第22話 スプリンターズステークス

 雨の音が更に強くなったような気がして、僕は手元のタブレット画面から窓外へと目を移した。

 外はすっかり夜の帳が下りており、どれほどの降り具合かはっきりとはわからないが、窓を流れる雨滴の様子から、雨上がりは程遠そうな雰囲気なのは間違いない。


 またしても台風がやって来ており、今度は西から列島縦断か、正道だねなどと不謹慎なことを言っている場合ではなく、これは非常に深刻な事態。

 何が深刻かって、小は数多くの会社や学校などの運営に支障が出てしまうこと、大は今もって平静を取り戻したとはいえないこの夏の被災地に更なる被害が広がってしまう恐れがあること、そして個人的なところでいえば、ただでさえ難しい秋のGⅠ開幕戦が更に難解になってしまうことである。

 それもまた不謹慎な物思いなのかもしれないが、自分自身の日々の営為に照らして喫緊の問題がそこにある以上、やむを得ない。


 改めてタブレット画面の出走表を眺める。重馬場どころか荒れ馬場になるかもしれないコンディションでも力を発揮できそうな馬は……


 と、壁に掛かっているいかにもアンティークで御座いますといった雰囲気のからくり時計が音楽とともに作動を始め、ドワーフやら王子さまやらポニーやらの人形が姿を現わす。王子さまは何やら切なそうな顔でポニーを見つめている。

