第2話 マイルチャンピオンシップ

 手元のタブレット画面には物凄い量の情報が表示されているが、どうにも頭の中でそれを取りまとめることができない。

 僕は馬柱から目を離し、今日だけでも100回目ぐらい、日曜日から本日までで8万回目ぐらいになるであろう深い溜息をついた。


 金曜四限に履修している総合基礎科目・倫理学Aの授業。年度が始まって以来、ずっと重賞の検討をする時間として過ごしてきているが、こうも集中できないのは初めてのことだった。

 老教授によるお経の詠唱のような講義にいたっては、始めから耳に入ってくることすらない。


 最後列から教室内を見渡してみる。スマートフォンを操作している学生が最も多く、他には漫画雑誌を読んでいる者、明らかに別科目のレポートを書いている者、歓談している男女グループ、中には真面目に講義を聞いている変わり者もいる。

 でも、どれだけ探しても澤多莉さんの姿はどこにもなかった。


 誰もいない、何も置いてない隣の席。

 先週のこの時間、彼女はここに座っていた。あれは夢か幻だったのかもしれない。そして日曜日の東京競馬場も。

 また溜息。本日150回目ぐらいになるだろうか。


 日曜日のことを思い返すと、衆目の中であっても、手足をバタバタさせ叫び出しそうになってしまう。

 やはりあの日、僕はしくじったのだろう------



 快晴の空の下、東京競馬場フジビュースタンドからの眺望は、その名の通り富士山なんぞも見えたりする最高の景色だった。

 そしてもちろん、僕に見晴らしを堪能する余裕など、一切あるはずもなかった。


 隣の席に澤多莉さん。いつも学内ではお嬢様然とした清楚な服装であることが多いのだが、この日は動きやすさを重視したのかカジュアルなパンツスタイルだった。

 多分みんなが知らないような澤多莉さんが僕の隣にいる。こんな日が来るなんて誰が想像できただろうか。

 気温はそこまで高くなかった筈だが、僕は吹き出す汗への対処に難儀しており、ほとんど口を開くこともできなかった。

 一方の澤多莉さんは平然とした表情。競馬場の醍醐味の一つである客席からの景色を初めて目の当たりにしても特段の感動は表明せず、手元の競馬新聞をつぶさに見て馬券の検討にいそしんでいた。


 あの時は気が回らなかったが、もしかしたら彼女はつまらないと思ってたんじゃないだろうか。いや、そうに違いない。

 そういえばパドックを見ているときも、内馬場に行ってみたときも、外ラチ沿いでレースを間近に見たときも、彼女はついぞ笑顔を見せなかった。

 こちらが清水の舞台から飛び降りる思いでバースデープレゼントを渡したときも、特に表情を変えずに「はい、受領します」とひとこと言っただけだった。


 これも失敗だったのだろうか。何を贈るか何周も考えを巡らせ、初めて言葉を交わした翌々日にあまり高価なものをプレゼントするのは引かれるんじゃないかと、馬のぬいぐるみキーホルダーを選んだのは間違いだったのか。

 やはりこういうときはバーキンだったか。関係性や年齢を問わず、男は女にバーキンを渡すのが定跡なのか。


 そして、何がマズかったって、馬券の戦果が甚だよろしくなかった。

 僕の方は、大体外れてたまに当たって、結果はややマイナスといった、いつも通りの冴えない塩梅だったが、澤多莉さんの方は見事にフルスイングの空振りを連発していた。

 というのも、彼女はその日馬券デビューしたビギナーにも関わらず、5番人気以内の馬はほぼ買わないという大胆な穴党で、しかも少点数の購入ばかりだった。これではそうそう当たるものではない。


