第18話 オークス

 緑したたるケヤキ並木の下を、老が、若が、男が、女が、それどころか和が、洋がと、つまりはあらゆる人々が駆けていく。


 当然ながら速もいれば遅もいる。タンクトップ的なウェアに短パン姿、ひきしまった細身でありながら強靭そうな筋肉を足に纏った若い男性が疾風のごとく、ゼエハア言いながら普通の歩行よりも遅いんじゃないかと思える垂れっぷりの男、すなわち僕を並ぶ間もなく追い越してゆく。

 瞬く間に遠ざかってゆくガチランナーの背中を見やるこちらの心肺は限界を訴えており、足は鉛のように重く、脳からの指示を受けて一歩前に出るまでの反応が異常に鈍い。

 同じ動物なのにこうも運動能力に差がつくものなのかと途方に暮れる思いとともに大きく息をつく。

 ……ていうかしんどい。しんじゃう。


 都内では広さベスト10に入るというこの公園は、ランニングコースが一周で2㎞ちょっとと愛好家たちには程良いらしく、有料ではあるがシャワーやロッカーも使えるトレーニング施設が併設されていることもあり、老若男女和洋速遅あらゆるランナーやらジョガーやらといった人々に愛用されているという。

 そう聞いてはいたが、来てみたら想像以上に多くの人たちが走っていて、世の中にはこんなに苦しい営為に好んで身を投じる人がたくさんいるんだなあと、感心するやら首を捻るやら。


 ずんぐりしたスタイルの中年女性二人組が、おしゃべりに花を咲かせながら僕のことを軽く追い越していく。

 どうやら僕は、今この公園でランしている人間の中で、最下層に位置しているらしい。


 20分近くはかかったであろうか、ようやく走りはじめた位置に戻ってきた。

 秋の天皇賞ではこれだけの距離を2分足らずで走ってしまうというのだから、サラブレッドの素晴らしさには改めて頭が下がる。


 まあ一周したことだしと、歩いてるのに等しい走行から、完全なる歩行に切り換える。

 と、全身が急激に熱を帯び、身体中から汗が噴き出してくる。よくわからないが、火を止めたときに鍋から湯気が吹き出すのと同じ原理なのだろうか。

 更に、走り慣れていないので変に力が入っていたのか、足のダメージもさることながら、肩に痛みすら伴う猛烈な凝りを感じ、グルングルンと腕を回したりしてみる。本当に、人間の身体というものはままならない。


 また他のランナーが僕を追い抜いていく。

 気がついたらもう前にいたので顔は垣間見えなかったが若い女性である。キャップの穴から出している結わいた髪がぴょんぴょん跳ねている。

 よくスキー場での異性は3割増、編笠をかぶって踊る異性は5割増などと言ったりするが、ランニングウェアの後姿というのもなかなかどうして。息も絶え絶えだった身に生気が蘇るのを感じる。

 特にたまらないのが下半身。短パンから伸びた二本の足は、ランニングタイツのおかげで引き締まって、形の凹凸までもしっかりわかって、黒が妙に艶かしくて、そしてタイトな短パンに包まれた臀部がこれまた……


