第3話 ジャパンカップ

「要するに、テン乗りのジョッキーがレイデオロにノコノコついてっちゃって沈んだダービーと、不良馬場でさっさと温存モードに入った富士ステークス以外は全て馬券になってたペルシアンナイトを軽視したのが敗因という結論になるわけね。ミルコどうこうでなく。理解した?」

「う、うん。まあ澤多莉さんの本命は13着だったわけだから、それ以前の問題って気もするけど」

「かっちーん」


 澤多莉さんは手に持っていたオレンジジュースを静かに置くと、本当にカチンと来ているのか窺い知ることのできない無表情の顔を近づけてきた。

 未だに女性に対する免疫不全症が快癒する兆候のない当方は、どぎまぎして背中に雨のごとく汗を流し、つい顔を逸らして辺りをキョロキョロしてしまう。

 と、周囲からどよめきとともに好奇な視線を送られていることに改めて気付き、更なるキョドり具合を披露してしまう。我ながらみっともないことこの上ない。


 そんなこちらの情けない振る舞いにも、辺りから注がれる無遠慮な視線にも一切頓着せず、澤多莉さんはこちらをじっと見据えたままなじってくる。


「まるで本命馬が5馬身ぐらいぶっちぎって勝ったかのような物の言いようじゃない。私のダノンメジャーは16番人気で13着、あなたのレッドなんとかは3番人気で8着だったと記憶してるけど?」

「う……」

「つまり見方を変えると私はプラス3ポイント、あなたはマイナス5ポイントの成績なわけで、差し引き8ポイント分の大差で私が勝利を収めたと言えるんじゃないかしら?」


 返す言葉が出てこない。彼女の言に正当性があるからではなく、数センチの距離まで顔を近づけられ、息もできない状況に追い詰められているためである。

 もし僕がお調子者のイタリア人であるならば、ありがたく接吻させていただく状況かもしれないが、それとは対極にいるチキン野郎であるため、澤多莉さんの透き通るようでありながらも艶やかな唇は汚されずに済んでいる。


 周囲からの視線は段々増えてきており、どよめきはどんどん大きくなってきている。

 それはそうだろう、学祭のミスコンにエントリーしていればグランプリ候補の一角だったと言われている学内有数の美女が、顔も服装も醸し出す雰囲気も全く冴えないぼっち人間と親密そうに(見えるであろう距離で)会話をしているのだ。

 どんな天変地異があったのかと、学食に居合わせた生徒たちは、ちょっとしたパニックに陥っている模様だった。


 余談ながら、ここに来たのは入学直後にうっかり足を踏み入れてしまって以来、およそ一年半ぶりだった。

「リア充なんて言葉も知らないぐらいにリア充ですボクたち」といった様子の、キャンパスライフを満喫しきっている、つまりは僕とは世界観が違う男女たちのヒャッハー具合に恐れをなし、ほうほうの体で逃げ帰ったあの日のことは今でもちょっとしたトラウマなのだが、まさかこうしてこの場所に女性と一緒に座ることになるとは。人生とはつくづくわからないものである。


「まあ、過ぎたことをいつまでも言っていてもしょうがないわ。私はあなたには勝ったものの、惜しくも的中は逃したわけだけど、反省は反省として先に進まないとね。目が前に付いているのは何でだか知ってる?」

「前へ前へと進むためでしょ?」

「あら。意外と教養があるのね」

「のび太の先生が言ってた台詞だよねそれ」


 学食の片隅、澤多莉さんと僕は横並びで座っていた。テーブルにはそれぞれの飲み物の入った紙コップとタブレットが置いてあり、画面を眺めてはああだこうだ言っている二人は、瞬く間に注目の的になった。

 ハタから見たらカップルに見えるのだろうか。何となく優越感めいたものも薄っすら抱いたものの、どえらいことになってしまったと恐れおののく気持ちの方が遥かに大きい。

 おそらく数十分後には、あの澤多莉さんがヘンなキモい奴と一緒にいたという噂は大学中を駆け巡っていることだろう。僕の冴えないながらも平穏だった大学生活は今後どうなるのだろうか。


