第4話 チャンピオンズカップ
金曜四限、西5号館301教室。
高い窓から差し込む陽光に三分の一ほどが橙に染まっている大階段教室。その最後列に座っている僕たちは、何ら遠慮のカケラもない視線の雨にさらされていた。
「まったくシャケトラには失望したわ。何がシャケトラよ、せいぜいサバネコがいいところじゃない」
倫理学Aの授業に出席している大半の学生が、後ろを向いて自分たちの方に目を向けていることなど相変わらず気にも留めない様子で、澤多莉さんはジャパンカップの総括を行なっていた。
僕のタブレットの横に何やら自作の資料らしきものを置き、妙なおもちゃのようなペンで熱心に書き込んだりしている。
「いや違うわ。サバだったら足が速いとか当たりやすいとかって意味合いが出てきちゃうから競馬的には相応しくないわね。ニシンよ、ニシンネコだわあんなやつ」
「ニシンとシャケの上下関係がわかりづらい気がするけど」
とか何とか会話しつつも、僕の方は教室中の注目をやり過ごせるほどの器量は持ち合わせておらず、オドオドと誰とも目が合わぬよう努めていた。
大半が後ろを向いていることに注意もせず、学生らの背中に向けて延々と読経のような講義を続ける老教授に恨めしい気持ちすら湧いてくる。
「ねえ、ひょっとしたら気のせいかもしれないんだけど」
「なに?」
「私って馬券当たらなさすぎじゃない?」
「うん、それは間違いなく気のせいではないと思う」
「そうよね。このままじゃ告別式のときタモさんに『あなたが競馬で勝っているところを見たことがありません』って言われちゃうわよね」
タモリさんが彼女の弔辞を読むかどうかはともかくとして、確かにそう言われてもおかしくない状態ではあった。
僕が同行しただけでも三回は競馬場に行き、数十レースは馬券を買っている澤多莉さんだったが、ただの一度も当たり馬券を手にしていない筈だった。
これがどれぐらいの確率なのかはわからないが、凄まじいまでの馬券音痴といって間違いない。
というより、穴馬からの少点数しか買わないのが当たらない原因と分かりきってはいるのだが、抑えの馬券を買ってみてはと勧めてみてもまるで聞く耳持たなかった。
澤多莉さんいわく「そんな保険かけるようなマネするぐらいなら、初めから馬券なんて割の合わないもの買わないわよ」だそうだ。
まあ、正しいかどうかは議論の余地があろうが、ひとつの考え方ではあるのだろう。
「まあ、ジャパンカップはお互い本命が掲示板にも乗れなかったってことで、引き分けだったわけだけど」
「いやいやいや、先週澤多莉さんが言ってた理屈だと、僕のレインボーラインが8番人気で6着、そっちのシャケトラは7番人気で11着だから、差し引き6ポイントで僕の勝ちってことになるじゃないか。それに、一応僕は抑えで買ってた3連複は当たってるからね」
「静かにしてもらえる? 授業中よ」
「うわー理不尽だなー」
「理不尽?」
こちらの応接が気に入らなかったか、澤多莉さんは僅かに眉根を寄せた。
しまった、またしても女性と話すときに口ごたえは厳禁という、ネットで得たノウハウを忘れていた。
「じゃあこんなのはどうかしら……コラッ、静かにしろ。ミナミは授業中なんだゾ」
幼なじみ感を醸し出す口調で、持っているペンのお尻でこちらの額をつついてくる。
途端にざわつく教室内。僕が自分でもわかるほど顔が紅潮してしまったのは、周囲からの視線があろうがなかろうが不可避だったことだろう。
「あ、あ、あの、そのペンなんなの?」
照れの極致に至った僕は、話を逸らすことしかできなかった。
「これ? 魔法の羽根ペン」
「何それ?」
「知らないの? エリカと交換日記したり、ポコ太が乗り物として使ったり」
言ってることはよくわからないが、今日も澤多莉さんは美しい。いつもストレートに伸ばしている髪を、今日は赤いリボンで結んでポニーテールにしていたりして、こちらとしてはありがとうございますとひれ伏すしかない完璧美女だった。
僕はこの人と一緒にいるこの状況が未だに現実ではないのではと疑わしく思えてくる。
まして周りの学生たちにしてみれば、ある日突然、学内一とも言われる美貌の才媛が、最底辺のダサい奴と親密そうにしている光景は、意味不明以外の何物でもないことだろう。
どうやら先週の学食での逢瀬(?)が衆目にさらされて以来というもの、澤多莉さんと僕のことは一大トピックとして学内を駆け巡っているらしい。
正真正銘のぼっちである僕には『オイオイ、聞いたぜ〜、お前あの澤多莉さんと付き合ってるんだって?』とか言ってくる、ライトノベルや18禁ゲームの便利な友人キャラみたいな奴はいないのだが、空気感でひしひし伝わってくる。
実際のところ、澤多莉さんと僕はどういう関係なのかと問われると、友人とすら言いがたい。まして恋人どうしなど畏れ多いにも程がある。そもそも月曜日から木曜日の間に澤多莉さんと会ったことは一度もなかった。
