第19話 日本ダービー
休日に、身動きすることも困難になるような人混みにわざわざ出向いていくなど馬鹿のやること。それだけの苦行に見合うだけのリターンなど、世の中にはまず存在しない。
まして、何時間もかけ行列に並ぶなど愚の骨頂。何かにつけて並びたがる日本人たちの姿は不可解そのもの。
あまつさえ、徹夜して何かに並ぶなど異常者による変態的行為であり、何かやらかす予備軍として一網打尽にした方が世のため人のため。
競馬に出会う前は、そんな風に考えていた。
初めて東京優駿を現地で観戦したのは二年前。ディーマジェスティ、サトノダイヤモンド、マカヒキの三強を中心に、当時史上最強と騒がれた世代のダービーだった。
競馬を始めたてだった当時の僕は、どれぐらいのタイミングでどのように動けば見やすい場所で観戦できるかなどまったくわからず、為すすべなく人混みに揉まれ、流された。
結局背伸びをすれば大勢の頭のはるか向こうに、かろうじて1コーナーのあたりを通る馬が豆粒のように見えるかなという位置でのダービー初体験となった。
レース観戦という点では全くままならず、ラジオで実況を聞いているのと変わらない状態だったが、その空気感、その熱気。
祭りの盛り上がり、勝負事の高揚感、最高の瞬間をみんなで共有する喜び。
こんな世界があるのだと、足を震わせ立ち尽くしたあの日。
それから二年が経ち、僕は東京競馬場の開門を待つ行列の一部を形成している。
それはそうだろう、何しろ今日はダービーデイ。なるべく良い場所で観戦するために深夜早朝から並ぶぐらい、ごく当然のことである。
それでも、ひとりだったらここまでしていなかっただろう。
隣を見ると、今日も今日とて美しい澤多莉さん。ただし、今どきリアクション芸人しか着用しないようなイモジャージ姿。
シートにペタッとお尻を下ろし、タブレット画面を食い入るように見つめている。
ダービーデイの第0レース・開門ダッシュを制するべく、僕と澤多莉さんはやれるだけのことをやってきた。
毎日のランニング、インターバル走、坂路調教、鉄下駄履いてのウサギ跳び、近所の野球グラウンドのローラー整備など、あらゆるトレーニングを積み、かなり走力は付いた筈。身体も心なしか引き締まってきた気がする。
終電で来た僕たちよりも先行して並んでいる人はザッと数百人はいるだろうが、かなりの数を抜かすことができるんじゃないだろうか。
とりわけ澤多莉さんは、400メートルで50秒ジャストの時計を叩き出しており、まあそれはさすがに僕の測り間違いだとは思うが、それでもここにいる誰よりも速いことは間違いないと思われる。
ちなみに澤多莉さんのランニングフォームは両腕を飛行機の羽根のように真横に伸ばして手のひらを反らすように立て、白い歯を見せて走るという、非常に独特なものなのだが、そんな珍妙な走法でなぜあんなに速いのか不思議でならない。
ともあれ、そんな快足の持ち主とはとても思えない、令嬢然とした美女(ただしイモジャージ)であるところの澤多莉さんであるが、今現在は相変わらずタブレット画面を睨みつけるように見ており、結わった髪の毛先をいじりながら、時折あーうー呻吟している。
「あーサッパリわからないわね。何なのよこの18頭は。どういうつもりなのよ」
などとぼやき、細く白い指で軽く画面の馬柱を弾く。
「珍しいね。澤多莉さんがなかなか本命決められないなんて」
もう日付はとっくに変わっておりレース当日となっている。このタイミングで彼女がなお決断できかねているのは珍しいどころか、初めてのことかもしれない。
「だって見なさいよコレ」
そう言い、こちらにタブレットと身体を寄せてくる澤多莉さん。
ドギマギするのを表に出さぬよう努力しつつ画面に目をやると、当然そこには今日の第10レース・日本ダービーの出走表が表示されている。
「もうどの馬が勝つか、どれを買ったらいいものかわけわかめちゃんとしか言いようがないじゃない」
「まあ確かに難解だとは思うけど、でもいつもはバシッと決めるのに、今回に限ってどうしたの?」
「そりゃあなたみたいなオッズの数字が小さいの買っときゃいいみたいな脳機能停止人間は悩むこともないでしょうけど」
そんな毒舌のジャブを軽く繰り出してから。
「どの馬も切るだけの根拠ばっかりあって、文句なしで買える馬がいないのよ」
出馬表を順に指差してゆく澤多莉さん。夜明け前の大論陣が始まるのだった。
「ダノンプレミアムは絶対に手を出しちゃいけないわよね。挫跖だか坐・和民だかわからないけど、皐月賞回避なんてどう考えても普通じゃない事態に見舞われた後で1番人気。リスクとリターンがあってなさすぎるわ」
「大敗が2つ続いてるタイムフライヤーは論外。こんなの買ってたらきりがないわ」