 祝日と土日に挟まれた金曜日の本日。大学教授というのはよほどお気楽な商売なのか、先生方の多数が休みをとっており、多くの授業が休講となっていた。

 先週先々週と澤多莉さんと顔を合わせ、最後列の席でコソコソ競馬談義をしていた倫理学Aの授業も御多分に洩れず休講。今週は会えないのかなと思っていたところ、つい30分ほど前に通信アプリにて呼び出しのメッセージが届き、今に至るというわけだった。


「マイルチャンピオンシップの感想戦はここまで。今日の本題はこっちよ」


 澤多莉さんはこちらの動揺も、周囲の注目もまったく意に介さず、平然とした様子で僕のタブレットを勝手に操作する。

 画面には、ジャパンカップの馬柱が表示された。


「まあ、聞くまでもないんだけど、あなたの本命馬を聞いてあげるわ。さあ、あなたのジャパンカップ本命は何サンブラック?」

「それ一択だよね……でも、今回僕の本命はキタサンブラックじゃないんだ」

「あら」


 澤多莉さんは意外そうに首をかしげた。


「おかしいわね。いつもありきたりで、平々凡々で、面白みのまったくない予想しかしないあなたがここでキタサンを選ばないなんて。何か不安要素でもあるのかしら?」

「そこまでガチガチの本命党でもないつもりだけど……でもまあ、やっぱりキタサンブラックは強いと思うよ。特に今回、競りかけてくる馬もいなさそうだし、枠も最高だし、まず勝ち負けだとは思う」

「じゃあ何で本命にしないの? 巷で囁かれてる天皇賞での疲れがあるんじゃないかってこと?」

「うーん、その辺はわからないけど、あの天皇賞含めてこの秋3戦目になる馬はともかく、2戦目の馬はそんなに気にしなくていいんじゃないかなあって」

「じゃあ何でキタサンブラック本命にしないの? サトノクラウンの逆襲があると見てる? それともダービー馬レイデオロが古馬を一掃する強さを持ってる?」

「いや、確かにその辺も怖いけど、 実は今回、僕の好きな馬が出てて」

「好きな馬?」


 ますます深く首をかしげて、ほぼ頭が下を向くような不自然な体勢になるが、澤多莉さんは表情を変えない。


「そう。レインボーラインなんだけど」

「レインボーライン?」


 この馬の話をするときばかりは、僕も美女相手だからといってドギマギしていたり、周囲の視線を気にしていたりはいられない。

 僕が競馬にのめり込む大きな一因となった、愛してやまない推し馬のことを是非この人に聞かせてあげたい。


「そう。話すと長くなるんだけど」

「だったらいいわ」


 速攻で却下されて、無の空間に迷い込む僕を気にもとめず、澤多莉さんは再びタブレットを操作する。


「まあ、前走の3着は重馬場が向いたんだろうけど、良馬場でもなかなかの末脚使ってるから、伏兵としては悪くはないわね。キタサンがロンスパの消耗戦を仕掛けたとしたらまた後ろから3着ぐらいには飛び込むかもしれないわね」


 とても二週間ほど前に競馬に出会った人とは思えない見解を述べる。


「まあ、応援している馬がいるんだったらその馬から買った方が後悔しなくて済むでしょうね。どうせマヌケなあなたのことだから、おおかた天皇賞のときに応援は応援、馬券は馬券なんて小賢しい浅知恵でレインボーラインを切るか3列目のヒモぐらいに留めて、猛烈に後悔なんてアンポンタンなマネでもやらかしたってところでしょうけど」

「ぐ……」


 なぜか図星を突かれ、僕の胸はひどく抉られた。

 でも彼女の言うとおり。応援してる馬ががんばってくれたのに一緒に喜べないほど無残なことはない。それなら馬券でも心中して、負けを一緒に味わう方がはるかにマシなのだと僕は知った。


