第15話 天皇賞(春)

「まったく昨今の長距離レース軽視の風潮には賛同しかねるわね。3分超にわたり馬券を握りしめて固唾を飲んで観戦することこそが競馬の真髄。昨年キタサンブラックとサトノダイヤモンドの両横綱が参戦したことで少しは流れが変わるかと思ったけど……天皇賞こそ古馬による最高峰の戦いという古き良き時代に回帰してほしいものよね」


 などと高説をぶっていたと思いきや、こちらの方を見据えてきて。


「なーんて、その昨年の天皇賞すらリアルタイムでは知らないニワカ馬女が何知った風なこと言ってるの? 顔でも洗って出直してこいって思われてしまうかしら?」


 とか言ってくる澤多莉さんに対し、いやその通りだよ少しわきまえなさいとは返せず、己のことを『ウマジョ』ではなく『うまおんな』と呼称していることへのツッコミのみに留めたのは、何も関係性の悪化を避けたいからという理由ばかりではない。



 ちょっとした犯罪告白になってしまうのだが、僕が初めて競馬場を訪れたのはちょうど二年前。キタサンブラック4歳時の春の天皇賞の日だった。


 大学に入学してから一ヶ月が経ち、あ、どうやらこのまま冴えない四年間を過ごすことになるなコレと悟り、特に期待はしていないつもりだったにも関わらず、妙に落胆を覚えていた頃のこと。

 暇に任せてダラダラ過ごした土曜日の夜、明日の日曜もなんもやることないなーとため息ついて。

 本当になんとなくとしか言いようのない感じで、競馬場にでも行ってみようかなと思いたった。

 それまで競馬なんて見たこともなく、欠片ほどの興味を抱いたこともなかったにも関わらず、そんな風に思い至ったことに、どのような心理の働きがあったのか、自分でもよくわからない。


 絶好の行楽日和となったゴールデンウイークの日曜日ということで、その日の東京競馬場は本場での重賞レースが無いにも関わらず、多くの人出で賑わっていた。

 その場所に初めて足を踏み入れた僕は、スタンドの巨大さ、馬場の広さ、人出の多さに驚き、圧倒され、昂揚していた。


 そこにいるだけでも新鮮な体験だったが、折角来たのだからと、初めて買ったスポーツ新聞の馬柱を、並んでいる文字や数字の意味もよく分からぬままに眺めてみて、見よう見まねの検討をしてみる。

 これがまた異様に面白い。そして、ああでもないこうでもないと考えているうちに、あっという間に出走時間。


 ビビった。馬と馬の走りっこがこんなに面白いとは。

 当時二十歳未満だった僕は、法を踏みはずすのはいけないし怖いと、最初は予想だけして馬券を買わずに観戦していたのだが、メインレースの頃には、もうたまらない気持ちになっていた。少額でも馬券を握りしめて観戦すれば更に何倍も面白いであろうことは、本能が告げていた。


 レース後すぐに証拠隠滅のため捨ててしまったので、しっかりとは覚えていないが、初めて買ってみたGⅠの馬券は、たしかフェイムゲームとゴールドアクターとどれかの馬連3頭ボックス。

 遠く京都の地で行われたレースをターフビジョンで観戦した3分強。あの時間が僕の向後の人生を決定付けたんじゃないかと思う。

 身震いするほどの興奮と感動の余韻の中、腰が砕けたように座り込み、喜色満面でまつりを歌う北島三郎オーナーをターフビジョンに眺め、あーどうやらハマっちゃったなあと明確に認識していた。



 なので、僕は澤多莉さんをニワカ呼ばわりできるほどの競馬歴があるわけでもないし、そもそもファーストインパクトが天皇賞春だった身として、3分超にわたりレースを楽しめる長距離レースこそ醍醐味という考え方には全面的に賛同する次第なのである。


 なんて話をしているうちに、新幹線は静岡県に入っていた。

 窓の外を眺めていた澤多莉さんは、隣に座る僕の方に顔を向け、冷淡な口調でこう言った。


「なるほど。18歳で馬券を買っていたと。競馬法違反で逮捕ね」

「……まあ、そういう感じのこと言われるかな、とは予測していたけど」

「何よその言い様は。反省のカケラも見えないわね。言っておくけど、出所するまで女が待ってると思ったら大間違いよ」

「実刑で懲役くらっちゃうんだ⁉︎」

「それでも、もし私があなたを待っている場合、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチをぶら下げておくから」


 澤多莉さんは、真剣な瞳で、こちらの瞳を覗き込んでくる。


「赤字に大きな黄色い星のマークがついたハンカチをね」

「それベトナムの国旗だよね」


 指摘には特に反応を見せず、再び外の景色に目を向ける窓際の澤多莉さん。

 夕刻を迎え橙に染まった空に、富士山のシルエットが浮かび上がっている。

 その雄大な絶景に、僕も思わず見とれてしまう。


「……私の方が綺麗ね」

「それ自分で言うセリフじゃないから」


 金曜四限の哲学Dの授業の後、澤多莉さんと僕は新幹線で西へと向かっていた。

 言うまでもなく、春の天皇賞を現地にて観戦するためである。大阪杯に続いてこの春二度目の遠征。我ながら良い身分だなとは思うが、今回に関しては愛してやまない推し馬がGⅠに出るというのでやむを得ない。個人的にも昨年に続いての京都行だったりする。


