第5話 阪神ジュベナイルフィリーズ

 急展開である。

 僕はどうしたら良いのかわからなかった。


 シャンデリアが白色に照らす室内。

 対面のソファでは、天使が眠りに落ちている。

 二人を隔てるテーブルの上には、洋酒のボトルとグラスが二つ。そして、高級ブランドのものとおぼしき上品なお皿に盛られたおつまみは、なぜか暴君ハバネロだった。


 わけがわからない。

 僕は今、永遠に立ち入ることは有り得ない筈だった聖域に足を踏み入れていた。

 本当にわけがわからない。


 今にして思えば、発端はこないだの日曜日だったのだろう------



 先週の日曜日、中山競馬場のターフビジョンで二人とも大撃沈に終わったチャンピオンズカップの惨劇を見届けた後、澤多莉さんと僕は事前に話していたとおり、飲みに行くことになった。

 予定に反し、どちらの祝勝会でもなくなってしまったのはツラいものがあったが、それなりに安っぽすぎず高級すぎない、良い感じのオシャレ居酒屋を中山競馬場からの帰路にあたる某駅界隈に発見し、二人での初めての食事を過ごすことになった。


 先月二十歳の誕生日を迎えたばかりの澤多莉さんは、お酒を飲むのは生まれて初めてという。

 一方の僕もお酒はほとんど飲まないし、外食といえば松屋ぐらいしか行かないのだが(吉野家は声を出して直接注文しなければならないので苦手である)、ここは男のがんばりどころだろうと、店員さんがオーダーをとりにきたときには精一杯慣れてる感を出してみた。


「と、とりあえずビールにしようか? それともジュースっぽいやつもこっちにあるよ?」

「私は景虎で」

「……」


 澤多莉さんは人生初のお酒である銘酒・越乃景虎をかなりのハイペースでゴクゴク飲みながらも、顔色ひとつ変えることなかった。

 酒肴をつつきながら、交わした会話といえば。


「それにしても見事にあなたがぶった切った3頭で決まったわね。ねえ、もしかしてあなたって下手くそを通り越して、巷で逆神とか言われてない? 逆神テイオーなんじゃない?」

「それはバクシンね。ていうか、澤多莉さんにだけは言われたくないんだけど」

「何よ。実際あなたがまともに馬券当ててるの見たことないわ。やっぱり逆神よ。逆神合体ゴッドマーズよ」

「それは六神ね。それこそ澤多莉さんには言われたくないよ。大体、僕はここのところGⅠこそまともに当たってないけど、平場はちょこちょことってるから。それに澤多莉さんと会う前は、スプリンターズステークスとか秋華賞とかGⅠだってそれなりに……」

「見苦しい言い訳ね。言い訳するのはまさに逆神の特徴だわ。合肥の副将・李典と逆神よ」

「それは楽進ね。澤多莉さんこそ、大穴狙いばっかりしてたら、いつまで経っても当たりゃしないと思うよ」

「あら? そこそこ置きにいった予想して、豪快に外れ続けてるあなたの方がよほどみっともないと思うけど」


 終始こんな感じ。メニューは競馬関連の話題のみで、味付けは澤多莉さんの毒舌。

 つまりは、普段学内で交わす会話と何ら変わりはなかった。


 男女の色っぽい展開を期待するなんてことはさすがにおこがましくとも、これまで競馬以外の話を一切したことのない澤多莉さんの、何かしら違う部分を垣間見ることができるんじゃないかと期待していたのだが、それは儚い望みと消えた。


 結局、3時間近く競馬論議に終始し、その日はお開き。慣れないアルコールに幾分フラフラしてしまっていた僕とは対照的に、景虎を軽く五合ぐらいは飲んだ澤多莉さんは最後まで平然としていた。

 ちなみにお会計については、僕が支払うと申し出たところ、


「は? 何様のつもり?」


 と、冷たく一蹴されてしまい、ワリカンになった。まあ正直助かったが。


 それからいつものごとく、特に彼女とコンタクトを持たない月曜から木曜を過ごし、本日金曜日。いつものように四限の倫理学Aの授業中に落ち合って重賞の検討をするつもりでいたところ、当日急に休講。

