第14話 皐月賞
4月の中旬。大学においては、授業も部活・サークルもいわゆるお試し期間となっている。
キャンパス内は、さながらキャッチセールスのごとき上級生たちがGⅠ開催時の競馬場のようにひしめき合い、新入生らしき学生を見るや、藤田菜七子が勝ったときにウイナーズサークルへと走るカメラ小僧のごとく殺到する。
教室棟の上階の窓から見下ろすその光景は、やや激しめのデモといった様相。
新入生の中には、あちこちで仮入部を繰り返し、新歓コンパに顔を出してはタダメシにありつくという強者もいるという。
それどころか、二年次三年次であるのに新入生のフリをして、その行動をとる慮外者すらいるというのだから驚嘆する他ない。
もちろん僕にはそんな輩は無縁の連中、遠い世界の住人でしかない。
二年前、あの群衆の狂騒に揉まれ、とりあえず部室にお菓子を食べに来いという体格の良いラガーシャツの人たちから、命からがら半ベソかいて逃げ出したことは、なるべくであれば記憶の奥底に封印しておきたいトラウマとなっている。
そんな感慨に身を浸す僕の隣で、同じように窓外の光景を眺めていた澤多莉さんが、軽く息をついた。
「思い出すわね。二年前を」
「うん……そういえば、澤多莉さんは何でサークルとか入らなかったの?」
「あら? すんづれいしちゃうわね。入ってるわよサークルぐらい」
「へ?」
まったくの初耳である。出会ってかれこれ半年になろうとしているが、これまでサークル活動している様子など微塵も感じたことはなかった。
「何のサークル?」
「黒魔術研究会」
「へー」
聞かなかったことにして、話題を転換することにする。
「そろそろ教室入っとこうか? できれば一番後ろの方の席確保しときたいし」
「そだねー」
過度に訛りのきいたイントネーションで返答してくる。
「どう? 今流行りのカーリング女子のモノマネよ。男の人ってこんなんが好きなんでしょ?」
「……まあ、二ヶ月前にやってくれてたら、テンションも上がってたかもしれないけど」
頼んでもないサービスを提供しておきながら、なぜか軽蔑したような眼差しを向けてくる澤多莉さんへの応接には苦慮するものの、
「教室はこっちなのかい? こっちでいいかい?」
今日は黄色のカーディガンにふわりとしたスカートという春らしい爽やかな服装の、長い髪の美女。
こんな人の使う方言は破壊力が凄まじい。僕は平静を装いながら、まんまとクラクラしてしまっていた。
今の時期、学生の本分の方も、初回授業を受講してみて履修するかどうか決めるという、いわゆるお試し期間となっている。
三年次である僕たちは、もうあらかたの単位は取り終えており、今年は各年次必修となっている外国語科目と、いくつかの演習科目だけ履修しておけば良いのだが、澤多莉さんからの提案で金曜四限に総合基礎科目を一つ履修することになった。
言わずもがな、昨年度の倫理学Aのように、重賞の枠順が出揃ったタイミングで検討を行うための授業である。
「え? 別に月が丘とかでやればいいんじゃないの?」
「だって、授業中の方が検討が捗るじゃない」
疑問を投げかけた僕に、澤多莉さんはごく当然といった口調で応えた。
なぜこの人が、品行方正な才媛としての外面を維持できているのか不思議でならない。
「それに、あそこの赤ちょうちんだとどうしてもお酒飲みながらになっちゃうから、検討も散漫になっちゃうのよね」
「昔ながらの喫茶店だし、赤いちょうちんがぶら下がってるのなんて見たことないけれども」
そんな経緯で、お試しとして初回授業に出席してみた金曜四限・哲学Dの授業は、噂で聞き及んでいた通り、内職し放題の講義だった。
大教室の壇上において講義している教授は、昨年度の倫理学Aの老教授同様、退官が近い年齢だった筈だが、こちらはやたらと矍鑠としており、マイクなど必要ないのではないかと思うほどに地声が大きい。
聴衆である学生の大半がスマートフォンをいじっていたり、雑談を交わしたりしていることにまったく頓着せず、教授は独演会さながらに熱をこめ、独自の解釈を織り交ぜ、ニーチェがいかにして発狂に至ったか解説をしている。
或いは、一部であっても熱心に受講している学生にだけ届けば良いと割り切っておられるのかもしれない。
先生のそのような気概に応えるような学生ではない我々は、最後方の席で、例によってタブレットを用いてGⅠの検討。
発狂して馬に抱きついた哲学者に物思うよりも、馬券を当てて、馬と歓喜の抱擁するジョッキーと喜びを分かち合いたいところ。
「さて、いよいよ牡馬のクラシックも開戦ね。まずは月の異名を間違えて覚えさせて、試験の点数を悪くしたり、日常会話で恥をかかせる元凶となっている皐月賞ね」
「まあ、確かに否定はしきれないけれど」
「ここはまずしっかりとって、馬券の三冠獲得の弾みとしたいところよね」
これまで一度もGⅠを勝ったことのない澤多莉さんは、今日も意気軒昂である。
「それにしても、つくづくダノンプレミアムの回避が悔やまれるわよね」