 尤も、昨年は一人で夜行バス、今年は二人で新幹線であることを考えると、やはりつくづく良いご身分になったもんだなあと感慨を抱かずにはいられない。

 窓外を眺めている澤多莉さんの横顔は、どんな名画伯でも描けない、どんな名工でも造れない、唯一無二の美しさと思えてしまうのは、惚れた欲目なのだろうか。

 こちらに目を向けていないのをいいことに、つい吸い込まれるように見つめてしまう。


 と、こちらに向き直られて、慌てて目を逸らす僕。曲がりなりにも彼氏であるのに、これでは不審者である。

 そんなこちらの挙動に頓着する様子もなく、澤多莉さんは折りたたみテーブルに置かれたタブレットの画面を指差した。


「京都に着いたら、すぐ川床料理のお店行ってしこたま飲み食いしなきゃならないんで、今のうちに天皇賞の最終確認しておきましょうか」


 本当に、我ながら呆れるほどに良いご身分である。


「で、結局あなたは盲愛するレインボーライン本命という考えを改めるつもりはないってことね?」

「いや、まあ確かに贔屓目は否定しないけど、今回は前哨戦の阪神大賞典も勝ってるし普通に有力候補でしょ」

「へえ。昨年12着の馬が有力候補ねえ」

「う……」


 痛いところをついてくる。


「で、でも去年は出脚つかなくて最後方からの競馬になっちゃって、しかもあの高速決着だからノーチャンスだったし」

「じゃあ今年はどうなのかしら? 確か先週のマイラーズカップではレコードが出てたし、また高速決着になるんじゃない?」

「ううっ……」

「第一、その昨年の天皇賞含めて、レインボーラインはシュヴァルグランに4敗してるのよ? 勝ったのは福永が絶縁されるほどにシュヴァルが沈んだ宝塚記念だけ。今回上回ると考える方が無理があるんじゃない?」


 こういうときの澤多莉さんは容赦がない。

 が、こちらとて言われてばかりではない。


「でも、年齢差もあるし、それに今回シュヴァルグランが沈まないとも限らないし。大阪杯での大敗はやっぱり負けすぎだと思うな」

「まあ確かにそれはあるかもしれないから、私も本命は他の馬なんだけど」

「あれ? さっきの授業中はシュヴァルグランのことばっかり言ってたから、てっきり今回は堅くいくのかと思ったんだけど」

「何言ってるのよ。授業中私が言いたかったのは、いかにベイスターズ時代の佐々木主浩が凄かったかってことだけよ」

「物心つく前の頃の話だよねそれ」


 フォークボールの握りを見せてきた澤多莉さんは、その指を解くと、そのままタブレット画面を指した。


「私の本命はこの馬よ」


 指差したのは、5枠10番のサトノクロニクルだった。


「阪神大賞典では、最後グイッと伸びてて、勝ったレインボーラインよりむしろ可能性を感じさせる走りだったわ。それこそ年齢差を考えると、ここで逆転はあるんじゃない?」

「でもあの時は斤量が1キロ軽かったよ」

「1キロの差ぐらいなんてことないわよ。それじゃあ何? あなたは普通に3キロ走るのと、1リットルのミネラルウォーターを持って走るのとでは違うとでも言うの?」

「激しく違うと思うけど」


 澤多莉さんは今度は指先をこちらに向けてくる。


「まあ見てなさい。何気に今年そんなにGⅠとるチャンスの多くない池江厩舎がここはしっかり取りにくる筈だから。表彰式で喜ぶ池江センセイの顔が目に浮かぶようだわ」

「多分、池江さんは香港に行ってると思うけど……ところでさ澤多莉さん」

「なによ?」


 これは指摘すべきかどうか迷ってたところではあるのだが。


「大阪杯のミッキースワローの時ぐらいから思ってたんだけど……澤多莉さん前ほど大穴の馬ばっかりは狙わなくなったよね?」

「‼︎」


 目を見開き、硬直するという、予想外の反応を示す澤多莉さん。


「いや、桜花賞ではハーレムラインとか凄いの本命にしてたけど、最初の頃はもっととんでもない馬ばっかり本命にしてたような気がして」

「な、なななな、何言ってるのかしら? 私が置きにいった予想をしてるですって? 冗談ぶっこくのも大概にしてもらいたいものね。オホホホ」


 何故か激しい動揺を見せる澤多莉さんの姿は新鮮ではあったが、こちらとしても些か戸惑う。


「サトノクロニクル? ああ違う違う。コレはアレなのよ。だから本当のソレは……そう、ピンポン! ピンポンを本命にしようかしら」

「……無理しない方がいいよ」


 そんなつもりはなかったが、恋人として冷た目のツッコミになってしまっただろうか。

 澤多莉さんは窓の外を向いてしまった。


「ま、まあ別に、ちょっと人と違う目線で穴馬を買うのが私のスタイルだなんて自意識があったわけでもなんでもないし、むしろオッズは気にしないで買うタチだし、たまたま本命の馬がそこそこ人気してようがしてなかろうが関係ないんだからね」


 何やら拗ねたようにブチブチ言っている。

 頰が染まっているのは夕焼けのせいばかりではないようだ。


 相変わらず澤多莉さんの心理はよくわからないのだが。


 何これヤバイ。すっげー可愛い。


(つづく)



 ◆天皇賞(春)


 澤多莉さんの本命 サトノクロニクル

 僕の本命 レインボーライン

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