 また学食で検討することになるのか、一段と周囲の視線がつらいだろうなあと思っていたが、今日は違った。


 澤多莉さんからの連絡で呼び出され、大学最寄駅から20分ほど電車を乗り継いだ某駅の改札を出たところで彼女と合流。


「いきなり休講って言われても困るわね。まあ、今日は一段と寒いし仕方ないか」


 確かに、古稀も近い教授にとって今日の冷え込みは堪えるだろうが、それで授業が休講になってもやむなしなのだろうか。


「まあ、折角だから今日は軽く飲みながら検討することにしましょう。あれ以来お酒の美味しさに目覚めちゃって。毎日飲んでるのよ」

「そ、そうなんだ」

「行きましょ」


 結構お嬢様の多い我が大学においても屈指の美しき才媛で、絶滅危惧種の『深窓の令嬢』ではないかとすら囁かれていた女性が、二十歳を迎えた途端、競馬に目覚め、アルコールに目覚めてしまった。

 取り返しのつかない事態を目の当たりにしてるんじゃないかという、不安と恐怖を抱きながらも、僕はスタスタ歩く彼女の後ろをついていった。


 歩くこと10分ほどだったろうか。

 澤多莉さんが足を止めたのは、住宅地の真っ只中、とりわけ瀟洒な一軒家の前だった。


「とうちゃーく」


 辺りにはお店らしき建物は見当たらない。もしや普通の家のような佇まいの隠れ家的名店だろうかと推測した僕だったが、その家の表札を見て、目玉が飛び出そうになった。


「え? え? え? ここって……」

「私ン家だけど?」

「……え?」

「さあどうぞ。誰もいないし遠慮しないで」


 門扉を開け、玄関ドアに鍵を差し込む澤多莉さんの後ろ姿を呆然と見つめること数秒。

 いささか近所迷惑な絶叫を上げてしまったのも無理のないことだろう。



 ------そして今、澤多莉さんの家のリビングに僕はおり、澤多莉さんは手を伸ばせば届く距離で無防備に眠っている。


 ここに通されると、テーブルにはすっかり用意が整っており、澤多莉さんは「今日やっと、父親の洋酒棚の鍵をやぶることに成功してね」などと穏やかでないことを言いつつ高級そうなウイスキーを何の躊躇もなく開けた。

 氷入りのグラスに琥珀色の液体を注ぎ、乾杯の一杯を喉に通すやいなや、彼女はコテンと眠れる森の少女。


 日本酒にはあれだけ強かったのに、洋酒にはひどく弱かったということだろうか。

 すやすやと眠る澤多莉さんと、どうしたら良いのかわからずオロオロする僕。


 困惑この上ない状況下ではあったが、普段なかなか直視できない澤多莉さんをまじまじと見つめることができる無二の機会でもあった。


 当然の摂理かもしれないが、美人は寝顔も美しい。白い照明に照らされた、きめ細やかで透きとおるような肌、目をつむっていても明らかな上品に整った目鼻立ち。

 長い髪を今日は赤いヘアゴムで結わっており、頰にかかる後れ毛が、あまりにも艶麗的すぎてクラクラした。


 そして、良くないと思いながらも、顔より下の方にもつい目が向いてしまうことに、抵抗するのは困難だった。


 ニットの服が美しく豊かな二つの膨らみを際立たせてて。

 スカートから伸びる白い足があまりにも綺麗で、あまりにも眩しくて。


 見てはいけない、下賤な視線で汚してはいけないと必死に思いながらも、一方では大それた考えが頭をよぎってしまったり。


 ……もしかして、これは俗にいう据え膳というやつなんじゃないだろうか?


 それを食わないのは男の恥だとネットで見たことがある。また、女性にも恥をかかせるよろしくない行為だとか何だとか。


 ここはむしろ男として、何もしない方がどうかしてるんじゃないか?

