた。


「何となく。こっちの方にあなたが来てるような気がして」


 先程までよりも近くなった声が、僕の耳朶に優しく響く。


「僕に会いにきてくれたの? ……どうして?」

「さっきからDO-してDO-してって、もしかしてあなた桜っ子クラブの一員?」

「いや違うけど」

「そうよね。知ってる」


 比較的穏やかな気候の日とはいえ今は冬。冷たい風が吹きつけた。

 と、ふわっと首筋にやさしい感触。僕はこれが何かを知っていた。


「おそらくだけど、想い人に会いたくない人なんて、世の中にいないんじゃないかしら」

「……!」


 意を決して顔を上げ、左隣に顔を向ける。

 一つのマフラーで繋がった澤多莉さんは、相変わらず無表情で、相変わらず他の誰かと比べようもないほどに美しかった。


「ひどい顔ね。もしかしてトニオさんのレストランで水飲んだの?」

「どうして? 僕たち……別れたんでしょ?」


 質問を無視して別の質問を投げる形になってしまったが、澤多莉さんは特にこだわらない様子であっさりと頷いた。


「ええ。別れたわね」

「じゃあどうして?」

「私からも聞きたいんだけど、あなたは別れたことで私のこと嫌いになったの?」

「まさか! そんなことあり得ない!!」


 ごく間近で話しているのに、思わず声が大きくなってしまったが、澤多莉さんは眉ひとつ動かさなかった。


「私も同じ。別れてもお互い想いあってるのだから、こうして会って、一緒に競馬をしたり、ひとつのマフラーで繋がったりしても良いじゃない」

「……ん?」


 澤多莉さんは真剣な表情で、諭すように言った。ちょっと理解に苦しむことを。


「歩くときは手を繋いだり、腕を組んでみると良いかもしれないわね。何しろお互いに想ってるんだからWIN-WINと言えるわ」

「……ん? ん?」

「いい季節になったらまた二人で旅競馬にも行きたいわね。今年のGWは10連休だし、平成最後の天皇賞は是非一緒に現地で見ましょう」

「 …………んんん??」


 次々と、ごく当たり前のように発される澤多莉さんの言葉を受け、僕の頭の中はクエスチョンマークで埋めつくされていた。


「……えーっと、再確認なんだけど、僕と澤多莉さんは別れたんだよね?」

「昨年の12月28日にお互い同意の上でね。一年ちょっとだからまあよく続いた方ね」

「今、僕たちは付き合って……?」

「るわけないじゃない。何言ってるのよ? もしや白痴?」


 心底不思議そうに首をかしげる澤多莉さん。

 いやいやいや。首をかしげるべきはどう考えてもこちらだろう。


「でも僕は澤多莉さんのことがまだ好きで、澤多莉さんも同じ気持ちで、だからこれからも二人で競馬をしたり、一緒に過ごすってこと……?」

「そうよ。もちろん大人の男女なんだから、気持ちが高まれば口づけをして舌を絡めてみたり、それ以上のこともあるかもしれないわね」

「……ちょっと、言ってることが理解できないんだけど」


 僕は混乱した頭を抱えつつ、呻くように言った。いつの間にか涙は止まっていた。というかそれどころではなかった。


「わからないの? ウブな男ね。二人で同じベッドに入って、あなたのビッグ・マグナムを私がガブッと……」

「『それ以上のこと』の具体的行為がわからないわけじゃなくて! あとガブッはやめて!!」


 顔色ひとつ変えずにど下ネタを放り込んでくる澤多莉さんに向かい、また大きな声を出してしまうが、彼女はやはり表情ひとつ動かさない。

 ここに至り、疎らではあるが近辺にいる人たちがこちらに注目していることを感じとり、僕は声を潜めた。


「……どう話を整理しても、付き合ってるのと同じ状態に思えるんだけど」

「何言ってるのよ。私たちは別れたのよ。彼氏ヅラしないでほしいわね」


 澤多莉さんはにべもなく言い捨てると、どこからか競馬新聞を取り出し、二人で見れるように広げた。


「私はあなたの意味不明な繰り言を聞きにきたわけじゃないのよ。一年の計は金杯にあり。まずはここを当てて、今年こそは双葉山ばりの連戦連勝といきたいところね」


 意味不明なのはどっちだか。

 僕は途方にくれるような思いをしつつも、胸の中にまた何かがたぎりはじめるのをはっきりと感じていた。

 ここ一週間は見る気にもならなかった出走表に目を向ける。


「まあ京都の方はミエノサクシードで決まりでいいとして、中山は混戦で難しいわね」

「待って待って。ミエノサクシード? 全く勝てそうな要素がないと思うけど」

「私は驚くべきふし穴人間を発見してしまったみたいね。以前京都でレッドアヴァンセを下してるのよ。もしここにレッドアヴァンセが出てきてたらおそらく1番人気か2番人気になるんじゃなくて?」

「でも一年半以上前のレースでしょそれ」

「そう。あの時京都のコースをマスターしたにも関わらず、それ以降阪神ばっかり走らせたのは陣営の致命的ミスと言えるわね。今日こそ一年半ぶりに本領を発揮するときよ」


 相変わらず自信満々の澤多莉さんは一旦置いといて、馬名や騎手名や他の情報を改めて見渡し、僕も本命馬の選出を試みる。

 やはり一番人気のパクスアメリカーナが強そうに思える。精査するだけの時間はないし、いっそこの馬と澤多莉さん推しのミエノサクシードとのワイドでも買うことにしようか。いや、それはさすがに無いだろうか。



 陽光照らす競馬場の片隅で。


 二つの影法師が寄り添って、ああでもないこうでもないとやり合って。



(おわり)

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