 次々とハズレ馬券が積み重なっても、彼女は淡々と検討して淡々と馬券を買い続けた。

 唯一感情らしきものを覗かせたのは、段々フォローの言葉もなくなってきた第10レースのこと。澤多莉さんが1点買いしていた3連複の買い目が1、3、4着。


「うわ〜! 惜しい! シュミノーさえ2着に来なければ当たってたよそれ! 10万円以上ついてたんじゃないの!? うわ〜!!」

「ほんと、じゃまくさい」

「……」


 彼女がボソッと呟いたのは、シュミノーのことか、それとも横で勝手に興奮して騒いでた僕のことだったのだろうか。


 そして極め付けは先週の授業中一緒に(?)検討したGⅠ・エリザベス女王杯。

 僕の本命ヴィブロスは5着、そして澤多莉さんの本命ジュールポレールは18頭中の16着という大敗だった。もちろん双方とも馬券は紙くずと化した。


 ターフビジョンに映る京都の惨状を呆けたように見つめ、僕は何も言葉を発することができなかった。冷たい風が頰に吹きつける。


「なるほどね」


 ボソッと呟き、隣の澤多莉さんは席を立った。東京最終レースのパドックを見に行くのかと思いきや、


「じゃあね」

「あ、え? か帰るの?」

「帰るわ。じゃあね」


 ここまでの流れを踏まえ、『じゃあね』を2回言われた僕には、後をついていく胆力などある筈もなく、ただただ彼女の美しい後ろ姿を見つめるばかりだった。


 そして、その日以来、僕は彼女の姿を一度も見ていない。



 ------あれはやはり俗に言う失敗デートだったのだろう。いや、そもそも澤多莉さんはデートだなんて思ってもなかったのか。


 タブレットの横に置いてあるスマートフォンを操作してみる。IDを教えてもらった通信アプリは、競馬場で合流するときのみ使用されており、それ以来メッセージのやりとりなどは一切行われていない。

 あの日の夜『今日はありがとうございました』と入力してみたものの、送信することはできなかった。

 翌日は『昨日はありがとうございました』、その次の日は『おとといは〜』、更に次の日は『先日は〜』とメッセージを作成するも、どうしても紙飛行機のマークを押下することはできなかった。


 考えてみれば、初めて競馬場に行ってみたところ、同行者のバカ男からはろくなホスピタリティを提供されず、馬券はことごとくハズレのボウズに終わったわけで、彼女にしてみれば冗談じゃないって話だろう。

 これで僕のことはもちろん、折角興味を持ちかけてくれた競馬のことまで嫌いになってしまったに違いない。


 スマートフォンの画面がじわじわにじんで見えづらくなってきた。タブレットの画面も同様である。

 故障かな、参ったな。気を取り直してマイルチャンピオンシップの検討をしたいのに。


「エアスピネルの乗り替わりをどう捉えるかが問題よね。武豊の足の状態を鑑みてってことだけど、果たしてテン乗りのムーアが乗りこなせるかどうか」


 突如耳に入ってきた透き通るような声に顔を上げると、いつの間にか傍らに女神が降臨していた。


「あら、何で半ベソかいてるの? 昨晩見た『あゝ野麦峠』のことでも思い出しちゃった?」

「い、いや、見たことないけど」

「そう。名作だから機会があったら観るといいわ。それより後ろ通してくれない? 友達いないぼっち君のことだから、隣空いてるんでしょ?」

「あ、う、うん」


 慌てて椅子をひいた僕の後ろを悠然と通り、澤多莉さんは隣の席に腰を下ろした。

 いつもながらに美しく、気品を感じさせる佇まいだが、出てくる言葉はその辺りのお嬢さまとは大きな隔たりがあった。


「明後日はマイルチャンピオンシップね。名前のカッコ良さでは1、2を争うレースだし、何とか当てたいところよね」


 言いながら机の上にバッグを置く。シンプルなデザインの赤いバッグは、値段とかはわからないが、何となく高価そうな物に思えた。


「さあ、あなたがどんなトンチンカンな予想を立てているのか、とくと聞かせてもらおうじゃない」

「あ、うん、そうだね……」


 溢れる多幸感に溺れてはいられない。日曜日をともに過ごしても、この人がどういう人で何を考えているのかサッパリわからなかったが、始めたばかりの競馬には極めて真剣に取り組んでいた。

 こちらもいい加減な姿勢でいるわけにはいかないと、改めて馬柱を眺める。


「どうせありきたりな思考回路の持ち主である、ありきたりな男子大学生のことだから、この距離で安定した実績を残してるイスラボニータが有力なんじゃないかとかありきたりなことを考えてるんでしょうけど」

「う……」


 否定はできなかった。


「でもどうかしらね? このレース3回目の挑戦、安田記念も含めたマイルのGⅠってことでいえば5回目の挑戦で悲願の優勝なんて安っぽいシナリオが実現した日には、みんな呆れてこういうでしょうね。『笑い飯かっ!』って」

