UMAJOの澤多莉さん

氷波真

第1話 エリザベス女王杯

 大学内でも屈指の大階段教室である西5号館301教室の最後列で、僕は手元のタブレットをいじりいじり、思考の海に没入していた。


 黒板も使用せずに一本調子で解説書を読み上げる老教授の声は、脳裏に滞留することなく右から左に流れていく。

 毎週出席だけはきっちりとる講義なので、教室内は多くの学生がひしめいているが、その大半はスマホをいじったり、本を読んだり、私語に花を咲かせたりと、僕同様に講義など聞いてやいない。

 あと二年で退官という老教授はその状況に対して何一つ措置を講じないどころか、何らかの意思表示すらも見せず、淡々と解説し、終了を告げるチャイムが鳴ると、どんなに解説が中途半端であっても本を閉じ、立ち去っていく。


 つまり、今講義が行われている金曜四限の総合基礎科目・倫理学Aは、内職をするのにはうってつけの時間なのだった。

 更にありがたいことに、僕は金曜三限に何も履修しておらず、この教室は使用されていない空き教室となっているため、講義開始の一時間前には教室に入って最後列の席を確保することができる。後ろの席の奴が興味本位でタブレットを覗いてくる心配もない。


 僕は画面に溢れかえっている膨大な情報を整理し、どうにか最適解を導き出そうと、懸命に思考を巡らしていた。

 指を動かし、画面を馬柱からミッキークイーンの過去競走成績の表示に切り替える。

 すこぶる鉄砲が利く上に、関西では一度も複を外していない。やはり切るわけにはいかないだろうか。


 ふと背後に人の気配を感じる。遅れて来た学生が同じ列に着こうとしているのだろう。僕はタブレットから目を離さぬまま、軽く足と尻で自分の椅子を引いて通り道を空けた。

 と、あろうことかその人物は僕の隣に座ってきた。椅子に置いてあった僕の鞄を放り投げるように更に隣に動かして。


 何事かと動揺してそちらを見る。

 そこには、澤多莉さんがいた。


 呆然。そしてパニック。

 危うく悲鳴のような声が出そうになるのを、必死にくいとどめる。


 隣席の男子のことなど気にかける様子もなく、バッグからノートや筆記具を取り出す澤多莉さんの横顔に一秒で吸い込まれる。

 長く艶やかな髪、透明感のある色白の肌、整った目鼻立ち、そして均整のとれた身体つき。白いブラウスに薄いオレンジのカーディガンという清楚な服装が実によく似合っている。

 女子の多い学科の中でも、間違いなくトップクラスの美貌の持ち主であることは、女性との触れ合いを持たぬまま成人を迎えてしまい、審美眼ばかり異様に厳しくなってしまったこじらせ男子から見ても間違いのないところだった。


 入学して一年半、これまで会話どころか半径五メートル以内に近づいたことすらなかった天上人が、他にいくらでも席は空いているのに、わざわざ僕の隣に座ってきた。置いてある鞄をどけてまで。