「ま、まあ、だから今回は半ば勝ち負け度外視でレインボーライン中心にいこうと思ってるんだ」

「とか言いつつ、女々しいあなたのことだから、どうせそれ以外の馬で構成された馬券も買うんでしょうけど」

「ぐぐっ……」


 またしても図星。


「まあキタサンブラックは当然入るとして、有力馬だけどちょっとだけ穴目の4〜6番人気あたりを好んで買いたがる典型的養分のあなたが選びそうな馬はと……」


 もはや完全に悪口である。


「ま、この辺でしょうね」


 指差したのは馬柱の一番端っこ。1枠1番のシュヴァルグランだった。


「正解です……」

「でしょうね。キタサン同様宝塚記念では大敗したものの、実績は折り紙つきで東京でも結果出してる。ローテも良くて2戦目にも強いときてるものね。デムーロが乗らないってだけで人気下がるんなら抑えておきたい1頭だとか、あなたの考えそうなことよ」


 出会ってそんなに間もないのに、一体なぜそんなに見透かされてるのか。

 屈辱すら感じ、何とか反撃の一手を打つべく、僕も馬柱を凝視した。


「そういう澤多莉さんは、何を本命にするの?」

「何を本命にすると思う?」


『血液型何型だと思う?』みたいな口調で聞いてくる澤多莉さん。完全に挑発である。


「さ、澤多莉さんのことだから、おおかた……」


 指が8枠15番を差しそうになるが思い留まる。そこまでメチャクチャな選び方をすることもないだろう。

 内目の枠の1頭を差し直す。


「こ、このあたりじゃない?」

「ほう。サウンズオブアース?」

「そう。近走振るわないのは決して衰えなんかじゃなく、海外がダメだったり、横山典さんと手が合わないって判断してるんじゃない? 元々去年は2着の実力馬だし、府中でしばしば人気薄持ってくる田辺騎手が一発やってくれるとか?」


 言っているうちに、こちらとしてはまったく買うつもりのなかったこの馬のことが気にかかってくる。

 澤多莉さんは少しだけ口元を綻ばせたように見えた。


「ちょっと。私のこと何が何でも穴馬からいく穴女だと思ってるんじゃないの? いやらしい、やめてもらっていいかしら」

「い、いや、そんなつもりじゃないんだけど」


 そんなつもりだった。


「私の本命はこの馬よ」


 指差したのは、7枠13番のシャケトラ。

 確かにレインボーラインよりは人気ありそうだが、それでも伏兵には違いない。ちなみに前走の天皇賞秋は15着。


「この馬、あなたの大好きなレインボーラインを日経賞で完膚なきまでに叩きのめしたじゃない?」


 もちろん知っている。ていうか現地にいて、勝つどころか3着にも入れず、膝から崩れ落ちたものだった。


「あれ以来、天皇賞春は出遅れた上に距離長すぎだったり、宝塚記念は差し有利なのに先行しちゃったり、天皇賞秋は参考外の不良馬場だったりと、明らかに真価を発揮する機会に恵まれてないのよね。良馬場の東京で、あなたの大好きなレインボーなんちゃらとかいう駄馬に影も踏ませなかったあの末脚を使えれば、ここは勝利間違いなしなんじゃないかなあって。パートナーの福永がニヤニヤしながら『いわたくん、シャケトラ強いで。ヌヘヘ』とか言ってる姿が目に浮かぶわ」


 いくら澤多莉さんが抜群の美貌の持ち主とはいえ、言っていいことと悪いことがある。

 贔屓にしている馬を駄馬などと侮辱されて黙っていたら、競馬野郎の風上にも置けないだろう。


「シャケトラ? ちょっとセンスないんじゃない? いかにも競馬始めたばかりの初心者が名前で選びそうな馬じゃない?」

「かっちーん」


 ちょっと攻め手が無理筋だったろうか。僕は澤多莉さんに反撃するための次なる一手を探す。

 いつの間にか、学食内で僕たちの様子を伺っている人たちは、ちょっとしたギャラリーぐらいに増殖していたが、今はそんなこと気にしている時じゃない。


 僕のレインボーラインと澤多莉さんのシャケトラの戦い。

 ジャパンカップの前哨戦を何とかものにするため、僕は懸命に言葉を紡いだ。


 何とか取ることのできた指定席で一緒に観戦しましょうと、清水の舞台から飛び降りるつもりで誘おうと思っていたこともこのときは忘れて。


(つづく)



 ◆ジャパンカップ


 澤多莉さんの本命 シャケトラ

 僕の本命 レインボーライン

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