 ……と、何を考えているんだ僕は。

 ランニングする女性の後姿に鼻の下伸ばすなど、二十歳の青年の所業ではない。何がたまらないのが下半身だ。これじゃアラフォーを過ぎたセクハラエロジジイじゃないか。

 きっと酸素が欠乏して意識が錯乱してしまったのだろう。


 と、いきなり背中に強い衝撃を受け、僕は前方に吹き飛んだ。

 そもそも立って歩くのもやっとの状態だった足腰は、踏ん張りなどまったく効かず、あえなくベチャッと顔から転倒。

 突然のことに恐慌をきたし、ほぼスローモーションで振り返ると、そこには一人の女性が仁王立ちしていた。


「さ、澤多莉さん? なな何を?」

「ハッサン直伝のとびひざげりよ」

「は、ハッサン直伝?」


 何を言っているのかよくわからない。

 というより、言っていることとされたことはわかったが、何故そういう仕打ちを受けたのかがまるでわからない。


「周回遅れのうえに、チンタラ歩いてるから制裁を食らわしてやったのよ」


 こちらが疑問を投げかけると、澤多莉さんはさも当然であるかのように答えた。


「そ、そんなスパルタなの?」

「そりゃそうよ。本番は間近なんだからビシビシしごかないと。言っとくけど喉渇いても水飲んじゃダメよ。バテるから」

「昭和だ。昭和の体育会系だ」


 そう。澤多莉さんの提案というか強要で僕たちがこの公園にランニングしに来たのは、健康増進や減量のためではなく、本番を見据え、走力を少しでも高めるためだった。

 その本番とは、いよいよあと10日を切ってしまった年に一度の、そしてサラブレッドたちにとっては一生に一度の大レース、日本ダービーである。

 これまで奇跡的にGⅠ現地観戦では指定席をとることができていたのだが、今回は競争率が他とは違っていたのだろう、あえなく抽選に外れてしまった。

 それでも人生初のダービーにおいて席を確保したいと強く望む澤多莉さんは、やはり人生初の開門ダッシュに参戦することを決意。当然僕にはそれに付き合わないという選択肢はなく、当日熾烈を極めるであろう席取りレースに向けて、トレーニングに励もうということになったのだった。


 先に公園に到着し、澤多莉さんを待ちつつ行き過ぎるランニング女子たちの姿を眺めて、僕は期待に胸を膨らませていた。

 もう百万回は述べてきているかもしれないが、澤多莉さんは『絶世の』と形容しても決して大げさではない美女である。そしてスラッと背が高くスタイル抜群。

 そんな人のランニングウェア姿など見せられた日には、またこれまでとは異なる魅力に一発でやられてしまうだろう。そう予期していたのだが。


「いつまで情けなく座り込んでるのよ。さっさと立ちなさい。そして走りなさい。そんなんじゃ福男になれないわよ」


 上下エンジ色の生地に白い二本のラインが入ったジャージ姿、昨今はテレビで体張る企画をやるような芸人さんたちぐらいしか着ないような、いわゆるイモジャージを身にまとった澤多莉さんがこちらをビシッと指差す。

 こんな格好で折角の美人が台無し……とまではいかず、美人は何を着てようが美人だし、中にはこれはこれで悪くない、いやむしろ良いなんて思う好事家もいるのかもしれないが、些か残念な感じは否めない。


「別に福男にはなりたくないけど……それにしても、もう二周も走ったの? 足速いんだね澤多莉さん」

「……」


 僕の言葉に澤多莉さんは無反応。というより、露骨に無視を決め込む。


「……ええっと、足が速いんですね、ジュールポレールで的中した天才馬券師の澤多莉名人様」

「あら。それほどでもないわ」


 淡々としながらも、微かな充足感を窺わせる口調と表情の澤多莉さん。


「さあ、走りましょう。ここでビシッと追い切りやって、仕上げていかないと」

「うん……でも少しだけ休ませてもらえないかな、ジュールポレールで的中した天才馬券師の澤多莉竜王名人様」

「フッ、まあいいわ。じゃあそこのベンチで休憩がてら、オークスの検討でもしましょうか。ダービーを射んと欲すればまずオークスを射よとも言うし」


 そういう格言は聞いたことないが、休憩できるならばいやも応もないと、ベンチに並んで座る。


「とはいうものの、さすがに今回のオークスは上位の何頭かが抜けすぎてて、検討する余地は少ないかしらね」

「うん、僕もそう思う。ちょっと穴っぽいところで勝ち負けにまで持ち込めそうなのはいないかなあって。澤多莉さん………ジュールポレールで的中した天才馬券師の澤多莉永世名人様はどう思う?」

「いちいちそんな長い名前言うのも大変だろうから『ポレール澤多莉』でいいわよ」

「ダサいよ。 絶妙にダサい」


 先週のヴィクトリアマイルで、とうとう本命馬が勝利を収めた澤多莉さんは、表情からは窺いづらいが、自信が漲っているようだ。

 元々かなり見下していた僕のことを、更に高いところから見ているかのような雰囲気を感じる。てかこちらもリスグラシューとの馬連を抑えて勝っているのだが。配当は澤多莉さんの単勝より付いているのだが。


