第8話 有馬記念
近年、都内でも屈指のイルミネーションスポットとして名を馳せているらしいこの広場は、ちょっと意味がわからないレベルでそこかしこが輝きすぎていた。
こんな代物は電気代のムダ以外の何物でもない。世の中には悲しい出来事や考えるべき問題が山積しているというのに、こんなところではしゃいでいる連中はどいつもこいつもマトモな思考を失ったチンパンジーだ。嘆かわしい。
昨年の僕であれば、ほとんど全方位に溢れているLEDの光と楽しげな男女たちに、そんな敵対的な所感を抱いていたことだろう。
というより、そもそもカップルだらけのこんなスポットに足を運ぶことなどあり得なかった。
僕は今、生涯無縁で終わるはずだったオシャレなデートスポットに、周りの人たちが思わず振り返る美人と一緒に訪れている。
奇跡の幸せ者といえるのだが、未だにこの状況が現実のものとは信じられなかった。
むしろそんなわけがない。もしかしたら目が覚めたら、四十近くになっても孤独に寂しく暮らしている僕がいたりするんじゃないだろうか。なんて恐れすら頭をよぎってしまったり。そっちの方がよっぽどリアルな気がする。
ふと隣を見ると、澤多莉さんは光の芸術に魅了されているかのように、イルミネーションに見入っている。
いつもクールで無感情、一癖も二癖もある人間性の澤多莉さんではあったが、こんなんを目の当たりにしたらうっとりしてしまう女の子らしいところもあるのだろうか。
黄金や青や白の光に照らされた彼女の横顔は眩惑的に美しく、僕はただただ見とれるばかり。
彼女は光を見つめたまま、透き通るような声でポツリと呟いた。
「壮大なる電気代のムダ使いね」
表情ひとつ変えず、淡々と言葉を紡ぐ。
「物見遊山と思って足を向けてはみたものの、まったく嘆かわしいわね。世の中には悲しい出来事や考えるべき問題がたくさんあるというのに、こんなところではしゃいでいる連中ときたら、誰もかれも考えることを放棄したマンドリルよ」
「……そうだね」
この人は一癖二癖どころじゃなかった。
軽く八癖はあるであろう厄介なパーソナリティを前にして、僕は無抵抗に相槌を打つしかなかった。
「それにしても、あの引きの強さを目の当たりにすると、さすがにキタサンブラックに逆らうのは無謀な気もしてしまうわね」
結局はこんな話になる。
有馬記念の枠順が出るのは、通常のGⅠより一日早い木曜日。もしかしたら澤多莉さんとも一日前倒しで会えるかもとひそかに期待はしていたものの、公開抽選会を見に行くから集合との連絡がいきなり来るとは思っていなかった。
「急だなあ。チケット持ってるんだったらもっと早く言ってよ」
なんて思い上がった台詞を言えるはずもなく、僕は喜び勇んで午後の授業をサボって駆けつけた。初めて木曜日の澤多莉さんに会える。キャッホゥ。
なんちゃらプリンスホテルなどというハイソサエティな場所になど足を踏み入れたことなかったので、もしかしたら普段着じゃまずかったかなと思っていたが、会場に訪れた他の一般ファンたちの姿を見てひと安心。競馬場によくいる感じの人も何人かいた。
会場には取材で来ているであろう綺麗どころの芸能人なんかもチラホラ見かけたが、着飾った女性芸能人の誰よりも、ごくシンプルな白いニットセーター姿の澤多莉さんの方が美しく思えたのは、惚れた欲目というものだろうか。
デムーロ弟の初っぱな大外を引く事故から始まり、武豊の豪運、佐々木調教師のすべりっぷりに盛り上がった抽選会を終え、会場を出ると、すっかり夜の帳が下りていた。
「少し歩きましょう」と言い終わる前に歩き出した澤多莉さんとともに、会場ほど近くのイルミネーションスポットに到来している次第だった。
「キレイね」
「君の方がキレイだよ」
などと思わずシュレッダーにかけたくなるような会話が繰り広げられるはずもなく。
「キタサンの絶好枠もそうだけど、見事に他の有力どころが外の方を引いたものよね。元々キタサンの単勝買うつもりでしたって人にはいいでしょうけど、どう組み合わせて買うか、難しくなっちゃったわね」