 男だったらヨダレのひとつも垂らしながら『デシシシシシ、いっただっきま〜す』とか言って、空中でズボンとパンツを脱ぎつつ飛びかかるのが正しい姿なんじゃないだろうか?


 いやいや、バカなことを考えちゃいけない。そんなこと許されるわけないじゃないか。

 この清らかな澤多莉さんを、僕のような人間がどうこうなんて、想像するだけでも百罰に値する。


 しばらく思考ばかりが堂々めぐりで、ソファから動けない僕だったが、ついに思いを決め、立ち上がった。

 ソッと音を立てないように澤多莉さんに近づく。

 自分の着ていたカーディガンのボタンをゆっくりと外し、静かに脱いだ。


 ……寝ている澤多莉さんに、上着をかけてあげるぐらい、してもいいだろう。

 部屋は空調が効いてるとはいえ、風邪でもひいてしまってはいけない。


 手に持ったカーディガンを、澤多莉さんの肩からかけようとしたその刹那、彼女はパチッと目を見開いた。

 メドゥーサに見つめられた者のように硬直してしまった僕に、抑揚なく問いかけてくる。


「何かイタズラした?」

「……えっ、あっ、い、いやいやいや、そんなことはまったく」


 口ごもる僕をさほど気にかける様子もなく、彼女は自分の額のあたりに手を当てて言った。


「まさか、おデコに『肉』って字とか書いてないでしょうね」

「いや、それは一瞬も考えなかった」

「ならいいけど。さ、少し睡眠とって頭もリフレッシュしたところで、日曜のレースの検討を始めることにしましょうか。早くタブレット出してちょうだい」


 かくして。

 結局はいつもどおり、競馬の検討を始める二人なのだった。


 グラス片手にタブレット画面の馬柱を見つめる澤多莉さんは、何だかやたらと様になっている感じがした。


「今週は阪神ジュベナイルフィリーズね。どの馬もまだ全然底が見えてないってことで、2歳馬のレースばっかりは難しいわよね」


 まるで古馬のレースは簡単であるかのような口ぶりである。


「ま、だからこそやりがいがあるってものね。ここで当たり馬券をゲットして、モノトーンの時間がいつの間にか奪っていった心の中のジュベナイルを取り戻してみせましょう」


 よくはわからないが、何やら威勢の良いことを言っている。


「一応逆神の意見も聞くだけ聞いてあげるわ。この夏こっそり三十路になっちゃった逆神先生の見解はどうなの?」

「それは独神のゆりちゃん先生ね。まあそうだなあ……確かに2歳馬の力関係なんかわからないよってところもあるんだけど、今回は思考停止でサンデーレーシングの4頭ボックスでいいんじゃないかなあ、って」

「なるほど、リリーノーブルとラッキーライラックとソシアルクラブと、あとロックディスタウンね……ってガチガチじゃない。ヘタしたら1番人気から4番人気になるんじゃないの?」

「うん。でも、今年の2歳戦は大体固く決まってるし、ここは他の陣営に割り込む余地はないのかなあって」


 聞きながら、澤多莉さんは暴君ハバネロを口に放り込み、ウイスキーで流し込むと、軽くため息をついた。


「相変わらずつまらない見解ね。つまらない上に、まったくの見当違いなんだから救いがないわ。その中に勝ち馬なんていないわよ。3着以内に入るのがいるかも怪しいところね」