 どうやら夜8時になったらしい。


「ていうか、この店にあんな時計あったっけ……」


 首をひねりつつ呟く僕に答える者は誰もいない。からくり人形たちが定時定時のショウを終え、退場していく。

 喫茶店『月が丘』の店内はまた静謐を取り戻し、耳をすませばしとしとと降る雨の音だけが微かに聞こえてくる。

 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、僕はおかわりを頼んだ。


 あの王子さまは良い。12時をさすときはあのポニーが本来のエルフの姿に変わり、逢瀬を果たすことができるのだから。一日に二回、結構な頻度である。

 それにひきかえ僕たちは……


 無言で配膳されたコーヒーに口をつけ、何やら色々な諦めを含んだため息。

 もう三ヶ月近く前になろうという、別れの夜を思い出す。



 夜空を彩る音と光の芸術に、大きな歓声が上がる。

 花火大会が催されている東京競馬場はGⅠデー並みの混雑具合だったが、早めに来場してスタンドのそこそこ良席を確保していた僕たちは、快適に見物できていた。


 が、僕は花火を堪能していられる状況ではなかった。

 ちらりと隣を見やると、美艶な浴衣姿の澤多莉さんが夜空を見上げている。光に照らされる横顔があまりにもまぶしくて、思わず見蕩れてしまう。

 身体が熱く、とめどなく汗が流れてくるのは真夏日のせいだけではないだろう。


 実のところ、この日僕は一世一代の決意を胸に秘めていた。

 彼女と交際を始めて半年以上が過ぎても、僕たちは古代用語でいうところのAすらもまだ済ませていない。

 僕は決して草を食む系統の男の子ではない。今日こそは一歩進んだ関係に。

 すごく昔の映像で、やたら男くさいアーティストが、今夜こそお前を落としてみせると力強く歌っているのを見たことがあるが、まさにそんな心持ちで臨んだ花火デイト。


 が、浴衣姿の澤多莉さんが降臨した瞬間、ほぼ戦意喪失。

 彼女の着ている白地にかすみ草の柄があしらわれた浴衣は、完璧としか言いようがないほどに似合っていた。束ねた髪、白いうなじに魂を吸い込まれた。


 何なのこの人。美しすぎる。


 出会った頃と何ら変わらぬタジタジっぷりで過ごす澤多莉さんとの時間はあっという間に過ぎていき、花火大会はフィナーレを迎えた。

 にわかに喧騒の場内。予定ではまだまだ長い夏の夜を一緒に過ごそうと澤多莉さんにオファーをかけるつもりだったのだが、なかなか言い出せず、僕は硬直気味だった。


「それじゃ」


 ポツリと言い、スッと立ち上がる澤多莉さん。


「なかなか面白い爆発ショーだったわ。職人さんたちの技術を兵器使用したらどれほどの殺傷力を持つものなのかしらね」


 何やら過激なことを言いつつも芍薬の花のように美しい姿をじっと見上げる。いや、ここは見蕩れている場合ではない。

 この夏を澤多莉さんとの新たなステージとして迎えるべく、僕は勇気を振り絞った。


「あの、今夜良かったら……」

「おかげで良いお別れの夜になったわ」


 唐突な発言に、今度は本当に硬直しそうになる。


「…………えっ?」


 澤多莉さんは、光のページェントを終えた夜空を見上げ、その声は特に何の感傷も無いようだった。


「春のGⅠシーズンを終えて、私たちこのままじゃいけないって思ったの」


 え? え? え? もしかしてこれって……


「このままあなたと一緒にいたら、ダメになってしまう」


 澤多莉さんが初めての彼女である僕は、もちろん別れ話の経験も全く無い。

 こんなにも何の心の準備もないところに、唐突に訪れるものなのか。理解が追いつかず目眩がしそうだった。


「だから、この夏はお互い修業をしなければならないのよ」

「…………ん?」


 こちらを見下ろす澤多莉さん。表情一つ動かさずに言葉を紡ぐ。


「このままじゃ私は一流馬券師止まり。超一流にはなれないわ」


 そんなことをにこりともせずに言ってのける。


「あなただっていつまでも六流の馬券師で良しとしてるわけじゃないでしょ?」

「六流……」

「だから、この夏はお互い旅打ちに出て修業をしましょう。JRAのローカルはもちろん、地方競馬、競艇、競輪、オートレース、裏カジノと日本中の鉄火場を渡り歩いて、レベルアップにいそしもうじゃないの」

「一ヶ所絶対にやめといた方がいい場所が混ざってるけど」


 澤多莉さんは、細く白い指をターフビジョンの方向にスッと差した。


「私は今夜の寝台特急で西へ向かうわ。まずは高松競輪と高知競馬を攻略するの」

「多分あっちは南側だと思うけど……」

「あなたはセグウェイか何かで北へ向かうといいわ。たしか明日は盛岡競馬が開催してるはずよ」

「持ってないし、高速移動には向いてないと思うなあ」


 もちろん僕の指摘するところなどは一切意に介すことなく。


「それじゃあ。次に会うのはスプリンターズステークスの枠順が出る頃かしらね」

「えっ、そんな長期間⁉︎ 三ヶ月近く先だよ???」

「それだけ修業すれば覇気を身につけることもできるかもしれないわね」


 かくして。

 澤多莉さんは西へ、僕は東へ。

 常識的な者であれば、インターンやら留学やら、将来へ向けて実効的な時間の過ごし方をすべき大学三年生の夏を、賭博修業へと費やしたのだった。



 あまりにも熱い夏を越え、自分自身が何か変わったかはわからない。

 旅の先々で、己は一体何をしているのだろうと我に帰ることは軽く100回は数えたのではないだろうか。それでも澤多莉さんに言われたとおり旅打ちを続けた自分を律儀だと褒めてあげたい。


 スプリンターズステークスの枠順が確定した昨日東京に戻り、この喫茶店に来てみたが澤多莉さんは現れなかった。

 でもさほど動揺しなかったのは修業の成果なのかもしれない。


 明日GⅠシーズンが幕を開ける。

 澤多莉さんと僕は勝負をする。検討をぶつけ合い、ともにレースを見て、喜んだり悔しがったり、でも彼女はそれを表に出さないで。僕は常に手玉にとられて。

 そんな日々が始まるんだ。


 カランコロンカランとドアベルの音が響く。ほらね。


 来店してきた人物に目を向けると、目深に編笠をかぶっており、身体には蓑をまとっている。そのいずれもところどころ破れており、そのまま雨に打たれてきたようでずぶ濡れだった。

 こちらに向かってくる足元を見ると、かんじきを履いていた。こんな奇抜な人間は僕の知る限り一人しかいない。


「すごい格好だね……一体どこで何してきたの?」


 僕の目の前に立ったその人は、問いかけには答えなかった。笠の破れ目から瞳をのぞかせこちらを見つめてくる。


「えっと、澤多莉さんだよね?」


 それにも答えず、懐から何かを取り出し、テーブルの上へと置いた。

 僕はさすがに目を丸くした。それは帯で封された一万円札の束だった。しかも一つではない。次々と懐から取り出し、最後にはドキュメンタルの賞金総額ぐらいのボリュームになっていた。


「あ、あの、これは……」

「夏の戦利品ってところね」


 まごうことなき澤多莉さんの声だった。が、再会を喜ぶよりも驚きの方が勝る。


「こんなに勝ったの⁉︎」

「約三ヶ月あちこちでギャンブルしてたのよ。これぐらいにはなるわよ」


 こともなげに言ってのけ、僕の対面に腰かける澤多莉さん。なぜか笠も蓑も取ろうとせず、どぶろくを注文している。

 僕はそんな彼女にツッコミを入れる余裕もなく、目の前の札束に圧倒されていた。本当にこの夏の修業でとんでもない賭博師になったというのか。

 夏全体でちょいマイナスだったのを、今日の中山でひたすらモレイラ作戦に打って出てかろうじてプラスに持ち込んでいい気になっていた自分が情けなく思える。


「ま、回収率85%ってところね」

「負けてる! ていうかどんだけ使ったの⁉︎」


 ここにある金額が1,000万円だとして、1,200万円近く使っている計算になる。


「昨日までは勝ってたんだけどね。今日の昼間に立ち寄ったあんみつ屋さんで、魚の燻製を二つ投げて、猫がどっちを先に取るかって賭けを持ちかけられて、見事に負けてしまったのよね」

