第13話 桜花賞

 4月最初の金曜日。シラバスの受け取りやら、各種新年度を開始するにあたっての手続きのため、久々に訪れた大学のキャンパス。

 今年度はいいことあるかな、どうせないだろうなと沈鬱な心持ちで訪れてみたところ、わざわざ春風吹き荒れる屋外の芝生エリアのベンチにて、イチャイチャとお弁当なんぞをつついている男女がいたらどう感じるだろう。

 こんな光景、昨年までの自分が目の当たりにしたら、殺意を抑えるのに多少の苦労を要していただろう。


「はい、あーん」

「あ……あーん……」


 学内でも五指に入ることは間違いない美女から供された食物を口に入れる現在の僕を、行き過ぎる男子学生が一瞥する。お前なんて爆死してしまえという念が篭った眼差しで。

 彼は一年前、いや半年前からやってきた過去の僕かもしれない。タイムマシンが実現し得ないなんて、誰も証明できていない。


 そんなしばしば向けられるいつかのミーからの冷たい視線に対し、優越感めいた感情がまるで無いといえば嘘になる。

 が、それよりもはるかに大きく感じるのは後ろめたさ。目の前にいる女性の長く艶やかな髪、美しい顔立ち、均整のとれたスタイルと、何をとっても僕みたいなものとは不釣り合いで、こうして過ごしているのが申し訳ないというか、いいのかなといった心持ちになる。


 優越感、後ろめたさという相反した感覚とともに、抱く思いがもうひとつ。


「はい、あーん」

「う、うん、えっと……」

「何よ。愛する彼女のあーんが受け取れないの?」


 俺の酒が飲めないのか、ぐらいのトーンで言われる。


「い、いや、そんなことはないんだけど……」

「そんなことがないんだったら、ありがたく拝賜なさいよ。はい、アーン」


 言いながら、箸でつまんだ食物をまた差し出してくる。


「あ、あのさ、普通こういうとき食べるものってこういうものなのかな?」

「え、なに? 好き嫌い?」

「いや、むしろ好きな食べ物ではあるんだけど……『今日は手作りのお弁当を製作してあげるから、ありがたくむさぼりなさい』って言ってて、まさかタッパーいっぱいのカールが出てくるとは思ってなかったから」


 澤多莉さんは、今僕が言葉にした通りのものを膝の上に乗せ、箸でそのスナック菓子をつまんでいた。


「しょうがないじゃない。面倒くさくなっちゃったんだから」

「だからって、どうしてカール?」

「こないだの旅行のときに買っといたのよ。せっかくだから関西らしいおみやげを買いたいじゃない」

「確かに今は関西限定だけど……」

「わかったら文句言わずに食しなさい。いつも心に麦わらぼうしと泥棒ヒゲよ」


 結局押し切られ、器用に三ついっぺんに箸でつまみあげたカールを、口の中に入れられる。うーん、水飲みたい。


 通りかかった男子学生が、こちらの方を遠慮なしにジロジロと見ている。驚嘆、好奇、嫉妬、羨望、害意といった視線を向けられることに慣れてはきたものの、気分の良いものではない。


「何ガンくれてんのよアイツ、シメてやろうかしら」


 上品なブルーのワンピースがよく似合っている、清楚なお嬢様然とした彼女の口から、こんな台詞が出てきているなんて、誰も思っていないだろう。


 今の僕を見てくたばってしまえと思うかつての僕に対して、抱く思いはもうひとつ。


 ……これはこれで、なかなか大変でもあるんだよ。



 食事を終えた若いカップルがやることなんて一つ。とてもとても気持ちの良い、すべてをさらけ出してのふたりの濃密なぶつかり合い。

 言うまでもなく、馬券の検討である。


「さて。桜は散っちゃったけど桜花賞ね。先週みたいに阪神競馬場現地参戦ってわけにはいかないけど、お互いにリベンジといきたいところね」

「いや、僕は大阪杯当たったんだけど。馬連とワイドで結構付いたし」

「二重丸付けた馬が2着だったのに、それが果たして勝利と言えるのかしら?」

「特に問題なく言えると思うけど」

「負け惜しみは聞きたくないわね」


 どっちが負け惜しみだか知らないが、一週間強に渡る旅打ちで、競輪やら競艇やらで稼ぎまくった金銭を大阪杯で全て失ったにも関わらず、澤多莉さんは不屈の光を発しているのだった。