「うん。馬券的にも難しくなっちゃったけど、それ以前に単純に見たかったよねえ」
「ええ。人気を吸うだけ吸って着外に飛んでもらって、阿鼻叫喚に陥る群衆を見下ろしたかったものね」
そんなこと言ってるから碌に当たらないのである。
「で、一気に混戦模様といわれるこの皐月賞、勝つのはどの馬かご教示いただけるかしら? 桜花賞で20円トリガミだった達人馬券師さん」
痛烈な嫌味を言ってくる。念のためアーモンドアイを抑えとくことの何が悪いというのか。
「うーん、ここはあえてシンプルに考えようかなあって」
「なるほど。人生なんて食べて寝ていつか死ぬだけだと」
「いや、そういう風にシンプルに考えてるわけではなくて。馬券の話ね」
おそらく彼女にはバカにされるだろうが、ここは自信を持って、タブレット画面上の出走表を指差した。
「やっぱりダノンプレミアムが出てたら圧倒的な本命だったと思うんだ。だったら、ダノンプレミアムにしか負けてない重賞ウイナーの2頭で決まりなんじゃないかなって」
ワグネリアンとステルヴィオの馬名を順に指差す。
「なるほどね。脳みその代わりにババロアが詰まってるかのような思考停止の見解ね。聞くだけ時間の無駄だったわ。あなたに質問を投げかける前にタイムスリップして、哀しい歴史を改変したいものね」
思った以上に罵倒され、つい怯みそうになるが、ここで倒れていてはこの人の彼氏などやっていられない。もう少し根拠を述べてみる。
「展開的にも逃げ先行馬が揃ってるし、最後は脚比べになると思うんだ。そうなれば、詰まったりさえしなければこの2頭が力上位かなって」
「でも、内枠の福永は90%以上の確率で詰まるって、まとめサイトには書いてあったわよ」
「それ真に受けちゃいけないやつだから。まあ確かに、後方から行く馬は前を捌かないといけないわけだけど、今回は縦長の展開になる気がするし、開いてるところに持ち出すのはそんなに難しくないんじゃないかなあって」
「なるほどねぇ。じゃあこっちの馬は?」
澤多莉さんが一頭の馬名を指差す。たしかに今や話題の中心にさえなっている馬だ。
「キタノコマンドールかあ……今まで強い相手と走ってないし、関東への輸送も初めてだし、厳しいような気がするけど」
「でも天下のたけしが名付け親よ。ていうことは、佐竹チョイナチョイナの弟分ってことよ」
「その人知らないけど、特に頼もしさは感じないよ」
「何よ、失敬なことを言う人ね。バカやろこのやろ」
なぜか首をコキコキ動かしながらそんなことを言う澤多莉さん。モノマネがマイブームなのだろうか。
「結局、ダンカンはワグネリアンとステルヴィオのどっちを本命にするの?」
「誰がダンカンだよ。まあ、その2頭の馬連とワイドをメインにしようと思ってるんだけど、どっちかと言えば2000の経験のあるワグネリアンが本命かな」
「なるほどねえ。私はワグネリアンは来るとしたらダービーの方かなって思うんだけど」
それは一理ある。明らかに中山より東京向きの馬であることは間違いない。
が、それでもここでは抜けて強いのではないかと踏んでいた。
「澤多莉さんは? どの馬を本命にするの?」
虚空を見つめ、少し考える様子だったが、おもむろにタブレット画面を指差す。
「あなたが後方から末脚使うタイプの馬を有力視するなら、私は世のため人のため、あなたのことを否定するわ」
なぜそんなことを言われなければならないのかさっぱりわからないが、澤多莉さんが指差したのは、確かに正反対に近いレースをしそうな馬名だった。
「ジェネラーレウーノかあ……まあ確かにこの辺が前に残っちゃうこともあるかもしれないなあ」
「『あるかもしれない』じゃないわ。約束された未来よ。死海文書にも書いてあるわ」
よくわからないことを言いながら、馬柱の過去走の表示を指差す。
「同じ舞台の中山2000で2戦2勝。バカ逃げする馬は前に行かせて、レースしやすい好位につけたらしめたものよ」
「まあ確かにあるかもしれないか……」
澤多莉さんにしては、そこまで無理そうではないセンでの予想である。ひょっとしたらGⅠ初勝利という可能性も、なくはないのかもしれない。
四月なのに皐月賞、確かに磁場が狂ったかのような名称ではある。ひょっとしたらひょっとするかもしれない。
澤多莉さんの横顔は、いつもと同じく自信に満ち溢れている。
「さて、相手選びだけど、やっぱり芝で掲示板にも入ったことなくて、ダート勝ったのも1200っていうスリーヘリオスが、実は中山2000の鬼だったりしたら面白いし、配当が凄いことになるわね。これに決まりにしようかしら」
前言撤回。こんな考え方で馬券など当たるわけがない。
ま、今年度も楽しい時間が過ごせるならば、何よりの幸甚である。
(つづく)
◆皐月賞
澤多莉さんの本命 ジェネラーレウーノ
僕の本命 ワグネリアン
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