「テーオーエナジーが出てきたのは、オーナーさんが馬主席でダービー観たかったんでしょうね」
「アドマイヤアルバも明らかに力が足りないし、丸山騎手もここで自分が勝っちゃおうものなら、10万人以上の観衆がどんな空気になるかさすがに弁えてるでしょ」
「キタノコマンドールが勝ったら、アナウンサーや芸能人がイニエスタをイエニスタ的な馬名の間違え方して大変なことになっちゃうし」
「ゴーフォザサミットは、青葉賞こそ良い勝ち方したけど、共同通信杯もスプリングステークスも普通に負けてる馬がダービー馬になれると思う? あと蛯名は前世で悪いことしたから顔つきが凶悪になってダービーに勝てない運命を背負わされたに違いないし」
「コズミックフォースは明らかに弱い。正義超人でいえばスペシャルマンね」
「ブラストワンピースは別路線で無敵の強さだけど、クラシック本流に乗るのがここが初めてなんで、案外全然通じないなんてこともあり得るんじゃないかしら。あと輸送もないのに太りすぎね」
「皐月賞で後ろから伸びたけど届かなかったって馬が今回勝ち負けになるかどうか注目されてるけど、後ろにいたまま全く伸びなかったオウケンムーンは話にならないわ」
「ステイフーリッシュはテン乗りの横山典が多分ふざけるから消しだし」
「ジャンダルムは調教師が距離長い、無謀な挑戦だって半ば認めてるって聞いたわ」
「年明け5戦目で4連続輸送のエポカドーロはもうお釣りが残ってないだろうし」
「グレイルは皐月賞の伸びが凄かったとはいえ、言っても最後方からだし、共同通信杯で負けすぎね」
「エタリオウも明らかに弱い。正義超人でいえばカナディアンマンね」
「ステルヴィオは風邪ひいてたんでしょ? そりゃ私は熱が39℃あったときでも期末試験学年トップだったけれど」
「ジェネラーレウーノを評価する向きが多いみたいだけど、厳しい流れの逃げで残れたからって、ゆるいペースならもっと残りやすいとは限らないと思うのよね」
「ワグネリアン? 福永でしょ?」
「サンリヴァルは展開向いた皐月賞含めて、各レースでひと通りライバルとの直接対決で負けてるし」
澤多莉さん大いに語りき。
中には、かなりヒドい難癖のような言い様も混ざっていたように思えたが、彼女が悩んでいる所以はよくわかった。
傍らの小瓶を呷り、喉を潤す澤多莉さん。ちなみに中身は響の17年らしい。贅沢さに呆れるべきか、まだダービーまで半日以上あるのにアルコールを入れてることに呆れるべきか。
「こうなったら、そこまで弱くもなさそうな組み合わせで馬連でも買うことにしようかしら」
「えっ?」
少し驚いた。
澤多莉さんは出会った頃からずっと、GⅠに関しては本命の単勝1点と、本命からの3連単1点という無謀な馬券スタイルを崩すことはなかった。
先週のオークスにしても、リリーノーブルを本命にしておきながら、単勝オッズ1.7倍のアーモンドアイをまったく抑えておらず不的中となったほどだ。
(余談だが、僕は馬連と3連複的中した)
「そうねえ……ブラストワンピースとステルヴィオの馬連にでもしとこうかしら」
固いとは決して言えないが、まあなくはないといった組み合わせである。
「へえ、僕もブラストワンピース本命にしようかと思ってたんだ」
「あらそれは縁起が悪いわね。でもまあダービーなんだし、こんな買い目もアリかもしれないわね」
不思議な言い回しをするが、あまり気にせず改めて馬柱を眺める。澤多莉さんの言うとおり、強いとされる馬にも不安要素があり、どれが勝つやら走らないやらわからない、それだけに面白いメンバーだ。
と、ふとあることに気付く。
ブラストワンピースの馬番は8、ステルヴィオは15……
澤多莉さんに僕の誕生日を教えたことはない。なぜなら一度も聞かれていないから。
隣を見やると、いつの間にか澤多莉さんは体育座りのように両膝を抱え、眠っていた。徹夜の上にアルコールを身体に入れているのだから眠たくもなるだろう。
口が悪くても、大酒飲みでも、イモジャージを着ていても、寝顔は天使、いや、女神である。
しばし天上の美に見とれ、またタブレット画面を見やる。
競馬の祭典・日本ダービー。
僕も本線とは関係ないが、澤多莉さんの生まれた日の馬券を買っておこうか。
ジャンダルムとエポカドーロか。これ来たら相当つくだろうな。
皮算用しているところに大きな欠伸がひとつ出る。僕も本来夜は強い方じゃない。肝心のメインレースの時間に疲れ果てていてもしょうがない、少しは寝ておくか。
と、すっかり寝入ったのか澤多莉さんの頭が僕の肩にもたれかかってくる。
寝れねえ。
(つづく)
◆日本ダービー
澤多莉さんの本命 なし
僕の本命 ブラストワンピース
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