「さて、勝つのはどの馬かしら……」

「まあ今回に関しては、考えるまでもない気がするけど」


 カール入りのタッパーと代わって膝に置かれたタブレットを二人で覗き込む。

 澤多莉さんは画面に映し出された馬柱の、一番端を指差す。


「ラッキーライラックね。でも桜花賞で1枠は死に枠だって言うじゃない?」

「でも、ここ数年の枠順見ると、強い馬が1枠に入ったことがほとんど無いし、阪神マイル自体が極端に内枠不利ってわけでもないと思うんだ」

「なるほどね。確かに同じ舞台の阪神ジュベナイルフィリーズでメジャーエンブレムやソウルスターリングが勝ったときは1枠だったわけだしね」

「その2頭を引き合いに出すのは不吉なような気もしなくはないけど、まあそういうことかな」

「ふーむ」


 指を顎に置き、澤多莉さんは黙考する。

 さすがの彼女も、ここは僕と同様にラッキーライラック本命とした方が確実だと思うのだが。ちょっと他の馬とはモノが違うように思える。

 が、彼女は難しい顔で馬柱を見つめている。


「もしかしたら内枠で詰まっちゃうことを心配してるのかもしれないけど、今回は多分大丈夫だと思うよ」

「ほう、なにゆえ?」

「ほら、2番から7番までが控えそうな馬ばっかりだからかぶされる心配は少ないと思うんだよね。元々外回りだから詰まりにくいし」

「2番から7番が控えそう……なるほど確かに。なるほどなるほど」


 なおも考えを巡らせている様子の澤多莉さん。


「リリーノーブルやマウレアはさすがに格付けが済んだ気がするし、アーモンドアイは未知数な部分もあって面白いけど人気してて積極的に買えるほどの裏付けはない、か……」


 まったく同じ見解である。そうなると、やはり僕と同じ答えを出さざるを得ないのではないだろうか。


「これはさすがに逆らえないか」


 諦めたように呟く。一番人気を本命にしたことは(オジュウチョウサンを除いて)これまで一度もなかった澤多莉さんではあるが、どうやら観念したようだ。


「しょうがないんで、ハーレムラインを本命にするわ」

「……はいっ?」


 また素っ頓狂なことを言い出す。まず10番人気までも入らないような伏兵馬である。

 澤多莉さんは馬柱を指差し、どこか得意げな口調で言う。


「ほら、目をかっぽじってよく見てご覧なさい」

「目をかっぽじったら失明しちゃうけど」

「この馬、今年に入ってからマイルで3連勝よ。しかもスローにもハイペースにも対応してる。相当のツワモノよ」

「うーん、確かに実力あるかもしれないけど、GⅠで通じるほどかなあ? それに関西への輸送も初めてだし、ほぼ毎月走ってて、疲れとかもありそうだし……」

「月イチの出走ぐらいなによ。そんなこと言ったら権藤博投手なんて、権藤権藤雨権藤っていう、現代ではおよそ考えられないようなローテーションで酷使されていたのよ」

「いつの時代の話それ?」

「それに、あなた自身がさっき言ってたじゃない」

「?」


 澤多莉さんは細く白い指で、タブレット画面をスッと撫でた。


「2番から7番までが控える競馬をするんでしょ? だったら8番に入ったこの馬は位置どりをしやすい筈じゃない? 大概穴を開けるのは先行馬って決まってるのよ」

「うーん、そうかもしれないけど……でも調教師もずいぶん弱気なこと言ってるよ。うまく運べて入着ぐらいかなだって」

「そんなもん優等生が言う『オレ、テスト勉強全然してねえよ〜』と同じようなものよ」

「そうかなあ……」


 僕はどうしても首を捻ってしまう。どう考えても調教師の言う通り、入着できれば御の字の馬としか思えない。


「あなたもハーレムライン買っておけば、残り少ない余生、それこそハーレム生活を送ることだって夢じゃなかったのに」

「一応まだ二十歳なんだけど……」

「まあラッキーライラックなんて、もし当たっても大したリターンのない、しかも外れるであろう馬に賭ける以上、ハーレムは諦めてもらうしかないわね」


 微かに口角を上げ、こちらを上目遣いで見やってくる。


「ま、あなたには私一人でさえ手に余っちゃうんでしょうけど」

「うぐっ」


 射抜かれる。この人はこういう反則をしばしば繰り出してくる。

 かつての、リア充シネ精神に満ち満ちていた僕に対して、やはりきちんと言わねばなるまい。


 申し訳ない。やっぱり幸せですわ。


(つづく)



 ◆桜花賞


 澤多莉さんの本命 ハーレムライン

 僕の本命 ラッキーライラック

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