「いや、いくら固くいくのが好きじゃないからって、根拠もなく否定するのはどうだろう」

「根拠はあるわよ」


 澤多莉さんはすっと馬の名前を指差した。


「まずソシアルクラブは論外。新馬戦1戦しかしてなくて、そのときとはコースも騎手も相手関係も違う。ここで買うのはリスクが大きすぎるわ」


 空中でペケの字を描くと、別の馬のところへと指を動かした。


「ロックディスタウンは夏に新潟と札幌で勝って、3ヶ月の休み明け。関西への輸送は初めて。こういうのはいらないのよ」


 またペケを付ける。


「ラッキーライラックは強そうだけど、前走は坂を登りきった後にグンと伸びてたわ。ゴールのすぐ前に坂がある阪神では前をつかまえられないんじゃないかしら?」

「そうだったっけ……」


 自信満々に言う澤多莉さんに、いささか気圧されつつも、最後の1頭は4頭の中でも本命視している馬なので、何とか反撃を試みてみた。


「でもこのリリーノーブルは相当強いよ。前走も条件戦ではあるけど、最後はほとんど追わずに勝ってたから」

「そういう馬が、いざ実力馬相手に全力追いしたところで、案外伸びない。よく聞く話ね」


 最後のペケを付けると、その指をこちらにビシッと向けてくる。


「これだけ不安要素のある馬ばかりを挙げて、他の陣営に割り込む余地が無いとかほざいちゃって。あまり笑わせないでもらえる?」

「じ、じゃあ、澤多莉さんの本命はどの馬なんだよ?」


 指をタブレットに下ろし、指差したのは1枠1番。


「最内に逃げ馬。このサヤカチャンも面白そうだけど、ちょっと力が足りないかしら。8月デビューから7戦目で、さすがに使いすぎな気もするしね。でも2着か3着に残るなんてことはあるかもね」


 虚空に三角印を描いてみせる。


「でも本命はこの馬」


 指が止まったのは、3枠6番のマドモアゼルという馬名だった。


「……はぁ〜」

「何よそのため息は?」

「いやだって、マドモアゼルって。どこに勝てる要素があるのさ?」

「たしかに。これまで距離は1400までしか使ってないし、福島、新潟、京都と直線が平坦で、阪神とはまったく違う特徴の競馬場しか経験がないわ。でも、だからこそ未知数の魅力があるとは思わない?」

「そんなこと言ったら、ほとんどの馬がそうだよ」

「あと前から行って崩れたことないっていうのも大きいわ。あなたが挙げたような有力な差し馬たちが後ろで牽制しあって仕掛けが遅れる中、前にいる穴馬が残ってしまう……こんなシナリオが私にははっきり見えるわ」

「うーん……」


 半信半疑よりも、疑いの気持ちは強いが、確かに絶対に無いとは言い切れない。

 澤多莉さんは指で二重丸を描くと、満足そうにグラスの液体を飲み干した。


「さあ、日本のGⅠで勝つ馬はわかったところで、香港国際競走の予想もしなくちゃね。4レースもあるから大変よ」

「あ、でもそろそろおいとましないと。おうちの人帰ってきたら気遣わせちゃうだろうし」

「何言ってるの? 家の人なんかいないわよ」

「え?」


 え? である。

 どういうことだろう?


「で、でもそのお酒、お父さんの洋酒棚から持ってきたって」

「今両親とも海外にいるから。この家には私一人で暮らしてるの」

「え?」


 え? の後、しばらくして状況を把握、心臓の鼓動が猛烈なダッシュを始めた。


 つまり澤多莉さんは一人暮らしをしていて、

 そこに僕は招かれて、

 今こうして二人で過ごしていて、

 夜を迎えようとしていて……


 驚きを通り越し、魂が違う世界にいってしまったかのようだった。失神しないでいられるのが不思議だった。


「つまり弄内洋太状態ってことね」

「それはちょっとよくわからないけど」


 かろうじて言葉を返すが、声がかすれてしまう。

 澤多莉さんはウイスキーのボトルを持つと、自身と、そして空いてもいない僕のグラスに琥珀色の液体を注いだ。


「さ、まだ夜は長いわ。検討しなきゃいけないレースはたくさんあるんだから」


 僅かに口元を綻ばせてみせる。

 この瞬間の澤多莉さんは、深窓の令嬢ではなく、妖艶な魔女に映った。


(つづく)



 ◆阪神ジュベナイルフィリーズ

 澤多莉さんの本命 マドモアゼル

 僕の本命 リリーノーブル

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