第17話 ヴィクトリアマイル

 五月も半ばに入り、窓の外に見える景色は、木々の緑と青い空とのコントラストが目にあざやか。今週は妙に冷え込んだものの、天気が良くなると途端に来たるべき暑い季節の気配が漂ってくる。

 哲学Dの授業が行われているこの大教室も、青葉繁る窓外同様に大勢の学生たちがひしめいており、この季節にそぐわしい活況を呈している。

 とはいえ、己がこの場所にいる本義に則った行動をしているのは、今日も退官が近いとは思えないほど元気溌剌に講義をしている老教授と、それをしっかり受講しているごく一部の学生たちだけであり、ここにいる大半の学生は雑談や内職やスマホいじりといった、最高学府で学ぶ者として恥じねばならない営為に腐心している。


 聞き及ぶところによると、この声の大きな老教授はこの学内のみならず学会でもかなりの個性派として名を馳せており、例えばこの授業などは学部棟の自室からここの教室へと歩く数分の間に、その日の講義内容を決めているらしい。

 なので、前回の講義で西田幾多郎について取り上げたかと思いきや、今回はパスカルのパンセについて独自の考察を交えて解説するという、なかなかにアクロバティックな構成で授業を展開しており、注意されないのをいいことに好き放題している学生が多い中、ファンのような学生も付いており、単位を取り終えても聴講しに来ている熱心な者もいるという。


「所詮人間なんて葦のように弱い存在。でも、競馬の予想をすることができる葦ってことなのよね。さあ、検討を始めましょう」


 隣に座る澤多莉さんは、そんな勝手な発言とともに、僕のタブレットを操作し始めた。

 画面にはヴィクトリアマイルの馬柱が表示されている。


「う、うん……ところで、本当に先週僕の家に来てはいないんだよね?」

「しつこいわね。あなたの家なんて行ったこともなければ、そもそもあなたがどの辺に棲息してるかなんて知らないわよ」

「そんな動物みたいに言われても」

「それに、私が男の家にホイホイ行くような軽い女だと思ってるってこと? とても心外だわ。心外革命だわ」


 澤多莉さんはずっとこの一点張りである。だったら、先週母親が残した書き置きにNHKマイルカップの予想を追記したのは誰だというのか。パドックでひっくり返ったうえにダントツで最下位だった馬を本命にした者が澤多莉さん以外にいるというのか。

 しかし、確かに家族が家を出てから僕が起きるまでの間、澤多莉さんはシンガポールにいたわけで、これはもう完全無欠のアリバイと言える。


「もしかして澤多莉さん、世界中どこの場所にでも自由に行き来できる秘密道具を持ってたりしないよね?」

「ハァ?」


 澤多莉さんは美しく整った眉を顰め、呆れたような表情を浮かべた。


「あなたアニメの見すぎなんじゃないの? そんな『天狗の抜け穴』みたいな道具なんてあるわけないじゃない」

「あ、例としてマニアックな方あげるんだ」


 とかなんとかやりとりして。

 結局のところ、先週の出来事は迷宮入りに陥ることとなり、澤多莉さんと僕は、いつものようにレースの検討に入るのだった。


「さて、今週は記念すべきヴィクトリアマイルね」

「記念すべき? 何の記念?」


 自然な質問に、澤多莉さんは先ほどよりも眉を顰め、侮蔑するような視線を投げてきた。


「え? な、なに?」

「何でもないわ。ただ、つくづくあなたって、みじめで哀れなゴミ虫だなあって思って」

「なぜそんなひどいこと言うかな……」


 今日はとりわけひどい悪態を投げてくる澤多莉さんであるが、悔しいことに今日も美しい。

 春用のジャケットを椅子の背もたれにかけており、黒いニットのシンプルな出で立ちではあるが、美人こそ着飾る必要などないということを如実に体現している。そして、美人は多少口が悪くても責めを負わないということも。


「まあ、そんな食物連鎖の最底辺にいる存在のことは置いといて、ヴィクトリアマイルはどうにかして当てたいわね。ビクトリア湖の朝焼けに100万羽のフラミンゴが一斉に飛び立って、ブライト艦長も思わず『手の空いている者は左舷を見ろ、フラミンゴの群れだ』とか何とか言っちゃったって故事があるけど、私もそんなド派手な100万馬券を手にしたいものだわ」

「……前々から思ってたけど、澤多莉さんって知ってるネタが20歳の女の人のそれじゃないよね。絶対中身が40とか50の男の人だよね?」

「あのね、よく聞いて」


 澤多莉さんは声を潜め、真剣な眼差しで言った。


「それを言っちゃあおしまいよ」

「ほら出た」


 澤多莉さんの説明によると、彼女が妙に古いことに詳しいのは、彼女の父親による英才教育の賜物らしい。どうやら教育方針がかなり独特だったようだ。

 とりあえずそれ以上は追及せず、ホワイトベースのクルーがフラミンゴの群れに感動したのはアフリカじゃなくて南米であることなども指摘はせず、今度こそ僕たちはレースの検討に突入した。


「去年はミッキークイーンやルージュバックといった当時の5歳馬が圧倒的に優勢かと思いきや、蓋を開けたら1着から3着まで全部4歳馬だったのよね。そして今年は今の4歳世代が強いと言われていて、18頭中10頭を占めている……世代間闘争としてもなかなか面白いわよね」

「確かに去年の1・2・3着全部出てきてるけど、人気するのは多分4歳馬のリスグラシューとアエロリットだろうからね」

「となると、去年世代単位では劣勢と思われた今の5歳世代が、今年も下馬評を覆してくれるんじゃないかとか期待したくなっちゃうところね」

「うーん、どうかなあ。単純に、個別の差はあるにせよ、牝馬のピークは4歳時だって考え方もできるんじゃない? やっぱり5歳になったら無事に繁殖に上げなきゃっていう意識もより強くなるだろうから無理はさせないのかもしれないし」