「ギャンブルは公営のものだけにしといた方が良いと思うよ……ていうかあんみつ屋さんにそんな人いたんだ」


 マスターが持ってきたどぶろく(なぜか瓢箪に入っている)をゴクゴク飲む姿を見て、この人はいつか身を持ち崩すに違いないと確信を抱く。


「まあ旅の土産話はおいおいするとして、まずはスプリンターズステークスね。たった1分ちょっとの閃光のために時間をかけて検討し、虎の子のお金を賭ける。あまりにも馬鹿げていて、だからこそゾクゾクするわね。狂気の沙汰こそ面白い」


 ああ、何だか言ってることまで真性っぽい感じになってきている。


「で? どうせ夏の間、豆券ばっかり買ってたであろうおマメちゃんはどの馬を買うつもり?」

「おマメちゃんて。まあ、今回ものすごく難しいと思うんだ。本命サイドがそこまで盤石と思えないし、飛び込んできそうな穴馬もたくさんいるし」

「あら。こんな簡単なレースでそんな泣き言が飛び出すなんて、さてはこの夏修業をサボって呑気に観光でもしてたわね。さしずめ、日本全国のマクドナルド全店ポテトLサイズ食べくらべでもやってたってところかしら?」

「いや、そんな過酷なマネしてないけど」


 澤多莉さんはテーブルの上に置かれたタブレットを覗き込んできたようだ。笠で隠れてその目線はわからないが。


「だったらなるべく人気薄めのところ、でも薄すぎないところを狙いたくなるのが凡人の発想よね。例えばGⅠで人気ない馬に乗った時のルメールとか」

「まあムーンクエイクは確かに怖いんだけど、ここはこの舞台で実績ある馬を選びたいかなって」

「なるほどね。確かに、ファインニードルとナックビーナスが人気を集めてくれてるおかげで、昨年の1〜3着馬がみんなそれなりにオッズついてるのは見逃せないわね」

「そう」


 我が意を得て、思わず前のめりになる。


「レッドファルクスはここのところふるわないって言っても、速い上がりは出してるから衰え切ってるわけではなさそうだし、レッツゴードンキも前走があくまで叩きととらえたら適性高い今回は期待できるし、ワンスインナムーンは前走勝って出てくるわけだし、みんなそれなりにチャンスあるかなって」

「なるほどね」


 窓の外を見やる澤多莉さん。先ほどより雨の音が強くなっている。


「特にファルクスとドンキはダート経験もあるし、馬場が荒れてもさほど力は削がれないだろうって読みかしら?」

「うん。特にレッツゴードンキは、フェブラリーステークスで残り200mぐらいでパッタリ止まるまでは良い走りを見せてたし、この条件ならまだまだやれるんじゃないかなって」

「バガこぐでねぇ」


 澤多莉さんはどこかの方言みたいな言葉でこちらを制止してきた。


「その理屈で言えば、もっと買うべき馬がいるじゃない」


 笠の破れ目からのぞく眼光も鋭く、こちらを指差す。


「昨年やはり雨の重馬場でレッツゴードンキに勝ってて、元はダート馬、スタートさえ決まれば一線級のこの馬を忘れてはいけないわ」


 言いながらタブレット画面を指差す。

 1枠2番・ヒルノデイバロー。


「う〜〜〜ん……」

「何首ひねってるのよ。折れるわよ。もとい折るわよ」

「でもヒルノデイバローはさすがになぁ。確かに好走することはあるけど、その率が低すぎるし、そもそも芝で1勝もしたことないし……」

「時計差無しの2着を勝ちと同等とみなせば、5勝していることになるわ」

「うーん、でもなぁ……」


 いくら何でも無謀なように思えてならない。


「まあ、楽しみにしてなさい。三ヶ月間の修業の成果をとくと見せてあげるから」

「何となくこれまでとあまり変わってなさそうな予感がしてならないけど」


 と、澤多莉さんがふと編笠に手をやる。


「あら、私としたことが室内なのにハットをかぶったままだったわ」

「ハットって」


 おもむろに編笠を外した澤多莉さんを見て、僕は驚愕のあまり顎が外れそうになった。


「何よ、あんぐり口を開けちゃって。リクームイレイザーガンでも放つつもり?」

「い、いや、だって……」


 後から思えば女性に対して失礼だったのかもしれないが、僕は思わず指差して言ってしまった。


「どうしたの、その髪?」


(つづく)



 ◆スプリンターズステークス


 澤多莉さんの本命 ヒルノデイバロー

 僕の本命 レッツゴードンキ

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