「でも、どうせキタサンブラック本命じゃないんでしょ?」
「そんなの当たり前じゃない」
こんなんなるのが澤多莉さんと僕。
煌びやかな光の世界で、やることといえば、もちろん有馬記念の検討である。
「で、あなたはまた懲りずにレインボーラインで勝負?」
「そうだなあ。もちろんレインボーは買うんだけど、やっぱキタサンは強いと思うし、他にも有力馬いるし、どうしたものかなあって」
「相変わらず卑怯ね。さすがは先週ダブルシャープ本命とか言いながら、ちゃっかり人気どころも押さえておいて300円も荒稼ぎした悪徳馬券師だけのことはあるわ」
「そんなこと言ったら大半の競馬ファンは悪徳になっちゃうから。澤多莉さんこそ次から馬券の買い方考え直して見た方が良いんじゃない?」
「にゃにおう」
こんな時間が最高に幸せなのだから、僕もいささかおかしな奴なのかもしれない。
「1着になる馬は1頭だけ。2着も3着も同じ。それなら、単勝と3連単を1点ずつ買えば十分だってことにならない?」
「まあ、それで今まで1回でも当たってるんなら、説得力もあるんだろうけど」
「ふふ、龍が池の底に沈むのはなんのため、機を見て天に昇らんがためよ。日曜日の有馬記念こそが、まさにそのときよ」
握りこぶしを掲げてみせる澤多莉さん。連敗続きでもめげたりはしないようで何よりではある。
「そのための参考になるかならないかで言うと、まあならないとは思うんだけど、一応あなたの見解も聞いておこうかしら。大正義のキタサンブラックとあなたの溺愛しているレインボーラインの他に、有力そうだなって思うのはどの辺りになるの?」
「うーん……やっぱシュヴァルグランとスワーヴリチャードは気になるかなあ。外側の枠引いたけど、そこまで分が悪いかって言うと、そんなこともない気がするんだよね」
「ほう。その心は?」
「そもそもシュヴァルグランが勝ちを狙うとしたら、去年のサトノダイヤモンドと同じような競馬になるんだろうけど、あのときサトノダイヤモンドは11番だったわけだし」
「それより一つ内側の10番ならモーマンタイってことね」
「うん。まあ有利ってことはないかもしれないけど、とりたてて不利ってこともないかなあって」
「なるほどね。じゃあスワーヴリチャードは? もっと外側の14番だけど」
「これはただの印象かもしれないけど、ミルコって、GⅠだと外側にいるときほど3着以内に飛び込んでくるようなイメージがあって」
「ふむ……ダービーのアドミラブルにオークスのアドマイヤミヤビ、マイルチャンピオンシップのペルシアンナイトもそうだし、一応宝塚記念のサトノクラウンもそうなるのかしら? たしかに、今年だけザッと思い返してみても多い気がするわね」
虚空を見上げ、大半はまだ自身が競馬と出会う前に行われたレースを指折り数える澤多莉さんを見て、ふといとおしさのような気持ちが湧いてくる。
この人は本当に競馬を好きになり、過去に行われた数多くのレース映像を見て、勉強をしているのだ。普段は毒舌で隠されがちだが、その競馬への真摯な姿勢は本物。
いつかは、いや、それこそ次の日曜日に行われる日本競馬最高のレースで的中を勝ち取ってもらいたい。
おこがましいかもしれないが、そんなことを思ってしまった。
そして出来ることなら、その瞬間を隣で共有したい。
有馬記念を一緒に見にいきませんか?
まだ僕はその言葉を口に出せていなかった。
澤多莉さんと僕は、エリザベス女王杯の週からずっと、日曜日には競馬場で共に過ごしている。
その流れでいけば、今週の日曜日も中山競馬場でともに過ごすのはむしろ自然なのだが、その日付が甚だ問題だった。
12月24日。
この日に会いませんかと持ちかけるのは、対女性戦闘力たったの5の僕には、あまりにもハードルの高すぎるチャレンジである。
いやいや。枠順抽選会まで一緒に見に行ったのに当日は別々だなんて、そっちの方が不自然じゃないか。
いやいや。でもクリスマスイブだよ? 二十歳の美人女子大生に先約が無いわけないじゃないか?
いやいや。でも抽選会だけ行って、本番のレースは見に行かないなんてことあるか?
