第20話 安田記念

 六月に突入。総じて蒸し暑い日が多い昨今ではあるが、今日は気温上こそ夏日であるもののカラッとしていて比較的過ごしやすい。

 薄手の長袖シャツ一枚で丁度よく過ごせる貴重な一日なのだが、ここ哲学Dの講義が行われている大教室の中は様相が異なっていた。


 寒い。涼しいを通り越して寒い。冷房の設定は何度になっているのか、何かナマモノの保存でもしているのかというぐらいに教室内はひんやりとしている。

 前の席の女子は、ひと足早い夏気分だったのだろうか、肩を出した大変眼福(に思う人もいるであろう、僕はそうでもないけど)な格好をしており、羽織るものも所持していない様子で、先程から身を縮め我が身を抱きかかえるような姿勢でしきりに両の二の腕あたりをさすっている。

 長袖シャツの僕でさえ、衣服を通して肌を刺されているような感覚なので、さぞかしつらいことだろう。


 教壇の老教授は、学生たちが凍え震えていることに頓着する様子はなく、いつものように熱弁をふるっている。

 本日は、十年前に退官した後も精力的に研究活動を行い、昨年勲章をもらったというこの大学の哲学科名誉教授について講義するという、かなり変わった趣向で展開している。

 黒板には『猫が彼女の研究にどのような影響を与えたか』とだけ書いてあり、その方の著書や論文についての解説のみならず、直属の後輩だからこそ知り得る私生活についてなどを語り、高名な名誉教授の哲学に対する哲学を紐解いている。

 非常に斬新で、面白い講義といえるだろう。興味のある人にとっては。


 単位獲得のためだけにこの総合基礎科目を履修している、つまりは大多数の学生にとっては苦行としか言いようがない。

 想像してもらいたい。カントやニーチェなどの多少は馴染みのある哲学者についての講義ならまだしも、よく知らないお婆さんについて、極寒の教室内で延々と話すのを聞かされるわけである。


「まったく、寒いわ何を話しているのかよくわからないわで、さすがに参るわね……ん? 参る? まいる……マイル……そうだわ、寒さを紛らせるためにマイルGⅠの検討でもしましょうか」

「いや、何その強引な持っていきかた」


 良いアイディアが閃いたといった具合に人差し指を立てた澤多莉さんは、こちらの応接が気に入らなかったらしい。


「あら、随分と冷たい物の言い方ね。馬券は外れたにも関わらず、福永の男泣きにもらい泣きしていた熱い男はどこに行ったのかしら? 『ふくながぁ、ふぐながぁ……』ってひどい顔と声で言ってたじゃない」


 顔を歪ませ、変な声を出す澤多莉さん。どうやら日曜日に東京競馬場で僕が見せた姿を忠実にコピーしているつもりらしい。


「あれはだって、感動しない方がどうかしてるよ。キングヘイロー以来19回目の挑戦で悲願のダービー制覇、聞くところによると天才と言われたお父さんも……」

「ああ、わかったわかった。その話もう散々聞いたから。良い話でもあなたが話すと面白くないのよ。何なの? 2代目林家三平に弟子入りしていっ平の名前でももらったの?」

「そこまで面白くないかな……」

「まったく、ただでさえ寒いのに、ますます凍てついてしまうわ」


 毒舌を吐きながら、前の席の女性と同じような『おお、さむさむ』といったポーズをとってみせる。


「いや、随分あったかそうに見えるけど」


 澤多莉さんは厚手の黄色いパーカーを着用している。前面に目とクチバシのイラストが描かれており、某有名なキャラクターをモチーフにしたものらしい。

 本来ならば季節外れ甚だしい格好なのだが、今この教室内においては最適であり最強の装備であろう。

 余談ながら、黒髪のロングヘアー、色白で端整な顔立ちの美女がこのようなファンシーな格好をしているのは、一種のギャップを醸し出すというか、まあ自分の彼女なので控え目に表現しておくと、ウルトラキュートである。


「私はあなたと違って友だちが曹操軍の軍師ぐらいたくさんいるから。あの教授が年齢にそぐわず極端な暑がりで、6月から9月の間は冷房の設定温度を必ず15℃にするって情報を前もって得ていたのよ」