「誰も言わないと思うけど……それにしても相変わらず初心者とは思えない詳しさだね」

「こないだちょっとだけ負けちゃってから、丸5日間部屋に引きこもって競馬の研究してたから。今の私には大川慶次郎が憑依しているといっても過言ではないわ」

「それで学内で見かけなかったんだ……授業出なくて大丈夫なの?」

「笑止」


 こちらの心配を一言で切って捨て、澤多莉さんは白魚のような指でタブレットを差した。


「でも、前哨戦の富士ステークスではエアスピネルに負けてるわよ」

「あれは不良馬場だったから。今回そこまでは雨降らないと思うし、それにエアスピネルには、さっき澤多莉さんが言ってた不安もあるかなって」

「ベストパートナーの武豊から、ライアン・ムーアへの乗り替わりね。吉と出るか凶と出るか。いっそ単勝をしこたま勝って、直線で『ライアン!』て叫ぶのも一興かしら」

「本当に大川慶次郎が憑依しちゃってるよ、それ」

「それにしても、本当に乗り替わりの理由は足の怪我なのかしら? やっぱり不倫疑惑の件があって、懲罰的な意味合いもあるんじゃないかなーとか思ったりなんかして」


 案外下世話なことを言ってくるが、特段好奇の表情を浮かべるでもなく、いたってフラットな澤多莉さん。


「さあ、それは関係ないんじゃないかなって思うけど」

「でもあのインタビューの感じだと、相当奥さんに絞られたことでしょうね。あと奥さんのお父さんにも怒られたんじゃないかしら? 『ふざけんじゃねえよバカヤロウ! こんなマズいラーメン作りやがって!』って」

「ラーメンの佐野さんは佐野量子のお父さんじゃないよ? あと故人だし」

「まあ真相はともかく、武豊もエアスピネルから、さすがにノーチャンスっぽいジョーストリクトリに乗り替わりだから好い面の皮よね……って、ちょっとぉ」

「?」

「なに女性の口からジョーストリクトリって言葉が出てきたからって、ひそかに興奮を覚えてるのよ。不潔ね」

「いやいやいやいや」


 泡を食って否定する僕に、澤多莉さんはしばし冷ややかな目を向けていたが、ほどなくタブレットに視線を戻した。


「まあ、冗談はさておいて、他に有力そうなところといえば……」


 冗談を言ってるような雰囲気は一切ないから、こちらとしては非常に応接に困る。


「でも、こうして見てみると、今回はバッサリ切れそうな馬が多くて簡単よね」

「え、そうかな? むしろ難しいと思ってるんだけど」

「愚かね。オロカ八傑衆ね。頭は帽子の台じゃないんだから、たまには使った方が良いわよ」


 何やらひどいことを言われる。


「たとえばサトノアラジンなんて、土曜日雨で馬場が渋りそうな上に、苦手な内枠ってことで用無しと判断できるんじゃない?」

「うーん、でも今年大敗したのは極端な道悪だからなあ。日曜日晴れて稍重ぐらいに回復したら、実力は上位だし、わからないと思うよ」

「条件戦から4連勝のサングレーザーは、ちょっと人気しすぎよね?」

「うーん、でも重賞まで強い勝ち方しちゃったから。一気にGⅠとるってこともあるんじゃないかな」

「ペルシアンナイトはさすがに大外だし厳しいわよね?」

「うーん、でもデムーロだよ?」

「マルターズアポジーは無いわよね。ことわざでもあるものね。『逃げるは恥さらし、役立たず、ハゲ』って」

「先週と言ってることが違うじゃない。あとそんなことわざはないよ」

「……」


 口を噤んでしまった澤多莉さんを前に、こちらは失敗に気づき、思わず頭を抱える。

 しまった。先週一緒に競馬場行く前に散々調べたところによると、女性と会話する中で、相手の言うことを否定するのは下の下の下、どんなに的外れなことを言ってたとしても、ただひたすらにうんうんと頷いておけば良しと、ネットの誰かが言ってたんだった。