 幸運とかの次元ではなく、あり得ない事態に僕の心は恐慌をきたした。世界のどこかで何かとんでもないことが起きてるのではないか。地球の磁場は大丈夫か。


 澤多莉さんは、大きな眼で僕の手元を覗き込み、透き通るような声を発した。


「本命は何なの?」

「ふぇっ?」


 咄嗟に言葉の意味が理解できず、間抜けな声で応じてしまう。

 澤多莉さんは細い指で、タブレットの画面を差した。


「エリザベス女王杯、どの馬が本命なの?」

「えっ? さ澤多莉さん、競馬に興味あるの?」

「質問に質問で返さない」


 ピシャリと言われてしまい、動揺が広がる。


「あっ、うん、ご、ごめん」

「それで本命は?」

「あ、えっと、ま、まだ決めてないんだけど、今のところヴィブロスって馬にしようかなあ…って」

「ほう。魔人佐々木の馬ね」

「そ、そうそう、それ」


 魔神に『大』がつかないと言葉の印象がだいぶ違うなと感じつつも、肯っておく。


「なるほど。惜しくも日本一になれなかったベイスターズの雪辱を、かつての守護神が果たしてみせるってシナリオね」


 そういう観点では考えていなかったのだが、澤多莉さんは納得するようにうんうん頷き、自分のノートに何やら書きつける。

 こちらの頭の中は、クエスチョンマークで溢れている。


「あ、あの……」

「あるわよ」

「えっ?」


 澤多莉さんはメモを終え、初めてこちらに顔を向けた。


「さっき競馬に興味はあるかって質問したでしょ? はいありますって回答してるの」

「あ、そそそそそうなんだ」


 目が合った瞬間に思わず逸らしてしまい、吃りまくりの僕は、ハタから見たらどれだけ滑稽なのだろうか。

 かろうじて絞り出せたのが、特に気が利いてるわけでもないこんな一言だった。


「へぇー、ウマジョさんなんだ」


『意外だね』と付けようとしたのを、失礼に当たるんじゃないかと寸前で止める。


「ええ。昨晩からね」

「昨晩?」

「何げなくテレビ観てたら、バラエティ番組で競馬のことやってて」

「あー、『アメトーーク』でしょ? 僕も見たよ。面白かったよね」

「特に面白くはなかったけど」

「………」

「番組観てて笑いこそしなかったものの、何だか競馬ってものに妙に惹かれてしまってる自分がいてね。ああこんな世界があるんだなあ。何だか変な感覚、アンこんなの初めてって戸惑ってしまったわ」


 言葉の内容とは裏腹に、澤多莉さんは表情一つ動かさず、淡々と話している。


「そ、そう。まあ番組制作側としては、そう思ってもらって、本望かもしれないね」


 またしても気の利いてない返ししか出来ない己が哀れ。ていうか多少女性に慣れた人でも難易度高めなんじゃないだろうか。


「そっかヴィブロスねえ。外枠が気にはなるけど、まあ確実は確実なのかな。確実すぎて面白みには欠けるわね」


 どこかの少佐のようなことを言いながら、こちらに身を寄せ、タブレットを覗き込んでくる澤多莉さん。

 僕は狼狽して硬直。爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。


「ミッキークイーンも強いと思わない?」

「へっ?」

「休み明けは全部3着以内、関西のレースも全部3着以内。今回は休み明けで関西のレースでしょ? 必然3着以内に入る可能性は高いと考えざるを得ないんじゃない?」

「あ、う、うん、まあそうなんだけど」


 ついさっき考えていたのと同じことを言われ、こちらはコクコク頷くばかり。

 澤多莉さんは立て板に水で論を続ける。


「それにルージュバックとスマートレイアーをどう考えるかよね。地力は確実にあるけどこれまで古馬GⅠで馬券になってないことを単なる巡り合わせと捉えて良いものか、難しいところよね。それにここのところ不調のクイーンズリングも得意の舞台で巻き返して連覇なんてこともありそうな気もするし。3歳馬3頭もどう扱うか悩みどころよね。もしかしたらめちゃくちゃ強いかもしれないし、特にディアドラは---」

「ちょ、ちょっと待って待って」


 思わず遮ってしまった僕を、澤多莉さんは何よ? といった表情で訝しげに見つめてくる。


「いや、ちょっと詳しすぎない? 昨日競馬に興味持ったんだよね?」

「私、今度の日曜が誕生日なのよね」

「えっ」


 唐突に貴重な情報をご提供いただく。


「晴れて二十歳に相成るってことで、これはひとつ馬券とやらを買ってみろって天啓じゃなかろうかと思って。御誂え向きに『エリザベス女王杯』なんて、私のためにあるかのような名称のレースが行われるっていうじゃない? 昨晩テレビ観終わってから、競馬をイチから勉強して、レースの予想をしてたのよ。おかげで2、3分しか眠ってないわ」