「目上の人間に物を尋ねたければ、まず自分の愚見を述べるのが礼儀でしょ?」


 くう。これまで散々外し続けてきたのに、たまに当たると偉そうに。ここは今度はこちらが本命馬も馬券もバシッと的中させて黙らせるしかない。


「まあ色々考えはしたんだけど、やっぱりアーモンドアイかなって。桜花賞の強さは衝撃的すぎたよ」

「でも、距離が伸びることを不安視する向きもあるみたいだけど?」

「うーん、2400が初めてなのはほとんどの馬が一緒だし、とりわけこの馬だけ不安ってことはないかなあって」

「ロードカナロア産駒でもこの距離いける?」

「だって、ロードカナロアって中長距離は走ってないだけであって、通用しなかったわけじゃないんだよ? それに母親はオークス2着馬だし、血統的にはとりあえず現時点では気にかけすぎることはないかなって」

「ふむう……」


 虚空を見上げ考える様子の澤多莉さんにつられ、こちらも見上げると空は高く青い。

 薫る風が頬を撫で、澤多莉さんの黒髪が揺れる。

 本当にイモジャージ姿なのが惜しまれてならない。


「じゃあ、あなたの本命はアーモンドアイ?」

「うん。やっぱり二冠三冠とる馬も見てみたいし」

「そう。浪漫込みってわけね」

「まあそうかな」


 浪漫とか、いかにも澤多莉さんがバカにしてきそうな言葉ではあったが。


「うん。浪漫を追うのも悪くはないわね」


 意外な反応を示す。


「じゃあ、私は浪漫は浪漫でも逆転の浪漫に賭けてみようかしら」

「てことは、ラッキーライラック?」

「そんなのはありふれた単なる逆転劇よ。浪漫っていうのは、ずっと健闘はしていたけどライバルの後塵を拝していて、そのライバルもろとも新たに現れた強敵に負けてしまって、それでも立ち上がって、激闘の末ライバルも新たな敵も倒すなんて展開のことを言うのよ」


 なるほど。確かにそんなことになったら胸熱必至だろう。


「確かにアーモンドアイの末脚は強烈だったけど、後ろから行く馬には常に不発や展開不利で届かないというリスクがあるものよ」

「まあ、それはそうだけど」

「だったら実績は散々示してきてて、良い位置で競馬ができる上に御誂え向きの内枠ゲットした1枠の2頭の方がチャンスがあるかもしれない。そしてその2頭でいえば、桜花賞を見る限りリリーノーブルの逆転は十分あり得るわ」


 確かに、先週おそらく地力最上位の僕の本命馬が豪脚を披露するも、良い位置にいた澤多莉さんの本命馬をハナ差で差し切れなかったことが再現しないとも限らない。


 今手元にはタブレットも新聞もない。

 家に帰ったら改めて展開とかも含めた検討をしてみようと思った矢先、澤多莉さんが立ち上がった。

 目の前を、先ほど僕を追い抜かしていったガチランナーが通り過ぎていく。ウェアをよく見ると、正月の箱根駅伝なんかでもよく見かける大学の選手のようだ。


「相手にとって不足なし。勝負してやろうじゃない」

「あ、ちょっと、澤多莉さん!」


 そのガチランナーを追いかけ、走り出す澤多莉さん。速い、いや速いなんてもんじゃない。瞬く間にそのガチランナーに並びかけたと思いきや、すぐに交わしてしまう。

 それこそまるで桜花賞でのアーモンドアイのようだった。


 後ろをノロノロ追いかけていく、満身創痍の僕。思うように足が動かない。すぐに息が上がってしまう。


 澤多莉さんのエンジのジャージは既に遠く豆粒のようにしか見えない。

 いつか追いつける日が来るといいのだけど。


 それにしても速ええ。


(つづく)



◆オークス


澤多莉さんの本命 リリーノーブル

僕の本命 アーモンドアイ

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