 時すでに遅し。ただでさえ無表情に近い澤多莉さんの視線は、更に冷たくこちらを刺していた。

 細く綺麗な指で、とんとんとんとんタブレット画面を叩く。


「じゃあ何? 明後日のレースはみんな一緒にゴール板を通過して、みんな仲良くいっとう賞的な、ゆとり教育の権化のような惨劇が繰り広げられるっていうわけ?」

「い、いや、そうは言わないけど」

「だったら」


 指を止め、しっかりとこちらを見据えてくる。


「男らしく、最初にゴールするであろう馬を1頭、つまりは本命馬を決めなさい。さあ決断の時よ」


 もちろん、レース二日前なのでまだまだ考えて良いところなのだが、澤多莉さんの言葉と目には、それに応えなければと思わせる何かがあった。


「やっぱりイスラボニータ? それともミルコ・デムーロがペルシアンナイトで今年のGⅠ6勝目? ムーアがエアスピネルを最高のエスコートしてユタカさん涙目?」

「いや……」


 確かにそのあたりも有力だろう。だが。


 僕は肚を決めて、馬柱の中の1頭を指差した。4枠7番・レッドファルクス。


「ほほう。デムーロはデムーロでも弟の方ってことね。その心は?」

「やっぱりスプリンターズステークスを連覇した末脚は強烈だし、安田記念のときも外出すのに手間取った割にはすごい伸びで3着に入ったし、初めて走る京都コースさえ合えば、ぶっちぎりもあるんじゃないかなって」

「なるほどね」


 澤多莉さんは、しばし僕が指差した先を見つめた。


「奇遇なこともあるものね」

「え? それじゃ澤多莉さんも?」

「ええ、私の本命は……」


 スッと、こちらに重ねるように白い指を置いてきて、動悸が跳ね上がった。

 澤多莉さんの指は、僕の指にぎりぎり重ならない位置で静止した。


「ダノンメジャーよ」

「嘘だろ!?」


 思わず声のトーンが上がってしまい、何人かの学生が振り返ってくる。

 誤魔化すように咳払いしつつ、彼女の指差した先を信じられない思いで見つめる。


「本当に奇遇ね。まさかあなたの本命と私の本命が、隣の馬番なんて」

「ま、まあこの際それはいいとして……ダノンメジャー? 全然人気ない馬だよ? 一体どうして?」


 実際、おそらく単勝100倍はつくであろう、まず勝つことはおろか、3着以内に入ることはあり得ないだろうと思われる馬だった。


「フフ、大方マルターズアポジーに振り落とされる、力の足りない先行馬の1頭ぐらいに思ってるんでしょうね」

「まさしくその通りだけど」

「浅はかね。浅はか光代ね。この馬の戦績をよく見てごらんなさい」


 タブレットの画面を、ダノンメジャーのこれまでの競走成績の表示に切り替えてみる。


「よく見てご覧なさい。昨年末から今年初めまででGⅢ3連敗して、その後約3ヶ月休養とって、ここで馬が成長を遂げているわ。3歳や4歳のときには歯が立たなかったオープン戦で2勝もしてる」

「うーん……」

「わかってる。レースのレベルが大したことないって言いたいんでしょ。でも、逃げ・先行の競馬に馬が段々慣れてきたってこともあるんじゃないかしら? 久々の重賞挑戦のスワンステークスでは体重+12キロ、しかも外枠だったのに堂々の5着。ここメイチで出てくれば十分勝負になるんじゃないかしら」


 言われてみればそんなような気もしてきてしまう。が、こちらの心変わりを許してくれる澤多莉さんではない。


「明後日が楽しみね。あなたのレッドファルクスと私のダノンメジャー、秋のマイル王の栄冠に輝くのはどっちか。東京競馬場で土下座をしてるあなたの姿が目に浮かぶようだわ」


 え? ……ということは?


 チャイムが鳴ると同時に、元々さして緊張感のなかった教室内は、更に弛緩して、ゆるゆるの空気になる。

 そんな中、澤多莉さんと相対している僕だけは、異常に緊張していた。


「えっと……それって」

「次は負けないわよ」


 あっさりと、何らの意思も篭ってないかのように言い、彼女は席を立った。

 手にとった赤いバッグの、さっきまで見えていた反対側の面に何かが付いていることに気づいた。


「あ」


 持ち手のところにくっついている馬のぬいぐるみがプラプラ揺れて、こっちを向いた。


(つづく)



 ◆マイルチャンピオンシップ


 僕の本命 レッドファルクス

 澤多莉さんの本命 ダノンメジャー

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