 事もなげに言ってのける。

 レース名云々のところは若干引っかかるものがあったが、僕は信じられないという驚きとともに感銘を覚えた。

 こちらとて学生の本分そっちのけで競馬に血道を上げている身。こんな女性がいてくれるなんて、ましてこんな美しい才媛がなんて、嬉しくない筈がない。

 同時に恐れのような心持ちも抱く。今まさに一人の将来ある若い女性が、よろしくない方向に堕ちていくとんでもない瞬間を目の当たりにしているのではないだろうかと。


 こっちの複雑な気持ちを知ってか知らずか、澤多莉さんは話を続ける。


「競馬って面白いもので、考えれば考えるほどわからなくなってくるのね。さすがの私もだいぶ行き詰まっちゃって、気分転換に授業にでも出てみるかとやってきてみたら、いかにも友達いませんって雰囲気の男子学生が、分不相応にもタブレットなんか駆使してエリザベス女王杯の検討をしてるじゃない? ここはひとつご高説を賜れればと思ってね」


 何やらひどいことを平気で言われたような気もしたが、僕は何か言い返すどころか、ろくに相槌を打つこともできず、ただただたじろいでいた。


「それで、買うべき馬はヴィブロスってことでいいのね?」


 結論であるかのように言われ、慌てて手の平を向けて否定する。


「あっ、でもまだ決めたわけじゃなくって。さっき澤多莉さんが言ってた馬たちもみんな強いし、他にも来るかもしれない馬いるし、必ずしも万全ってわけじゃ……」

「別に外れたところで、あなたに責任をとってなんて言わないわよ」

「えっ、あっ、うん……」


 男としてひどくみっともない姿を見せてしまったような気がして恥じ入る僕を、彼女は歯牙にもかけていない様子だった。


「他に来るかもしれない馬ってのは、たとえばこのあたりかしら?」


 澤多莉さんが指差した先には、まさしく僕が伏兵として注意すべきと思っていた馬の名前があった。

 2枠4番・クロコスミア。


「どうやら図星のようね。同型のプリメラアスールが福島記念にまわった以上、単騎逃げは濃厚。うまくペースを握ることができれば、府中牝馬ステークスの再現も期待できる。枠も絶好。テン乗りの和田騎手が馬を手の内に収められるかどうかが不安だけど、狙ってみたい一頭ではあるわよね。古来から伝わることわざでもあるものね、逃げるは恥だが何とやら」


 やっぱり昨晩競馬に興味を持ったというのは嘘なんじゃないかと指摘しても良いものか。そして、ことわざ云々のくだりはツッコミを入れた方が良いのだろうか。

 澤多莉さんは、逡巡する僕のことなど相変わらず気にも留めない。


「他には? 注意すべき馬はいる?」

「そ、そうだね、名前が挙がってないところでいえば、人気はないだろうけど、マキシマムドパリとかトーセンビクトリーとかの、ここ一年以内で重賞勝ってる馬も油断しちゃいけないんじゃないかなって……」

「なるほど、重賞ウイナーは侮っちゃいけないといったところね。他には?」

「う、うーん……ま、まあそんなところかな」


 改めて馬柱を①から⑱まで眺め、僕は踏ん切りをつけて答えた。

 少しでも気になるところがある馬を挙げたらキリがないし、あまり多くの馬に印を回すような予想家は失笑の対象である。こちらとてまだまだニワカではあるものの、多少なりとも彼女よりも長く競馬をやってる者として、微かな矜持のようなものが働いた。


 澤多莉さんは真っ直ぐにこちらを見据えてくる。


「じゃあファイナルアンサー。結局のところ、本命はどれにするの?」


 結局のところも何も、レースが行われるのは明後日である。まだ本命を決めなきゃいけないようなタイミングでもないのだが、彼女の瞳は真剣そのものだった。


「クロコスミアの逃げが決まる? それともミッキークイーンの安定感? ヴィブロスが勝って友道調教師と榎本加奈子が抱き合うところが見たい?」

「それはまったく見たくないけど……でもやっぱりヴィブロスかな」


 僕も真剣に応えた。何だかんだ言って、国内と海外のGⅠを勝っているこの馬には逆らいがたい。


「そう……じゃあ私も決めたわ」


 一瞬閉じた目をまた開き、虚空を見つめ、彼女は言った。


「ジュールポレールを買うわ」

「今まで名前上がってない馬出てきちゃった⁉︎」


 思わず頓狂な声が出てしまい、何人かの学生がこちらを振り返る。

 僕は思わず身を縮めたが、澤多莉さんはまるで意に介す様子はない。


「実を言うと、ヴィブロスとジュールポレールのどっち選ぶかで迷ってたんだけど、あなたのような、いかにも勝負勘の鈍そうな、持ってない星の元で生まれたかのような人物がヴィブロスを本命にするってことで、躊躇なく切ることができたわ。心から感謝するわ、グラシアス」