「フン」


 澤多莉さんは小さく息をつき、本日何度目かの冷たい視線を投げてきた。


「男って結局若い女の方が好きなのよね」

「えっと、そういうこと言ってるんじゃなくて……」


 返す言葉に困る僕に、澤多莉さんは攻撃、もとい口撃をゆるめない。


「じゃああなたの本命は何なのよ? 当然大人の女性として6歳馬のレッツゴードンキを挙げるんでしょうね? それともデニムアンドルビーにして、今どき熟女好き芸人で売り出すつもり?」

「いや、デニムアンドルビーは出てないし、僕芸人じゃないし……でも本命ではないけどレッツゴードンキはもしかしたらあるかもって思ってるよ」

「何が、もしかしたらあるかも、よ。女を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいわ」


 一体何がどうして馬鹿にしていることになるのかさっぱりわからないが、類いまれな面倒くささを発揮され、僕としてはたじろぐ他なにもできない。


「もしかしてあなた、今私のこと、田嶋陽子みたいな面倒くさい女だと思ってない?」

「正直、思ってないこともないかも」

「(机を叩き)それが女性差別だってんだよ! ギャンギャン!」

「うわー、本当に田嶋陽子だ」


 一体僕たちは何の会話をしているのかよくわからなくなりかけた頃、澤多莉さんが唐突に話を元に戻した。


「で、結局のところ、あなたの本命はどの馬なのよ?」

「うーん、やっぱりリスグラシューかアエロリットが強いかなって思うんだけど」

「……やっぱりロリコンじゃない」


 一瞬ジト目をこちらに向けるが、


「でもまあ、4歳馬ならせいぜい女子高生ぐらいだからセーフかしらね。これで先週負けたテトラドラクマにリベンジしてほしいとか言い出したら、本当にコイツ真性だと思っちゃうところだったわ」

「そもそも3歳馬はヴィクトリアマイル出れないから。それに女子高生は全然セーフじゃないから」

「そうねえ。情報番組に出てる芸人さんでも、若手時代にファンの女子高生をカキタレにしまくってたのがいるけど、どのツラ下げて山口メンバーの事件にコメントしてるのかしらね?」


 何やらよくわからないことを言っているが、まあ珍しいことではない。粛々とまた話題を戻すことにする。


「その2頭以外では、やっぱり去年勝ったアドマイヤリードかなあ。前走はリスグラシューとかミスパンテールより2キロ重い斤量でほとんど互角だったし、何せ鞍上がデムーロだし」

「何かとってつけたように、大人の女性も好きって言ってる感じね」

「いいかげん、その発想から離れない?」

「だって、あなたが例によってガチガチの人気どころばっかり挙げるんだもの。横道にでもそれないとどうしようもないじゃない」


 そういうものなのだろうか。澤多莉さんの考えは何一つよくわからない。


「じゃあ、澤多莉さんはどの馬を本命にするの?」

「私は初めから決まってるわ」


 そう言うと、白く細い指をスッと動かし、タブレット画面を指差した。


「ジュールポレール?」

「そうよ」


 澤多莉さんは自信満々に胸を張っている。

 ニット着用につき、大変嬉し……もとい、目のやり場に困る状態になっている。


「で、でも、じゅじゅジュールポレールはどうかなあ?」

「何よ? いちゃもんつける気?」

「いや、確かに昨年3着の実績もあるし、油断はできないと思うけど、阪神牝馬ステークスの走りを見る限り、いい位置から思いのほか伸びなかったし、あまり本番に期待持てそうな気もしなかったなあって」

「そういうのをいちゃもんって言うのよ。あなたはいつになったら学ぶのかしら? 所詮本番前の叩きは叩きでしかないのよ」

「うーん、それにしてもなあ。距離が長かったにしても、エリザベス女王杯も惨敗だったし……」


 ふと何かしらがひっかかる。


 と、授業終了を告げるチャイムを待たずして、教授が講義の終了を言い渡した。この個性派の自由人教授は、終了時刻も気分次第だったりする。

 ガヤガヤと教室中が騒がしさを増す。


「そうよ。だからこそ今度こそはリベンジするのよ」


 澤多莉さんはジャケットを着、椅子を引いて立ち上がると、こちらを見下ろしてきた。

 昨年のエリザベス女王杯―今回のヴィクトリアマイルと対を為す秋の女王決定戦―そのときも確か澤多莉さんはジュールポレールを本命にしていた。それに、そのレースは……


『さて、今週は記念すべきヴィクトリアマイルね』

『記念すべき? 何の記念?』


 つい数分前に交わした会話が脳裏をよぎる。


「ま、日曜日が楽しみね」


 僕は、彼女の表情をただ見上げる。冷徹で、やはり美しい。純度の高い氷のようだ。


「それじゃあ、ちゃんと首を洗っておきなさいよ」


 二人が出会ったあの日と同じ台詞を言い残し、澤多莉さんは颯爽と身を翻し、教室を後にした。

 僕は、しばし呆けたようにその後ろ姿を見つめて。


「いやいや待ってよ、澤多莉さん! 一緒に帰ろうよ!」


 慌てて荷物をまとめ、彼女の後を追いかけて行く。

 半年という月日があれば、人はそれなりに変わるものらしい。


(つづく)



 ◆ヴィクトリアマイル


 澤多莉さんの本命:ジュールポレール

 僕の本命:リスグラシュー

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