金曜日に同じ授業なり学食なりで落ち合って一緒に競馬の検討をし、日曜日に競馬場で落ち合って馬券を買って観戦する------こういう関係は世間一般では『競馬仲間』と言うのだろう。
東京開催もジャパンカップで終了を迎え、この関係性も終わってしまうのではと不安もあったが、澤多莉さんは表彰式で喜色満面の大魔神佐々木を尻目に「じゃあ来週からは中山ね。行ったことないから楽しみだわ」と言い、去っていった。
そして今、澤多莉さんは僕の隣の席で、僕のタブレットを自分のものであるかのように操作している。
「まあ、トリガミの3連複拾ったぐらいで『勝った勝ったヒャッホゥ、さあ服を一枚脱げ』とか言ってくる人間のクズは軽蔑だけしとけばいいとして、今週の検討に移ることにしましょうか」
「……まったく覚えのないことで軽蔑されても困るんだけど」
大学や競馬場以外で会ってみませんかと言いだすこともできず、いつもメインレースが終わったら帰っていく彼女を送っていくことすらできず、突然こんな美しい人と関われるようになった幸運を享受しながらも戸惑って身動きできないでいる僕の心中など知る由もなく、澤多莉さんは熱心にタブレット画面の馬柱を見つめている。
「いよいよ今週はジャパンカップダートね……っと、今はチャンピオンズカップって言うんだったわね」
「それは競馬歴四年以上の人が言える台詞だよ」
「それにつけても難解ホークスよね。何が勝つやら負けるやら、ダートの重賞ばかりは難しくてやんなるわ」
まるで芝の重賞は簡単であるかのような口ぶりである。
「それじゃまずは、こないだ見事3連複大的中の名人様のご高説から伺おうかしら?」
「おそろしいほどの嫌味だな……でも、実際難しくて、僕も本命を決めきれなくって」
「またまたぁ、ご謙遜を」
今度は羽根ペンとやらでこちらの頬っぺたをつついてくる。またどよめく教室内。
ゆでダコになった僕は、それをごまかすようにタブレットの画面に顔を向けた。
「あ、あの、でも、ダートって、JRAの重賞だけでなく地方交流もある上に、ここのところは代わりばんこで勝ってるって感じがあって、どれが強いのかわかりづらいっていうか」
「それなのよね」
澤多莉さんは難しそうな表情をしつつ、器用にペン回しをしてみせた。
「結局、絶対的に強い馬がいなくて、同じぐらいのレベルの中で、今回は誰が好走する番かって話のような気もするのよね」
まったく同感だった。
が、澤多莉さんはピタリとペンの動きを止めると、それをこちらに向けて言ってきた。
「でも、だからこそ勝ち馬をピタリと当てることができたら、さぞ快感なことでしょうね」
これまた同感。それを得るために、我々は競馬などという割りに合わず、ともすれば人に眉をひそめられるような娯楽に血道を上げているのだ。
「まあ人気しそうなのは破竹の勢いで勝ち上がってきてるテイエムジンソクだと思うけど、これは切りでいいわね?」
今日はどうしたのだろう。こうも澤多莉さんと意見が合うなんて。
「うん、今までトップクラスと戦ってきてないし、左回り初めてだし、鞍上も大舞台に慣れてないし、不安要素が大きいと思う」
「それで1番人気か2番人気になるんだったら、エルムステークスで直接勝ってるロンドンタウンの方が妙味アリってことになるわよね」
「そうそう」
「でも、ロンドンタウンも海外帰りだし、ちょっと厳しいかなとは思うけどね」
「僕もそう思う」
話が弾むとはこういうことなのだろう。嬉しい。多幸感で思わずにやけそうになる。
「さっき決めきれてないって言ってたけど、何頭かには絞れてるんでしょ?」
「うん、3頭で迷ってるんだけど」
「ほう、その3頭とやらを聞かせてみそ」
「みそって」
嬉し恥ずかしい心持ちを噛みしめ、僕はタブレット画面を指差した。
「へえ、ケイティブレイブ?」
「うん。何か4歳馬の中でこの馬は今年すごい成長した感じがするし、安定感もあるかなあって。前行く馬を見て好位で競馬したいところだけど、万一出遅れても強いってことは帝王賞で実証済みだし」
「なるほどね。他には?」
「やっぱりサウンドトゥルーも強いかなあって」
「昨年のチャンピオンね」
「うん。余程ペースが流れない限り、後ろからの馬は基本不利だとは思うんだけど、来るとしたらこの馬かなあって」
「フェブラリーステークスの時みたいなカニ走りさえしなければ、いつも一定の強さは見せるものね」
「そうそう。アレは乗ってた人がひどかったから」
「それでそれで、最後の1頭は?」
「これは来ると凄いことになるんだけど……この馬」
「ミツバ? 大穴じゃない?」
「そう。こないだのJBCクラシックでもかなり粘ってたし、実は好位から競馬できればすごく安定した成績残してるんだこの馬」
「なるほど、昨年のブラジルカップで横山ノリさんが開いた新境地が、今ここで身を結ぶってわけね」
「もしかしたら、なくもないかなあって」