 得意げに言うキイロイサワタリサン。

 冷房というものがそこまで低い温度に設定できるものかは疑問であるが、確かにそれならこの暴力的な冷気も頷ける。


「それなら僕にも教えてくれれば良かったのに」

「ダービーで号泣してた熱さを持つ男ならこれぐらいへっちゃらかと思って。ホラ『ふくながぁ、ふぐながぁ……』って」

「何回もマネしないでもらえるかな?」


 こちらの要請を受け入れてくれたのか、澤多莉さんは真顔に戻る。


「……そうそう、6代目柳家小さんも面白くないわよね」

「何で急に噺家の悪口を言い出す?」


 とか何とかやって。

 寒さの中、熱いGⅠの検討を始める。


「さあ安田記念ね。勝つのは成美か美沙子か、昨今安定した強さを誇ってる顕がやっぱり本命か、いやいやここはノッチの相方が狙い目かしら?」

「ええっと、どうやら大阪杯勝ったスワーヴリチャードをはじめとした4歳馬が人気しそうだね」


 澤多莉さんの世迷い言は適当に流すことにして、タブレット画面の出走表を指差す。


「でも、このレースって4歳馬の成績があまり良くないんでしょ?」

「うーん、でもそれは6月で獲得賞金が半額になっちゃうから、4歳馬が出てきづらいってことが大きいんじゃないかな? 賞金積むために無理して使ってきて余力なしってケースもあるだろうし」

「なるほどね。それで言ったら今回はヴィクトリア組とカズオの罠に嵌められたモズアスコット以外は、そこまで厳しいローテーションでは来てないわね。でも斤量の問題は?」

「うーん……」


 澤多莉さんの指摘するところは、強いとされている4歳馬たちにとって58㎏の斤量を背負ってのレースは今回が初めてという事実。


「確かに気掛かりな要素ではあるけど、調教とかである程度対策してるだろうし、気にしすぎなくていいかなーって。初めてだろうと初めてじゃなかろうと、同じ斤量で戦うわけだし純粋にどの馬が強いかで考えた方が良い気がするけど」

「そうね……あなたにしては悪くない考え方ね。目からウロコだわ」


 珍しく褒めてくれる。単純な人間だと思われてしまうかもしれないが、やたらに嬉しい。


「それであなたの本命は? やっぱり現役最強説もある上に1番枠に入ったスワーヴリチャード?」

「うーん、でも距離が初めてなんでわからないってのはやっぱりあるかな。マイルの流れで大阪杯みたいな仕掛けは難しいだろうし、出遅れすることもあるから1枠1番は却ってアダになることもあるかなあって」

「まさかデムーロがヨシトミさんみたいなカニ走りをするとでも?」

「まあ去年レッドファルクスでそれに近いことはしてたし。あの時は差しが効く展開もあって3着に入ったけど、今年は多分同じことやったら厳しいと思う」

「ふむう……」


 顎に指を置き考え込む澤多莉さん。心なしかパーカーのキャラクターも考え深げな表情に見える。


「確かにNHKマイルは別として、ここのところ東京では好位から競馬した馬ばっかり勝ってるのよね……でもそうなると、ペルシアンナイトやサングレーザーも後ろから行く馬だし厳しいってこと?」

「展開によってはそうかもしれないけど、スワーヴリチャードも含めてその3頭は操縦性高いから、スムーズに進路さえ見つかれば勝機はあると思う。スワーヴも外枠だったら良かったと思うんだけど」

「となると本命はコレかしら?」


 澤多莉さんの白く細い指が8枠15番のサングレーザーを差す。


「うん。スワーヴリチャードとペルシアンナイトがお互いマークしあう中、有力馬の中では一番レースしやすくなるのかなって」

「二週続けて外から2番目の枠を引いた福永祐一がGⅠ勝利を飾って、あなたは『ふくながぁ、ふぐながぁ……』ってやるわけね」

「さすがに彼が安田記念勝ったところで泣くことはないと思うけど」

「でも東京は初めてで、左回りも輸送も慣れてはいないけど大丈夫かしら?」

「そこは懸念ではあるけど……まあ、東京コース自体は向きそうな気がするし大丈夫かなって」

「なるほどね……」


 澤多莉さんは腕を組み、軽く嘆息する。


「さすがの私も感心したわ。そんな屁理屈以下のビチグソ理屈で予想を組み立てる人間がいるなんて。世の中地べたの底のさらに底を這いつくばるかのようなゴミムシが存在するものなのね」


