第21話 宝塚記念
近頃とみに考えてしまう。
彼女と僕は何なのだろう?
彼女にとっての僕は何なのだろう?
今、目の前で響17年のストレートをまるで麦茶でも飲むかのようにゴクゴクやっている女性と付き合いはじめてそろそろ半年になろうとしている。
「うーむ難しい。極めて難解ね。難解に咲く兄弟愛ね」
学校からほど近くの喫茶店『月が丘』の閑散とした店内。
澤多莉さんは頬杖なぞつき、テーブルに置かれたタブレットの画面を白く細い人さし指でいじりいじりしている。
当然僕も含めたそうではない人間にしてみれば不平等なことこの上ないが、優れた容姿の持ち主はそんな姿も絵になるもので、写真にでも収めてみればたちまち芸術作品として高い評価を得られるのではないだろうか。
いつもながらに澤多莉さんは美しい。
今日は黒系の服をサラッと着こなしており、クール・ビューティといった趣き。その気になれば何百人何千人といった男性をかしずかせることができるだろう。
半年が過ぎてもこの人が僕の恋人なんだという実感を得ることはできていない。
その所以の一つは、こんなにも美しく魅力的な女性が、とりたてて何も秀でたところを持ち合わせない僕と付き合うということが、客観的に見て驚天動地の、有り得ない出来事であること。
そしてもう一つは。
「ねえ、そこのウスノロ氏」
誰のことかと問うまでもない。澤多莉さんがこちらに言葉を投げかけてくる。
「何なのよこのメンバー? 一体どう予想すればいいのか見当もつかないんだけど」
「……まあ難しいよね。グランプリレースどころか普通のGⅠとしても微妙なメンバーになっちゃって、本命不在というか」
「はあ?」
眉根を寄せ、こちらの顔を覗き込んでくる澤多莉さん。軽く首をかしげる。
「何ぬかしてるのよ、逆よ逆。本命だらけの豪華絢爛なメンバーで、切れる馬がいないって言ってるのよ」
「へっ?」
今度はこちらが首をかしげる。
球蹴り競技よりも馬走り競技にゾッコンである我々のような層にとっては、この時期最大のスポーツイベントが明後日の宝塚記念であることは論を俟たないところであるが、今年は低調なメンバーになってしまったというのは多くの競馬ファンの共通認識である。
大真面目な表情で改めて馬柱を見つめること数秒、澤多莉さんは大きなため息をついた。
「ダメだ、強い。1番から16番まで猛者ばかりでやんなっちゃうわ。こうなったら3連単16頭ボックスでも買っちゃおうかしら」
「30万円以上かかっちゃうからやめといた方がいいと思うけど」
頭を抱える澤多莉さん。
そういえばつい一ヶ月ほど前のダービーのときもこんな風に本命を決められずに苦悩していた。あの時と悩んでいる由来は逆のようであるが。
「でも、たとえばこの辺はさすがに厳しいんじゃないかな? 前走大したメンバーじゃない新潟大賞典でまったく見せ場なかったし、まず無いような気がするけど」
1枠1番のステファノスを指して言ってみた僕に、鋭い眼光が飛んでくる。
「何て愚かなことを言っているの? たったの一年ちょっと前、状態最高のキタサンブラック相手に0.1秒差の2着だった馬が、まず無いだなんて愚劣ここに極まれりね」
「そこまで言われるほどかな……」
「それに無知蒙昧なあなたといえど、ステファノスの休み明けは叩きオブ叩きと言われているのを知らないわけじゃないでしょ? よって新潟での大敗はノーカウント。切るわけにはいかない1頭ね」
堰は切られた。澤多莉さんは次々出走表の馬名を指差し、論評をしていく。
「ノーブルマーズが下馬評では人気してないのは意味不明ね。オープン、GⅡと差のない2着で来てて上り調子なのは明白。1000万条件だけど阪神2200を57.5背負って好時計で勝ってるし、こういうの買えないようじゃ生きてる価値はないわ」
「サトノダイヤモンドは言わずもがな、本来の力でいえば単勝1倍台でもおかしくない馬よ。あとは真価を発揮できるかどうかだけ」
「ミッキーロケットを侮るなんてとんでもないわ。今回のメンバーでは天皇賞の最先着馬の根性マンよ。なにげにゲートの悪さを克服したっぽいこの馬が内目の枠にいるのは不気味だと思わない?」
「前走重賞を勝ってここに臨んでるのはストロングタイタンだけ。当然有力と考えざるをえないわね」
「アルバートには2200が短いなんて思ったら大間違い。キレ勝負でなく駆け引きがものを言う展開になったら、遅漏のテクニックを早漏な連中に見せつけてくれる筈よ」