「それじゃあなたの本命候補はケイティブレイブ、サウンドトゥルー、ミツバの3頭ってことね?」
「うん、まあ他にも気になるのはいるけど、この辺りでいこうかなあって」
「何そのしょうもない予想、バカじゃないの?」
時が止まった。
予期せずガケから突き落とされた人間は、何が起きたか理解するよりも先に地面に激突し、今の僕のような呆けた顔のまま五体がバラバラになるのかもしれない。
「さっきからだまって聞いてれば、くそトンチンカンな寝言をピーチクパーチク」
「全然だまっては聞いてなかったよね」
「まったく、一度あなたの頭をカチ割って中身を見てみたいものだわ。ちゃんと脳みそが入っているかどうか疑わしいものよ。大方『ごはんですよ』でも詰まってるんじゃない?」
ちなみに余談であるが、澤多莉さんと僕との会話は、終始お互いにしか聞こえない程度の絶妙な声量で行われている。
こちらを見ている学生たちも、深窓の令嬢然とした澤多莉さんが、こんな口汚い罵詈雑言を浴びせてるとは夢にも思っていないことだろう。
「じゃ、じゃあ澤多莉さんはどの辺りが来ると考えてるの?」
「私は3頭のどれか選べないなんて、ハーレムものの主人公みたいな情けないこと口が裂けても言わない。本命は1頭、勝つのは1頭よ。もう本命は決まったわ」
羽根ペンで、ゆっくりと馬柱の1頭を示す。
3枠6番・モルトベーネ。
「……相変わらず穴狙いだね」
「何よその呆れたような口調は? フン、あなたの目は節穴かしら? さっきヒントまであげたのにわからないの?」
「ヒント?」
「そう。最初に名前を出したテイエムジンソク、あれは間違いなく強い馬よ。ただ今回の舞台では力を出しきれない可能性が高いんじゃないかってことで切るわけで」
「まあ、それはわかるけど」
「そのテイエムジンソクに、ロンドンタウンは勝っている」
言いながら、資料の余白部分に馬名と不等号の記号を書き入れる。
テイエムジンソク<ロンドンタウン
「で、4月のアンタレスステークスのときには、モルトベーネがロンドンタウンに勝ってるのよ」
更に書き入れる。
テイエムジンソク<ロンドンタウン<モルトベーネ
「あなた小学生の算数ぐらいできるでしょ? 1番人気のテイエムジンソクより強いロンドンタウンより強いモルトベーネが最強って結論になるって寸法よ」
馬名の横に花マルなぞ書き入れている。
「いや……モルトベーネって、こないだのテイエムジンソクが勝ったレースで5着だったよね。その時点でその不等号式成り立たないじゃない」
「昔の人は言ったものよ……『ノーカウント! ノーカウント!』ってね」
「いやいやいや」
しかし、澤多莉さんは自信満々の顔つきだった。
「まあ要するに、それだけ力関係がわかりづらい状態だってことよ。私の本命と、あなたが言ったミツバあたりがどっちも飛び込んできて、100万馬券の大荒れなんてこともあるかもしれないわよ?」
そろそろ授業が終わる時間だ。澤多莉さんは手元の資料をしまいはじめた。
確かに、簡単に人気どころでは決まらなさそうな気配のこのレース、そんなことも起こり得るかもしれない。
改めてじっくり検討し、澤多莉さんも僕も見出していない穴馬を探してみるなんてこともしてみる価値があるだろうか。
「そうそう」
澤多莉さんは手を止めず、こちらに顔も向けずに言った。
「私、いつも東京競馬場には自転車で行ってるんだけど」
「え、そんな近くに住んでるんだ?」
「まあね。でもさすがに中山競馬場まで自転車で行くのはしんどそうなんで、今回は電車で行こうかなと思ってるのよね」
そりゃそうだろう。府中にも船橋法典にも自転車で行くとしたら、もはやロードバイカーである。
「そうなると、お酒が飲めるのよね」
一瞬よくわからなかったが、理解した。お酒飲んで自転車に乗ると飲酒運転になるが、電車なら問題ないということを言ってるのだろう。
「二十歳になったばかりだから、あまりお酒飲むお店とか知らないんだけど、今度の競馬の後、私の祝勝会兼あなたの残念会を開かせてあげてもいいわよ」
「えっ……」
澤多莉さんの相変わらず美しい横顔からは、感情は何も読みとれない。
チャイムが鳴ると同時に彼女は立ち上がり、髪につけてあるリボンがぴょんと揺れた。
「それじゃ」
大変なことになった。穴馬探しどころではない。難解なレースを予想するよりも、遥かに難しい作業が待っている。
女の子はおろか、友だち同士で飲みに行ったことなども一切ない身としては、丸一日以上かけて、徹底的にリサーチをする必要があるだろう。
どうやら日曜日は最終レースの後が本当の戦いになりそうである。
準備を怠るわけにはいかない。
(つづく)
◆チャンピオンズカップ
澤多莉さんの本命 モルトベーネ
僕の本命 ケイティブレイブ
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