 いつものやつが始まった。

 なお、以前にも説明したが、我々の会話は二人以外の人間には届かない絶妙な声量で交わされているため、澤多莉さんのお嬢さま然としたかりそめの人物像は他の学生たちの間では崩れずに保たれている。よくこんなんでボロが出ないものだ。


「あのね。いいこと教えてあげるからよく聞きなさい」

「何さ?」

「福永が二週連続GⅠで勝つわけないじゃない」


 身も蓋もないことを言う。


「でもずっとなれなかったダービージョッキーにもなれたわけだし、ここは期待してもいいと思うけど」

「いいえ絶対にないわ。世の中ごくたまに絶対と言い切れることがあるものなのよ」


 やけに頑なである。福永に何か恨みでもあるのだろうか。まあ、ネット上などでは親の仇みたいに腐されることの多い人物ではあるのだが。


「そうね。もしサングレーザーが勝ったら、あなたの言うこと何でも一つ聞いてあげるわ」

「えっ? ……何でも言うことを?」


 澤多莉さんの言葉に、急激に胸が高鳴る。何でもって、本当に何でもか???

 こちらの動揺を見透かしたか、澤多莉さんは口角を上げ、嘲笑うような視線を送ってくる。


「そう、何でも。あんなことでもこんなことでも。ちょっとダイタンなことでも構わないわよ」


 囁くような声。僕は硬直してしまい、何も返すことができない。

 澤多莉さんはこちらの熱くなった耳朶に口を寄せ、更にひそやかに囁いてくる。


「パイオツミーモーとか」

「品! 品がない‼︎」


 クスッと笑う澤多莉さん。これはもはやからかいではない、おちょくりである。

 とはいえ、彼女の言ったことは聞き捨てならない。ようし福永、何が何でも勝ってくれ。ていうか勝て。


「福永に全身全霊を込めて念を送ってるところ悪いけど、もしサングレーザーが上位に来るなら、更に上回る馬が1頭いるのよ」


 そういえば澤多莉さんの本命を聞いていなかった。


「上回る馬?」

「そう。どうやらあなたは4歳馬が強いってことに意識がいきすぎてるみたいだけど、この馬をナメちゃいけないわよ。ナメるのはビーチクだけにしときなさい」


 蛇足の一言は聞き流し、彼女が指差したタブレット画面に注目する。

 5枠9番レッドファルクス。


「レッドファルクスかぁ。まあ確かに怖い1頭ではあるけど」

「高松宮記念は負けたけど上がり最速の脚使っててまだ衰えてはいないわ。この馬も後ろからになるだろうけど、主戦場がスプリントってこともあって、コーナーあたりで押し上げていくのはそう難しくない筈よ。現にマイルチャンピオンシップではそういう競馬できてたしね。得意な坂のあるコースなら突き抜けるんじゃないかしら? それに安田記念はリピーターがよく来るレースだって言うし。昨年出てたのってこの馬だけでしょう?」


 ほとんど息継ぎせず、立て板に水で述べてくる澤多莉さんに圧倒される。


「それにね」

「まだある?」


 澤多莉さんは馬柱のある欄を力強く指差す。


「この馬は斤量58での実績のある数少ない1頭なのよ!」

「さっきの話は⁉︎ 目からウロコって言ってたじゃない!」


 授業時間はもう少し。まだ喧々諤々の議論は続く。

 空調が異常なレベルで効きすぎており、すっかり冷え切った筈の室内なのだが、いつの間にやらヒートアップしていた僕はシャツのボタンを一つ外す。

 澤多莉さんもフリースを脱ぎ捨てる。と、インナーはノースリーブ。肩の白さがあまりにも眩しい。

 一瞬で身体中の血が沸騰する。


 できればもう少し冷房の温度を下げてもらえないものだろうか。


(つづく)



 ◆安田記念


 澤多莉さんの本命 レッドファルクス

 僕の本命 サングレーザー

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