いやいや。今日誘ってくれたことだって、本番は一緒に行けないからってことなのかもしれないし。
いやいや、いやいやと、頭の中で葛藤がぐるぐる回り、古い歌でいうところの、思考回路はショート寸前状態。
どうせなら、当たって砕けりゃいいじゃないか。そう思う瞬間もある。
『ゴメンねその日予定があるの』
『ああそうOK、じゃあまた別の日に競馬場でね』
それだけで終わりの話だ。
でもきっとそうなったら僕は傷つく。いっちょまえに傷ついてしまう。怖い。傷つきたくない。
自分の情けなさにちょっと泣きそうになる。
「ねえ、ちょっと聞いてるの?」
「えっ?」
ふと見ると、澤多莉さんがこちらの目を覗き込むように見てきていた。
一挙に心拍数が上がる。
「えっ、ごめん、なんだっけ?」
「だからミッキークイーンよ。実績では申し分なし、ローテーションも余裕があって、この馬も有力なんじゃないのって」
「あ、うん、たしかにそうだよね。ただ後方一気で届く展開にはならないと思うから、コーナー抜けるあたりでどれだけ前にいれるかがポイントだとは思うんだけど」
「そうなると、この馬も外側の枠が必ずしも不利ではないかもしれないわね」
「うん」
なんとなく間があって。
「それじゃ、逆に内側のヤマカツエースは?」
「うーん、天皇賞とジャパンカップの負けぶりを見るとなあ。でも中山だと一変するような気もして怖い1頭ではあるよね」
「そういう意味ではシャケトラも同じね。先見の明がありすぎてジャパンカップのときに本命にしてしまった天才もいるらしいけど」
「えーっと……うん、そうだね」
「今何かツッコミ的なこと言おうとしてあきらめなかった?」
「い、いやそんなことは」
「まあいいけど」
ここでなぜか双方しばし沈黙。
冷たい風が吹き、澤多莉さんの長い髪が頬にかかった。
「寒いわね。いつまでもあなたの世迷言にも似た見解を聞いてたら風邪ひいて、今日の細江純子みたいな声になってしまうわ」
「そ、そうだね」
「もう電飾ピカピカも十分に見たし、そろそろ行きましょうか」
「う、うん」
言わないと。
日曜日一緒に中山競馬場に行きましょう。
クリスマスイブの日に一緒にいましょう。
「あの……」
「早いとこ切り上げないといけないし、時間短縮のためにお互いの本命馬をせーので言いましょうか」
妙な提案をしてくる。
「別にいいけど。でも、僕の本命は結局のところ---」
「いくわよ。せーの……」
「「レインボーライン」」
二つの声が一つに重なった。
「え?」
「あら。奇遇ね」
「どうして……?」
「どうしても何も、レインボーラインはいい馬じゃない。天皇賞秋で見せた根性といい、ジャパンカップでは上がり最速だったし。うまくコーナーで持ち出すか、ヤスナリ得意のイン付きを決めることができれば、勝ち負けも十分考えられるわ」
「まあ、僕としては初めから終わりまで同意なんだけど」
澤多莉さんは肩をすくめ、ため息をついてみせる。
「やれやれ。逆神のあなたと本命がかぶるなんて、今週もまたハズレかな?」
厳密に言えば、有馬の前日にある中山大障害の本命も同じだったのだが、あまりにも固すぎて買う気がしないということで、ノーカウント扱いになっている。まあそれは余談。
「まあ、グランプリレースってことでもあるし、たまには一緒に同じ馬を応援するのもいいかもしれないわね」
「……えっ」
「なんか知らないけど、今度の日曜日はやれ食事しませんかとか、やれなんとかランド行きませんかとかのオファーがやけに多いのよね。こちとら有馬記念に全力投球だっつーの」
澤多莉さんと出会ってまだ一ヶ月と少々。今度の日曜日に誘われることの意味を本当にわかっていないのか、すべてわかったうえで言っているのか。いまだに判断がつかない。
「聞くところによると、有馬記念の混雑は有明の某イベントにも匹敵するほどなんですって? 私とはぐれて迷子にならないように気をつけなさいよ」
そう言うと、滅多に表情を動かすことのない澤多莉さんが、激レアもののイタズラそうな笑みを浮かべた。
僕はその笑顔に魂を持っていかれそうになるのをなんとか食いとどめ、
「あっ、実はその日、指定席がとれたんで、だから---」
ここに至って、ようやくずっと言い出そうとして躊躇していたことを口に出せる。
自分が本当に情けないと落ち込む気持ち。
飛び跳ねたくなるほどに嬉しい気持ち。
どちらの方がより強いかというと。
圧倒的に後者なわけで。
(つづく)
◆有馬記念
澤多莉さんの本命 レインボーライン
僕の本命 レインボーライン
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