「えっと、今日初めて話す相手に何でそんなひどいことが言えるのかな……」


 いつしか見下すような顔つきに変貌していた学内屈指の美女は、こちらをビシッと指差した。


「いかに愚鈍なあなたといえど、ヴィクトリアマイル3着の4歳馬を見落とす筈も無し、察するにほとんどマイルか1800でしか実績がない点と、このレースでは前走準OP組はまったく結果を残せていないこと、そして内枠から好位につけたいところ外目の枠に入ったことで、切ることにしたんじゃなくって?」


 完全に図星である。それだけに疑問だった。


「そ、それだけわかっているのならどうしてジュールポレールを?」


 こちらの問いかけに、澤多莉さんはやれやれといった様子で肩をすくめてみせ、タブレットをまた指差した。


「あなたの手には余るそのオモチャでよくご覧なさい。ジュールポレールの前走、秋風ステークスだったかしら? 直線進路が無いってところで、2頭の馬の間を割って抜けてきた走りっぷりをね」


 それは僕も見たことがある、というか中山競馬場で生観戦していた。


「あの気の優しそうな幸騎手が見せた闘争心。この馬は準OPで足踏みさせてちゃいけない、絶対に勝たせて上の舞台に連れていかなきゃならないっていう強い意志を感じたわ」


 静かではあるが、彼女の言葉には気魄がこもっていた。


「きっと彼は知っているのよ。この馬はGⅠを勝つことも出来る能力を秘めてるってことを」


 言われてみればそんな気もしてくる。前走はダントツの一番人気だったのに思ったよりも手こずったという印象を持っていたのだが、見方を変えると確かにあの勝ち方は鮮烈と言えるものだったかもしれない。

 思わず納得しかける僕を制するように彼女は続けた。


「でも男に二言はなし、あなたはヴィブロスで勝負しなさいね」


 そのとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 老教授はすぐさま講義を打ち切り、教室内は席を立つ音や話し声といった喧騒が一気に膨れ上がる。

 それに乗じてか、澤多莉さんのトーンも心なしか上がってくる。


「あなたのヴィブロスと、私のジュールポレール、どっちが勝つか、負けて地べたを舐めるのはあなたか君か、楽しみで震えが止まらないわ」


 圧倒的戸惑い。

 もしかしてこの人、ヘンな人なんじゃないだろうか。


「本来なら京都に出向いて生観戦といきたいところだけど、まあそれは東京競馬場のターフビジョンで妥協しとくわ」


 優美な手つきで先ほどメモをとっていたノートのページを破り、こちらに滑らしてくると、素早く持ち物を鞄にしまい、立ち上がる。


「日曜日、とりあえず私は開門時間には現地に行ってるから。到着したら連絡ちょうだい」


 ……ん?


「それじゃあ、ちゃんと首を洗っておきなさいよ」


 身を翻し、教室を後にする澤多莉さんの後ろ姿を、しばし呆けたように見つめる。

 艶やかな長髪が踊るように靡いている。


 澤多莉さんが置いていったメモを見ると、そこには通信・通話アプリのIDらしき文字列が書いてあった。


 ……え? え? え?


 何が何だかよくわからない。

 が、とりあえず土曜日のレースにはろくに参戦できなくなったことだけは確かなようだ。

 日曜日に向けて、競馬以外のことも色々準備しなければならなくなった。着ていく服だって買いに行く必要があるだろう。


 それに、日曜日は誕生日だって言っていた。


 教室を後にする学生たちの流れに乗ることなく、僕は一人席に座ったままタブレットの画面を切り替えた。

 二十歳になる女性にはどういうものを贈れば良いのか最適解を見つけるべく、僕は指を動かすのだった。


(つづく)



 ◆エリザベス女王杯


 僕の本命 ヴィブロス

 澤多莉さんの本命 ジュールポレール

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