「パフォーマプロミスの安定した強さには目を瞠るものがあるわ。阪神が初めて? 中山でも京都でも東京でも走る馬が、阪神だけ走らないかもなんて考える方が無理あるでしょ」
「忘れちゃいけないのは、ダンビュライトが最強4歳世代の上位馬ということ。何でナメられてるのか意味がわからない」
「昨年優勝、秋の天皇賞2着のサトノクラウンが人気しないなんて、そんなボーナスチャンス滅多にないわ。晴れなら貯金を全額下ろして、雨なら臓器を売ってでもお金用意して突っ込むべきね」
「ヴィブロスにまたがるのはかのダービージョッキーの福永様よ。どう考えても勝ち負けね」
「サイモンラムセスの戦績をよく見て。前走は2400mを0.3秒差で逃げ勝ってて、前々走は2000mを0.7秒差。計算上今回は0.5秒差で勝つことになるわね」
「タツゴウゲキは強いわよ。正義超人でいえばウルフマンね」
「ワーザーの獲得賞金額を見て。7億7千万よ? これだけ稼いでたらさぞかし美味しいカイバを食べてるでしょうね」
「スマートレイアーが頭数合わせだと思ってたらとんでもないわ。牝馬の宝塚記念、そして宝塚の舞台に立つ人は顔を白く塗っている……宝塚記念における芦毛の牝馬の複勝率って知ってる? 私は知らない」
「ゼーヴィントは強いわよ。正義超人でいえばブロッケンジュニアね」
「ピンク色の帽子を被ったミルコが突っ込んできて優勝をかっさらっていく……この一年で何回見た光景かしら?」
澤多莉さんまたしても大いに語りき。
心なしか馬によって語りの熱量が違うような気もするが、まあそこはスルーしておこう。
「でも、何だって今回に限って、そんなに各馬に高い評価下してるの? 今までだったら次々バッサリ切ってたのに」
「試しに加点法で検討してみたら、どの馬も良く思えてしまってこの有様よ。やっぱり馬も人も良いところを探すより粗探しをしてくさす方が私の性分に合ってるってことなのかしらね」
人として悲しいことをさらりと言う。
「探せども探せども良いところなんて見当たらないあなたのような馬がいてくれれば助かるんだけど」
「……まあ褒め言葉として受け取っておくよ」
かろうじて言葉を返す。
澤多莉さんにしてみればいつも通りの、挨拶がわりのような毒舌に過ぎないのだろう。そう思いはしても、心には結構刺さった。
こうして大学近くの喫茶店で、或いは講義の行われている大教室の後ろの席で、澤多莉さんと僕は額をつき合わせて競馬の検討をする。
日曜日には競馬場で一緒に過ごし、大いに楽しみつつもまあ大体は負けて、澤多莉さんが自転車で来ているときはそのまま解散、電車のときは飲みに行ったり。
控えめに言って最高の時間を過ごさせてもらっていて、それ以上の何かを求めることなど不遜極まりないのかもしれない。
が、それにしても。
彼氏彼女の関係になった有馬記念の日からもう半年が経つ。経つというのに。
やはり彼女が恋人なんだと確かな実感を持つには至れない。
彼女と僕は何なのだろう?
彼女にとっての僕は何なのだろう?
「こうなったら、どうせわからないなら荒れてしまえってことで、ノーブルマーズあたり本命にしとこうかしら」
「うん、ていうか明らかにさっき話してたときその馬への肩入れが大きそうだったよ」
「何見透かしたようなこと言ってるのよ。騎手でいえば高倉稜ランクのくせに」
「ノーブルマーズ本命なんだよね?」
こんなやりとり、楽しくて仕方ない。
いつまでもこういう風に過ごしていたいと思う。今が一番幸せなのかもしれない。
「そういうあなたはどの馬が本命なのよ?」
「うーん、僕はダンビュライトにしようかなって」
「あら? どうせ私が褒めたから買うことにしたんでしょ。卑怯な後乗り野郎ね」
「いや全頭褒めてたじゃない。その罠の方が卑怯だよ」
卑怯と言い返されたのが気に食わなかったか、微妙に唇を尖らせた超絶にキュートな表情を見せてくれる。やばい。
そして澤多莉さんは尖らせた唇をそのままウイスキーグラスにつけ、琥珀の液体を喉に流し込んだ。
僕はまだ、その唇の感触を知らない。
(つづく)
◆宝塚記念
澤多莉さんの本命 ノーブルマーズ
僕の本命 ダンビュライト
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