第16話 NHKマイルカップ
黄金週間も後半に突入、らしい。
「ごーるでんうぃーく? 何それ?」
カレンダーの字が黒かろうと赤かろうと水色だろうと関係なしという巷の社畜諸兄は、そんな台詞をしばしばため息とともに吐いていると聞き及んでいる。
意味合いとしては正反対になるが、ほとんどの単位を取り終えて元々週に三日ぐらいしか通学していない大学三年生の身にとってもカレンダー上の休日が多かろうと特段ゴールデン感はなく、何それ状態ではある。
そんなことを宣ったら、人生の先輩の皆様から袋だたきにあってしまうかもしれないが、まあ長い人生航路でこんなときは今だけだろう。ご容赦いただきたい。
そんなわけで、みどりの日だか国民の休日だかの5月4日は、よくある競馬開催日以外の休日と何ら変わることなく、昼過ぎの時間にのっそりと起き出した。
起きぬけに布団の中でスマホの類を見始めてしまうと、早々にその日一日が破綻してしまうと言った偉人がいたとかいなかったとか。
きちんとベッドから出て、歯みがきなどしつつ、タブレットを起動してNHKマイルカップの枠順を確認する。
「ほう」
思わずほくそ笑む。だいぶ前から、それこそ登録馬が発表される前から、ここに出走してきたら本命にしようかと目を付けていたテトラドラクマが2枠3番という好枠に入っている。
まあ、東京マイルに関しては内外の有利不利はそれほどなく、偶数番の方がより理想だったことは確かであるが、先行馬としてはやはり外より内側の方が望ましい。
あとは、フェアリーステークスの時のような出遅れをかまさなければ。田辺って結構スタートやらかすイメージもあるからなぁ……などと考えつつ、リビングへと向かう。
父・母・妹で構成される我が家族は、そろそろUターンラッシュという声も聞こえはじめようという今日という日に、近所に住んでる祖父・祖母、母の兄にあたる伯父さん一家とともに、一族郎党連れ立って熱海へと出かけている。
このゴールデンウィーク後半の親族旅行は僕が物心つく頃には既に行われていた恒例行事であり、僕も高校生だった三年前までは参加していたのだが、大学進学……もとい、競馬と出会ってからは回避をしている。
家族が旅行でひとりで留守番。
この解放感というか、自由な感じというか、何とも言えない心地良さは、大抵の人は感じたことがあるのではないだろうか。
こういうときは、友達やら彼女やらを家に連れ込んで、めくるめくお楽しみという向きもあるのかもしれないが、あいにく僕には招待するような友人は一人もおらず、奇跡的に存在してくれる彼女については現在海外にいる。
京都にてレインボーライン魂の激走に喉から血が出るほど絶叫し、戴冠に狂喜乱舞し、その後の顛末に呆然と立ち尽くし、ネット上で錯綜する情報に振り回される僕を尻目に、澤多莉さんは海外へと旅立っていった。
何でも海外在住の御両親とシンガポールで合流して、マリーナ何ちゃらというところで過ごすらしい。
言わずもがな、澤多莉さんはその抜群の美貌や才知のみならず、家柄までも完璧で、元来僕なんかとは釣り合う人ではない。
そんな本来なら済む世界の違う彼女は、昨晩5つ星ホテルからスカイプで連絡をくれて、僕と競馬談義を行なった。
約一時間ほどの会話の中、彼女は僕のことを150回ぐらいはなじってきて、最後には婉曲的に早く会いたいと言っているようにもとれれば、単なる悪態にもとれるような言葉を投げかけてきてくれた。
一体何なんだろうなあの人は。
首を傾げたくなるような、思わずにやけたくなるような、どこかちょっぴり不安なような、色々混ざった心持ちを整頓することは諦めた方が良いのだろう。
我が家の立て付けの悪くなった横開きの扉を開け、リビングへと入る。
壁掛けの時計は丁度13時を差していた。
シンガポールとの時差は1時間だったか。今頃澤多莉さんはお昼ご飯でも食べているだろうか。シンガポールは何か名物とかあるのだろうか。そういえばこちらも腹が減った。
と、テーブルの上の書き置きが目に入った。
朝早く出かけていった母親が残したものだ。幼い頃より見慣れた字で、伝達事項が書いてある。
『鍋にカレーがあります。あっためて食べてください。冷蔵庫にプリンもありますよ!』
母親とて昭和より平成を長く過ごしている人である。メールもLINEも使えるのだが、こういうときは必ず手書きのメモを残してくれる。
まあ、単純にその方が楽で手っ取り早いというだけなんだとは思うが、何だかあったかいような、心がほっこりとするような気持ちになれる。
これも思春期の頃には持ち得なかった感覚。こちらも成人し、そういうところ素直に感じられるようになったということなのだろう。
しかも我が母の作るカレーは絶品である。
これはありがたい限りと、早速キッチンに足を向けようとしたが、ふと書き置きの紙の下の方が折れていることに気付いた。
「?」
何気なく開いてみると、そこには追伸が書いてあった。
上の本文は普通の黒いボールペンによる字だったが、そこだけピンク色の蛍光ボールペンで書かれている。
そして、明らかに母の筆跡とは違う字だった。
『追伸 本命は⑱ロックディスタウン』
この筆跡にも見覚えがあった。
たとえば授業中にとっているノート、たとえば競馬新聞への書き込みで何度となく目にしている字。
頭の中いっぱいに広がるクエスチョンマーク。
は? 何だこれ? え? 澤多莉さんの字だよなコレ。
ほどなくしてメダパニは解けた。なるほど、これはサプライズか。本当の意味の。
日本とシンガポール間のフライト時間は7時間ほど。明日帰ってくるなんて言いつつ、昨晩スカイプで話した後、すぐに帰国の途についていたのだろう。
でも何故我が家の住所を知っているのか?
すぐに思い当たるところはあった。以前GⅠ指定席当選のハガキを見せたことがある。きっとそれでインプットしていたのだろう。
ちょっとした事案というか、いかがなものかとは思うが、澤多莉さんであればさもありなんなことではある。
きっとどこかに隠れて、書き置きに戸惑う僕の姿を見ていて、良きタイミングでワッとまた驚かしてくるに違いない。
いやいや、ていうかコレ住居不法侵入だよ澤多莉さん。
などと思いつつ室内を見渡してみるも、まったく人の気配がしない。
と、手元のタブレットから、何となく不安になるようなリズムの電子音が鳴る。スカイプの着信音だった。
僕とスカイプのやりとりをする人などごく限られている。案の定発信元は澤多莉さんだった。
『あーす』
澤多莉さんは屋外のやけに賑やかな場所から通信しているようだった。
それに暑いのか、半袖のフリルブラウスという出で立ちだった。
『もう起きた? NHKマイルカップの枠順出たでしょ? さああなたがない知恵絞って考えた間違いだらけの見解を聞かせてもらおうじゃない』
画面を通しても彼女の容貌は美しく、口をつく言葉は酷い。
が、僕は彼女の美しさに感動を覚えることも、悪態に反発することもできなかった。
それどころではなかった。
太陽をいっぱいに浴び、いつもの調子で話している彼女。
背景には、青い空、林立するビル、大勢の人々、そして顔が獅子で身体が魚の像が、口から水を噴射していた。
『私の本命はね……』
(つづく)
◆NHKマイルカップ
澤多莉さんの本命 ロックディスタウン
僕の本命 テトラドラクマ
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